第116話 閉ざされる未来
新幹線が運行が遅れたということはないはずだが、
白雪としては、一時間後に照準を合わせて気持ちを入れていたのが肩透かしを食らい、結局五時間以上待たされ、何とも言えない集中力になりかけている。
(気合い、入れないと)
話したのは一月ほど前の一度きり。
あの時は白雪もとても話し合う心境になくて、かつあっちもすぐ京都に戻る予定もあったため、ほとんど話し合えなかった。
今回も話がまるで通じない可能性もないわけではないが、相手は大人だ。
納得のできる説明をすれば、考慮くらいはしてくれると思いたい。
呼吸を整えていると、コンコン、と扉がノックされた。
「白雪様。十色泰様がいらっしゃいました」
「……はい。すぐ伺います」
時計を見ると、時計は六時半を指している。
この季節、もう外は真っ暗だ。
白雪は一度気合を入れ直すと、扉を開ける。
立っていたのは貫之の執事だ。
執事が「こちらです」といって歩き始めたのに、白雪が続いた。
案内されたのは、応接室。
開かれた扉の向こう側、正面のソファに座っているのは、予想通り十色泰だ。
その、横手のソファに貫之もいた。
そしてそのリビングテーブルの上には、先ほど貫之の執務室で見た書類が、ペンと共に置いてある。
つまりこれが、最後のチャンスという事だろう。
「お待たせいたしました」
そういって、完璧な礼儀作法に則った礼をすると、泰が感心した様な声をあげてから立ち上がった。
「おお。久しぶりだ、我が花嫁。相変わらずの美しさに、私の心は張り裂けんばかりの喜びに打ち震えている」
そのあまりに大仰な言い様に、白雪は思わずげんなりした。
何か悪いモノでも食べたのだろうかと思うが、それともこれが、『名家』と呼ばれる者の間では当たり前なのか。
だとしたら、今後やっていけるとは到底思えない。
そういう危惧すら抱きかけたが、貫之を見てもわずかに顔をしかめていたようなので、さすがにこれは一般的ではないようだ。
ある意味、白雪はおそらく初めて、伯父と同じ感想を共有したのかもしれないと思うと、少し笑いたくもなってくる。
その笑いすら計算づくだとしたら、この十色泰という男に対する評価を改める必要があるが――。
「ふむ。このような言葉では私の愛は伝わらなかったかな?」
どうやら本気で言っていたらしい。
正直、玖条家とか十色家とか、あるいは年齢差とかを無視しても、この男は生理的に受け入れられないという気すらしてくる。
結婚生活など、想像すらしたくないが――諦めるしかないのだろう。
ただそれでも、大学に行くことだけは、譲りたくない。
「すみません。私の様な若輩では、受け止めきれなかったようです」
「何。それはこれから慣れていけばいいのだ。これから夫婦になるのだからな」
冗談じゃない、と言いたくなるが、かろうじて抑える。
そして、大きく深呼吸をしてから、白雪は泰に向かい合った。
「十色様。前はあまりお話できませんでしたが、お願いがあります。私の、央京大学への進学と、あの大学で学ぶことを認めてください」
一応、事前に貫之から話は聞いていたのだろう。
意外そうな顔はしてこなかった。
代わりに見せられたのは、心底小馬鹿にしたような、まるで白雪を見下すような表情。
「ご当主殿に、君がそういう要望を持っていると聞いた時は、冗談だと思ったのだが……本気かね、君は」
「冗談でこのようなことは申し上げません」
すると、今度はいかにも面倒だ、と言わんばかりの顔になる。
「それに一体、何の意味があるのだね?」
「は?」
「だから、君がその……央京大とやらで学ぶ理由だ。それが、この私の妻として、何の役に立つのかと聞いている」
白雪はしばらく、言われた意味が理解できなかった。
別に、この男の妻になるために必要だから大学に行くわけではない。
白雪自身が、その勉強をやりたいと思い、あるいは将来に役立つと思うからこそ、やっていきたいと考えているだけだ。
「私は高校生として三年間学んだ、その先の進路として、自分を高めるための道として、この進路を選んだのです。あえて言うなら……私自身を高めるため、です。それはひいては、配偶者とっても意味があると……」
「いらん」
「え?」
「私の妻にそのようなことは不要だ。妻とは、夫の後ろに控えて、夫を立てて、家庭を
思わず唖然とした。
一体それはいつの時代の価値観だというのか。
彼は現在三十五歳という話だったが、もう、彼の世代ではそんな時代錯誤な、それこそ昭和以前の価値観など、とうに価値を失っているはずの世代ではないのか。
「それはいったい、どういうことですか。女性には、自分の能力を発揮する場面など、必要ないというのですか?」
「そうだ。少なくとも私の妻には、そんな必要はない」
「なっ……」
何かを言おうとして、言葉が続けられなかった。
もはや、価値観が違い過ぎる。
何をどうやっても、この男と白雪では、あらゆるものに対する価値観が違うのだろう。
この男からすれば、おそらく妻というのは自分を飾り立てる装飾品程度の価値しかないに違いない。
それを是とする女性もいるだろうが、白雪には断じて受け入れられない価値観だ。
「伯父上。いくら何でも、私はこのような方とは結婚したくありません。再考をお願いします」
もはや我慢できなかった。
この男だけはない。
これなら、まだ他の方がマシだ。
これでいっそ征人とかであれば、まだ諦めもついただろう。
そしてここまではっきり言えば、あるいは貫之でも、考慮はしてくれるのではないかいう期待もあった。
だが。
「これに関して、お前の意見など最初から聞いていない。彼を説得できないなら、この話は終わりだ。いずれにせよ、その書類にサインをしなければどうなるかは、お前はよく分かっているだろう」
その言葉が、白雪の心を砕いた。
貫之の冷酷な宣言に、白雪はこれ以上何を言っても無駄だということが分かってしまった。
それはつまり、両親を離れ離れにする、という宣言である。
白雪にとって、あらゆることに勝る最優先事項。
そして、貫之に逆らわない、逆らえない最大の理由。
それが、父と母の眠るあの地を守ることだ。
泰が少しだけ不思議そうな顔をしているのは、何のことか分からないからだろう。
この場ではっきり言わなかったのは部外者がいるからだろうが、白雪にはその意味は分かりすぎるほどに分かる。
「わ、たし、は……」
呼吸が苦しい。
胸が痛い。
心臓が、早鐘の様に脈打っているのが分かる。
「早くしろ。私とて暇ではない。いつまでも無駄な手間をかけさせるな」
父と母を守りたい。
ただそれだけを考えて、この十年間生きてきた。
それを今、ここで失う事は出来ない。
そのためだけに、白雪は玖条家にいたのだ。
フラフラと、白雪はテーブルの上のペンを手に取る。
これにサインさえすれば、少なくともこの十年、白雪が必死にやってきたことだけは、無駄にならない。
おそらく両親の墓に、貫之が手を出してくることはないだろう。
その約束を違えるようなことはないという程度には、貫之のことを信じられる人間だと思っている。
だから。
ただ、この書類にサインをするだけだ。
今まで何度も書いてきた自分の名前を、その空いている欄に書くだけ。
それで、これまでの十年間の苦労が報われる――はずだ。
たったそれだけのことのはずが――手が、痺れる。
手にあるはずの、ペンの感覚がない。
手が、動かない。
自分が立っているのか、座っているのかすら、分からなくなってきた。
視界が黒く染まる。
何も見えない。
頭が、何かで殴られたかのように痛むのに、その痛みが遠い。
手足の感覚がなくなってきて、やがて力そのものが体中から失われる。
呼吸ができない。
胸が苦しい。
頭がくらくらして、何も考えられなくなってきた。
名前を、
ただ、
書く、
だけ、
なの、に――――。
(和樹さん、助け、て――)
そのかすかな願いを最後に、白雪の意識は、全て暗く塗りつぶされていた。
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