第113話 暗雲

 二月も半ばに差し掛かり、白雪の様子はさらに沈んでしまっているように思える。

 和樹はそれが気になって仕方がなかった。


 普通に考えれば、受験が終わって、あとは卒業を待つのみだ。

 高校時代、それほど親しい友人がいなかった自覚のある和樹でも、受験が終わった後の解放感は何とも言えないものがあったし、クラスメイトと遊びに出かけたりもしたものだ。


 もっとも、白雪の場合は推薦で先に決まったが、クラスメイトらは現在まさに受験本番中。そういう意味では、一人浮かれるわけにもいかないというのはわかる。

 聖華高校は、三年のこの時期は基本的に通常の授業はもうないらしい。

 希望者制の受験対策の補講が行われているらしく、それのために来る、という生徒がほとんどだ。それもあって白雪はむしろ行きづらいだろう。

 だがそれでも、そのテンションを家にまで持ってくる必要はないはずだ。


 和樹と話しているときは、今までと変わらない――ように見える。

 だが、白雪と出会って、家族のような距離感になってから二年あまり。

 いくら和樹でも、白雪が何か隠しているのはわかる。

 ただ、それは今の白雪の、少なくとも学校関連からは見えてこない。


 となれば――考えられるのは、おそらく実家関連だろう。

 何があったのかは、和樹ではうかがい知ることは到底できない。

 ただ、一昨年の正月の後の様子や、墓参りの時に聞いた実家との確執を聞く限り、白雪にとって『玖条家』という存在は、重荷どころか疎ましいとすら思うようなものである可能性が高く、関わりが増えれば彼女の気持ちが沈む要因になるものなのだろうというのは分かっている。


 だが同時に、それは、いくら親のように慕われているとはいえ、踏み込んではならない領分だというのは否めない。

 大学の進学を認められていないということはないはずだ。

 先日、学費の振込を行ったと言ってたし、認めないのならそもそもお金を出しはしないだろう。

 たぶん他にあるのだろうが――わからない。


 結局和樹にできることといえば、普段通り接してあげるくらいしかないのだが、今ならもう少し白雪が上向けるイベントがある。


「白雪」


 いつものように食事が終わって――食事中は本当にいつも通りなのだがやはりどこかに陰りがるように見える――家に帰る前の白雪を、玄関で呼び止めた。


「何か忘れ物……でしょうか?」

「明後日の話だが……」

「明後日……あ」


 白雪が何か今頃思い出したような顔になる。

 今日は二月十二日。

 明後日、つまり二月十四日は世間的にはバレンタインデーだが、同時に白雪の誕生日でもある。

 今回は和樹が前日深夜まで出張で出かけているため、どこかに出かけようかと考えていたのだが、白雪の希望で和樹の家でささやかなパーティをやろうと約束していた。


「忘れてたのか?」

「いえ……そうではないのですが……すみません、言い忘れてました。その日……というかそのあともしばらく、ちょっとこれなくなるかもです」

「え?」

「実家関連の用事がありまして。申し訳ありません。連絡が遅くなりました」

「そ、そうか……京都へ?」

「ちょっとまだ未定なんです。ご迷惑はおかけしませんんから」


 何かちぐはぐな印象だ。

 というより、という気がした。

 それと、ここ最近ずっと感じている嫌な予感が重なる。


「白雪」


 和樹は、玄関を出ようとする白雪の手をつかみ、引き留めた。


「何か心配事や悩みがあるなら、相談してくれ。頼りないとは思うが……」


 すると白雪は向き直り、和樹の手を両手で包み込んだ。


「そんなことありません。和樹さんは、私が世界で一番信頼して、頼りになると思っている方です。それは……それだけは、この先もずっと、変わらないです。私にとって、誰よりも大切な――大切な家族、ですから」


 そういうと、手を解いて、白雪は扉の向こう側に消える。

 一瞬呆けていた和樹が、急ぎ扉を開けた時、すでにエレベーターは上階に登り始めていた。

 ややあって四階にエレベーターが到着する音が響き、その後に扉が開く音がかすかに聞こえる。


 今行けば、あるいはまだ話をすることはできる。

 だが、無理にそうする必要があるかと言われれば、ない。


 結局和樹は、自分が感じている嫌な感覚をねじ伏せると、家に戻り、扉を閉じてしまった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 二月十四日。

 世間的にはバレンタインデーで盛り上がる日だが、和樹はこの日、不安に苛まれていた。

 仕事もやることはあるのだが、全く手につかない。


 白雪がいない。

 それ自体は別におかしなことではない。実家の用事があると言っていたから、家にいないのは当然だ。

 昨日は夜遅くに帰ってきたので、すぐ眠ってしまった。

 起きたのは八時過ぎ。その後、すぐ白雪に誕生日を祝うメッセージだけ送ったが、その返事すらない。


 だが、頭の中でけたたましく警鐘が鳴り続けている。

 致命的な――あるいは絶望的なが訪れようとしていることへの、警鐘。

 それは和樹にとって苦い思い出のある感覚だが、同時に、白雪をかつて救ったものでもある。


 ここ一ヶ月ほど、白雪の様子は明らかにおかしかった。

 見た目にはそれほど分からなくても、一緒にいた和樹にはわかる。

 ただそれを、それでも他人だからと踏み込まないようにしていたのは自分自身だ。

 しかしそれが今、完全に裏目に出ていることは、自覚せざるを得ない。


 言い知れぬ不安が和樹を苛み続ける。

 だが、実際にどう行動すればいいのかが、全くわからない。

 そもそも、白雪がどういう状況なのかすら把握していないのだ。

 話を聞く機会はいくらでもあった筈なのに――聞いていない。


 その、ある種日和見ひよりみな判断をした自分を、殴りたくなってくる。

 もっと踏み込んでちゃんと聞いていれば、あるいは白雪の今の悩みをちゃんと話してくれたかもしれない。

 その機会はいくらでもあったのに、結局和樹は踏み込まなかった。

 なぜ踏み込まなかったのかと、この一ヶ月の自分をどやしつけたくなるが、文字通り『後悔先に立たず』だ。


 考えてみたら、白雪の実家である玖条家がどこにあるかすらわからないのだ。

 調べれば、たぶん京都の家の場所くらいはすぐにわかるだろうが、もしこちらの別宅などがあるなら、それは全くわからない。

 そもそも、どこに行ったのかわからないのだから、探しようもない――と思っていると。


 不意に、スマホが着信音を鳴らした。

 白雪かと思ったが、違う。

 発信者はわからない。番号は表示されているが、見たことがない番号だ。

 こんな時に営業の電話かと思うが、あるいは仕事関連である可能性も高い。

 今日は仕事が手につくとは思えないが、かといって無視もできないので、通話ボタンをタップする。


『ああよかった。出てくれた。えっと、月下和樹さん……ですよね?』


 聞こえてきたのは若い男性の声。

 ただ、聞き覚えが――どこかである気はするが、思い出せない。


「そうだが……あなたは?」

『覚えてくれているかわからないですが……西恩寺征人です。玖条さんの前の、聖華高校の生徒会長だった』


 その自己紹介で思い出した。

 白雪が生徒会長をしていた時に訪れた、聖華高校の文化祭。

 その時に会った青年だ。


「なぜ……この番号を?」


 和樹のこの番号は、仕事関連で教えている人はいるが、公開はしていない。基本、最初はオンラインでやり取りをして、必要だと思った一部の人にだけ教えている。


『まあそこは私にもいろいろ伝手つてがありまして。……って、のんびり話している状況でもないです。できればすぐ会えませんか。今、あなたの家の最寄り駅近くなんです』

「いや、今ちょっと立て込んでいて……」


 突然こんな連絡をしてきたということは、何か急ぎの用事があるのだろうが、こちらとしても他のことに構う余裕は、正直ない。

 だが、次の征人の言葉で、その考えは覆る。


『玖条さんのことです』

「なに!?」

『彼女のことで、お話があります。来ていただけますね?』


 そういうことなら、和樹に否やはなかった。

 征人は、白雪と同じの人間だ。少なくとも和樹よりは情報を得られる立場にあるに違いない。

 なぜ突然連絡をくれたのかといったことは気になるが、そんな疑問を考えるのは後回しでいい。

 征人のいる場所をもう一度確認し、それからすぐに駅前に向かう。


 落ち合ったのは、駅から程近いところにある、少し時代がかった喫茶店だ。

 なんとなくだが、あまり人に聞かれるべきではないと思えたからそこを選んだ。

 店に入って見回すと、すぐに征人が見つかった。

 席に着くと店員が注文を聞いてくるので、とりあえずコーヒーを頼む。


 一年半ぶりに会う征人は、記憶しているものとは印象がだいぶ違った。

 あの時は制服姿だったから、その印象が強かったのもあるだろう。

 今は和樹の服装に似た感じのジャケットを羽織った姿だが、これだけの美形が佇んでいる様子はとても絵になる。

 ここはあまり若い人が来ないような喫茶店だが、これで若い女性が多いカフェなどを選んでいたら、さぞ周囲から注目されていたに違いない。


「お久しぶりです、月下さん。一年半ぶりというところですが……旧交を叙する、という感じではないですし、そういう事態でもないですね」

「単刀直入に聞く。今の白雪の居場所を、君は知ってるのか?」

「完全に把握はしていません。ですが、いくつか可能性のある場所は推測できます」

「ぜひ、教えてほしい」


 やや前のめりになる和樹に、征人は待ってほしい、とばかりに手をかざす。


「その前に、今の彼女の状態を説明する必要があると思います。その上で、関わるかどうか、あなた自身が決めてください」


 この時和樹は、この年下の青年に、確かに気圧されるような感覚を覚えた。

 それが、果たして名家の令息という存在ゆえなのか、それはわからなかった。

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