第112話 白雪の居場所
昼頃に和樹の家に来た白雪だったが、和樹は留守だった。
わかっていたことではあるので、そのまま夜ごはんの準備を始める。
和樹は昨日から今日にかけて出張で、話によると夕方には帰ってくるとのことだった。白雪も今日は出かける用事があるが、先に下ごしらえのために来たのだ。
もしかしなくても、最近自宅のキッチンより明らかに利用頻度の高い和樹の家のキッチンで一人料理をしていると、夫の帰りを待つ妻のような気分になるが――直後、現実に気付くと、ものすごい勢いで気持ちが沈む。
その落差は、文字通りの意味で天空から地の底に落ちるかのようだ。
「どうしたら……いいのでしょう」
先のあの対面のあと、十色泰とは会っていない。
どうもあの翌日には京都に帰ったらしい。
話したくもないのでそれはそれで助かるが、勝手にいろいろ進められては困る。
さすがにまだ白雪は婚姻できる年齢ではない――あと
とはいえ、現状は考えていたほぼ最悪のルートが目の前に敷かれている。
京都に連れ戻され、挙句にあんな男の妻になり、形だけの大学に行かされる。
その未来を考えただけで、
だが、この未来以外に、白雪の望み――両親が安らかに眠り続けてくれること――を果たせる道が、現状ないのも事実だ。
このままでは、高校卒業と同時に、あるいは十八歳になった瞬間に結婚させられる可能性すらある。
さすがに、高校を卒業するまではこちらにいられるとは思いたいが、卒業式は三月一日。あと一ヶ月と少ししかない。
改めて、両親がすごいと思った。
おそらく、これに近い状況になっていたはずだ。
それでも、二人はお互いだけを選んだ。
それが『最優先事項』だったから。
そこまでして結ばれた両親を、たとえそこにあるのはわずかな遺骨だけだとしても、引き離すことなど、白雪には到底できない。
それに現状、白雪にそこまでの覚悟があるかといえば――ない。
何より、白雪自身がその覚悟を固めたとしても、和樹に同じ覚悟を求めることができるはずもない。
いっそ、和樹に告白することも、当然考えた。
だが、それは絶対にできない。
こんな面倒な状況になってる自分を、和樹に押し付けるような行為が、できるはずもない。
「本当に……時が止まってほしい」
初詣の時に考えてしまったことが、今では切なる願いとしてあふれてくる。
このままの時間が流れてくれれば。今がずっと続けば。
ありえないと思っても、そうあってほしいと願ってしまう。
好きな人のそばにいて、一緒に食事ができる今のこの生活だけで、白雪は十分だ。
それ以上など望まない。
だが、そのささやかな願いすら、今の白雪には遠い。
現状、奇跡でも起きない限りは、閉塞した未来しかない。
それが分かっていても、白雪はそれを回避する術を思いつけないでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
広いキャンパスに点在する陽光を受けて輝く白い校舎に、白雪は目を細めた。
夕飯の準備を一通り終えた白雪は、一か月半ぶりに央京大学にきていた。入学手続きのためだ。
通常、郵送と入学金、授業料の振込だけでいいのだが、白雪の場合は親の保証印といったものがない。そのあたりの事情を説明する文書を合わせて封入する必要があるのだが、それも面倒だと思えたのと、気晴らしのために直接行くことにしたのである。
もちろん、振込自体は先に済ませてある。
情報学部棟に行って、一通りの説明と手続きが終わったところで時計を見ると、午後三時。
ちょうど講義が終わるタイミングだったのか、学生がちらほら見えて、何人かは白雪を見ているようだ。
(今日は制服じゃないから、ここの学生に見えるのでしょうか)
もっとも、今のままだとここに通う未来はない。
それでも入学手続きをしたのは、せめてもの抵抗でもある。
次に来るとしたら、入学式になるだろうか。
もう一度、学校の様子を目に焼き付けようと、白雪が歩き出したところで――。
「あれ? 確か……玖条さん、だっけ?」
名前を呼ばれて、驚いて振り返った。
この大学で白雪の名前を知ってる可能性があるのは、先ほど会った事務員の人か、あとは推薦入試の面接を担当した人か――。
だが、振り返った先にいたのは、そのどちらでもない。
「えっと……」
「覚えてないかな。白翼祭の時に大藤研究室の展示で会ったんだけど」
「……ああ!」
そういえば、二か月余り前にここの学祭に来た時に、和樹の元所属の研究室の展示で会った女性だ。名前は――覚えていないが。
「倉持奈津美です。玖条白雪さん、だよね?」
「は、はい」
「名前が珍しいから覚えちゃったんだよね。今日はどうしたの?」
「えっと……入学手続きに。ちょっと説明する必要があることもあったので、直接来たんです」
「え。ということは合格したんだ! って早い……あ、推薦か。おめでとう!」
そう言って、わがことのように喜んでくれる。
それだけに、実は入学できない可能性があるという事実が、白雪には辛い。
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、四月から後輩なんだね。……あ、そだ。ちょっと話たいことがあるんだけど、今時間ある?」
「えっと……少しなら……」
「ん。じゃあついてきて。あ、なんか奢るから。といっても学食だけどね」
そういうと、奈津美は歩き始める。
白雪は慌ててついていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えと、じゃあごちそうになります」
「どうぞどうぞ。学食だけどレベル高いよ、ここは」
白雪と奈津美の前にあるのは、イチゴパフェ。
学食棟の一角にある喫茶店めいたところのメニューだ。
本当に何でもあると驚かされる。
寒い季節にアイスクリームというのは、意外に美味しいのだ。
一口食べると、冷たさと甘さが口に広がっていく。
「美味しい……すごいですね」
普通に街にある店で出されるものと比べても、遜色ない。
聖華高校にも学食はあったが、それほど広くないのでいつも混んでいて、あまり利用したことはない。それにメニューは日替わり定食以外は定番の丼もの、蕎麦、うどんくらいで、こんな洒落たメニューはなかった。
「っと。改めて。央京大学院、大藤研究室所属の倉持奈津美です。よろしく」
「聖華高校三年の玖条白雪です。よろしくお願いいたします」
そういうと、白雪は深々とお辞儀をする。
「聖華高校って……あのお嬢様学校?」
「お嬢様学校って……普通に共学校ですよ」
「あ、そうなんだけど……いや、でも納得だなぁ。それはともかく、さ、食べて食べて」
とりあえず勧められるままにパフェを口に運ぶ。
冬とはいえ建物内はかなり暖かくされているので、すぐ溶けてしまうだろうから、早く食べるにこしたことはない。
「あの、ところでお話って……」
「うん……。まあぶっちゃけます。月下先輩とはどういう関係?」
危うくアイスが気管に入りそうになって、白雪は思いっきりむせた。
「あ、ご、ごめんなさい。え。聞いちゃまずかった?」
「あ、いえ……大丈夫です。えと……その、ご近所なんです」
「でもご近所というだけで一緒に学祭来るのかな、と思って」
「その……家庭教師もしていただいていて」
「家庭教師!?」
奈津美が驚いたように声を上げる。
「あれ。月下先輩って、フリーエンジニアしてたはずじゃ」
「あ、はい。普段はそうです。そのちょっとだけ教えていただいているだけで。家が近いからというか」
「ふーん。それで親しいんだ」
「親しいというほど……では」
反射的にそう言ってしまった。
正直に言えば、たぶん最も親しい一人だとは思うが、なぜかこの時、それを肯定するのが
「いやでも、あの月下先輩が名前呼びするのって、私、月下先輩と仲のよかった数人の先輩達以外では、初めて見たよ」
その先輩達というのは、間違いなく誠や友哉、朱里のことだろう。
そういえば、学祭に来てた時も和樹は全員名前ではなく姓で呼んでいた。彼が名前で呼ぶのは、本当にに親しい相手だけなのだろう。
「その、長いことしていただいているので、いつの間にかそう呼ぶように」
「玖条さんも?」
「……はい」
すると奈津美は大きく息をついて、それから白雪をまっすぐに見る。
「玖条さん、月下先輩のこと、好きでしょ」
「……いえ、それはその……」
今回はもしやと思っていたので、内心はともかく、それほど動揺表さずに済んだ。
それにしても、美幸といい沙月といい、なぜほぼ初対面の女性に、ことごとく見抜かれるのか。それほどに自分はわかりやすいのだろうか、と思ってしまう。
「別に隠さなくてもいいよ。私も……好きだから」
「え……」
「学生時代から憧れてたんだ。ま、見事なくらい全く振り向いてもらえてないけど」
そういうと、奈津美は空になったパフェの器の底をスプーンで少しつつく。
「私だけじゃないんだけどね。月下先輩、結構人気だったから。他学部の子だけど、先輩と仲のいい別の先輩に頼んで、場をセッティングしてもらったって人もいたくらい」
和樹が女性に人気があるというのは初耳ではあったが――納得はできる。
見た目も、友哉や誠のような華やかさはないが、非常に整ってる方だ。それに加えて、誠実で、気配りもできて、あの面倒見の良さがあれば、少なくともある程度接していれば気になっても仕方がない。
「でもね。これがまあ見事に誰も先輩の気を引くことはできなかったの。なんだけど……私はまだ、諦めてないから。チャンス、巡ってくるし」
それは白雪に向けた言葉ではなかったので返事が出来なかったが、どういう意味かよくわからなかった。
「あ、ごめんね。
「は、はあ……」
なんというか、圧倒されてしまっているのを自覚した。
今まで、自分の周りにはいなかったタイプだからかもしれない。
その時、奈津美のスマホが呼び出し音を鳴らしてきた。
それを見て、奈津美が慌てたようになる。
「あ、ごめんなさい。お使い頼まれてるから、これで。じゃあ玖条さん、また春に会いましょうね」
そういうと、自分の分のトレイをもって、奈津美はあっという間に去っていった。
あとには白雪だけがぽつんと残される。
(いろいろな意味ですごい人だったな……)
あれほどはっきりと好意を表せるというのは、経験の差なのだろうかと思えてくる。本当に、今まであまりいなかったタイプだ。
白雪の周りには意外にカップルが多いが、誠と朱里はある意味参考にならないだろう。あるいは、朱里と奈津美は近いのかもしれないが、最初の条件が違いすぎる。
そして、沙月もやはり違う。
佳織も該当しない。
(大人……ってことでしょうか)
出来るなら、白雪も和樹に素直に好意を示したい。
だが、それは決して許されない。
何より、おそらくもうあと二カ月程度で、会えなくなるのだ。
だが。
(私がいなくなっても……和樹さんを幸せにできる人は、きっといますよね……)
白雪にとって和樹は、この先の未来を思い描くためには、なくてはならない人だ。
白雪の隣には、和樹以外は入る余地はない。
だが、和樹にとっての白雪もそうであるとは限らない。
というより、あのように好意を寄せてくれる人は、きっと他にたくさんいる。
和樹の隣が白雪の居場所になるとは限らないだろう。
むしろ、自分のようにとても面倒くさい事情を抱えた人間を、和樹がわざわざ選ぶ必要はない。
(あと……せいぜい二カ月……)
一度は覚悟したはずの、思い出だけをためてこの先を生きていくという決意。
いつの間にかその決意が揺らいでいた事実に、今更のように気付いた。
というより、最初から無理があったのだろう。
そんな決意で生きていけるほど、白雪は強くなかったのだ。
(もう……どうすればいいのでしょう)
窓辺の席であるため、視線を転じると、大きなガラス窓の向こうには明るいキャンパスが広がっていて、そこには多くの学生たちが見える。
しかしそこにいる人たちと同じような未来を、白雪はもう思い描けなくなっていた。
白雪の前には、ただ黒く、底が見えない闇色の未来だけが広がっていたのである。
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