第90話 和樹への依頼

 その日、和樹は本当に久しぶりに母校を訪れていた。


 私立央京大学。名前が短いので、略しても央京大、または央大と呼ばれるその大学は、和樹の家からはバスまたは車で十五分程度の距離にある。

 学生の頃は運動も兼ねて歩いて通うこともあった。歩いても一時間はかからない。


 意外と山がちなこの街にある大学らしく、広大な丘陵地帯に建設されたその大学は、九学部三十二学科と、国内でも有数の規模を誇り、そのすべてが同じキャンパスに在るため、単純な一つの敷地の私立大学としては、日本最大規模と云われている。


「相変わらず……めちゃくちゃに広いな、ここは」


 今日はバスで来たのだが、バスの停車場はこの大学専用のロータリーが併設されているほどだ。

 都会にある大学とはいえ、自然豊かなエリアにあるため、緑も多い。

 バスターミナルは大学の敷地の一番低い位置にあるため、要するにここから大学に行くにはひたすら丘を登り続けることになる。


 ちなみに、当然逆側から大学に入るルートはあって、そこはローカル線の支線の駅があるのだが、その駅からは歩いて十五分ほどかかる上に、バスなどもない。

 挙句にそっちも、ひたすら上り坂だ。


 そのため、非常に有名な大学でありながら、『都会の陸の孤島の大学』と揶揄されることもある。

 実際、繁華街などに出るのにバスまたは電車で三十分以上の移動(キャンパス内の移動含む)を強いられるため、大学の外に遊びに行くというのがそもそも大変な場所だ。


 それゆえか、キャンパス内の設備は非常に充実していて、実に三千席以上はある学生食堂『棟』や、服はもちろん、なんと冷凍食品などまで売っている購買部、さらには移動販売車ではあるが、生鮮食料品までキャンパス内で買うことができる。

 もちろん、学生価格、つまり普通に比べてはるかに割安だ。


「実際学生時代はよかったよなぁ」


 誠や友哉、朱里がよく家に遊びに来てはいたが、食事はほとんど学校で済ませていたし、買い置きの菓子類を買うなどもほとんど学校だった。

 普通の菓子などですら一割から二割安いのだから、学生の身としては当然だ。

 あれがどれだけ恵まれていたのかは、卒業して最初の一ヶ月で痛感した。


 時計を見ると、十三時十五分。待ち合わせは十三時半なので、さすがに十分だ。

 今日は、別に大学を懐かしむために来たわけではなく、かつての恩師に呼び出されたから来たのである。


 要件は依頼したい仕事があるとのこと。

 オンラインではダメなのかと聞いたのだが、直接会って話したいと言われては、仕方ない。

 わざわざ土曜日を指定して、こちらの仕事に配慮してくれているので、断る理由もなかった。


 和樹が属していた情報学部は、バスターミナルから一番遠い場所の一つだ。

 校舎のある場所までは、坂道を五分ほど登って、やっと到着する。

 学生時代は、ナチュラルにこれで運動になっていたんだと思わされる。


 季節は六月下旬、そろそろ夏の気配が濃くなる季節だ。

 朝や夜は気温が下がるが、昼間の暑さは、少なくとも故郷である長野の真夏に匹敵する。

 今が一番暑い時間帯であることもあり、待ち合わせ時間をもう少し早くするか遅くするべきだったかと後悔しかけたところで、ようやく日陰に入ることができた。

 ここからは、広大なデッキの下のエリアを通って、直射日光を浴びずに校舎まで行ける。


 来るのは三年振りだが、さすがにほとんど変わってはいないので、道に迷うことはない。

 さすがにまだ、部外者という雰囲気にもなっていないのだろう。

 特に呼び止められることなく、待ち合わせの研究室にたどり着いた。

 時刻を見ると、ちょうど十三時半になるところだ。


「月下です。大藤おおふじ教授、いらっしゃるでしょうか」


 そういって扉をノックすると、ほどなく開いた。

 開けたのは、メガネをかけたボブカットの女性。

 どこかで見覚えがある様な――。


「月下先輩、お久しぶりです」


 そういって、ペコリと頭を下げられて、ようやく思い出した。


「ああ、久しぶり。ええと……倉持か」


 倉持くらもち奈津美なつみ。この央京大の、同じ学部の二年後輩。

 同じ大藤研究室の所属で、和樹ともいくらか親交があった学生だ。かろうじて名前が出てきてくれた。

 と、そこまで考えて和樹は首を傾げる。


「あれ。倉持、もう卒業したんじゃないのか? 留年でもしたか?」

「ひどっ。違います。そのまま院に進んだんです。今は大藤先生の助手をやってます」

「ああ、なるほど。それはすまん。で、先生は?」

「今ちょっと出てます。先輩が来るから出迎えてくれって言われて待ってました。すぐ戻るそうですので、どうぞ」


 そういうと扉が大きく開かれ、和樹は中に入った。

 三年振りだが、大きくは変わってない。

 強いて言えば、おいてあるパソコンはいくつかは新しいものになっているくらいか。

 議論をやるためのテーブルの上もきれいに片付いている。

 とりあえず、そのテーブルの前にある椅子に座らせてもらった。


「でも本当に久しぶりですね、先輩。大藤先生は、いつ来てくれてもいいと言って送り出したのに、全然来ないとぼやいてましたよ」


 そう言いながら、奈津美は冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを出してコップに注ぐと、和樹の前においてくれた。

 暑い中歩いてきたので、とりあえず飲ませてもらうと、冷えた麦茶が熱くなった体を冷やしてくれる。


「俺も仕事があるからな。そんな気軽に来れないよ。近いとは言っても、ちょっと足を延ばすには遠いしな」

「後輩たちも会いたがってましたよ。もちろん、私も」

「まあ出てった人間が今更いても色々やりづらいだろう」

「そんなことはないですよ。みんな先輩のことを慕ってましたし」


 ここは、ソフトウェアの研究開発を行う研究室だ。

 新しい技術などを取り入れて何ができるかを研究する一方、古いシステムと新しいシステムをどうやって有効的に活用するか、という研究に特に重点を置いていた。

 この数十年でコンピューターやネットワークはすさまじい速度で進化を続けたが、その過程で作られたシステムが新しい仕組みでは老朽化したように運用効率が落ちているものも多い。

 しかしそれらは社会インフラとして重要なものも少なくなく、そういうものをいかに活用するか、といった研究を行っている。


 元々この大学の情報学部は他の大学と違い、元は文学部の一部として存在した学科を分離して作られた学部のため、アプローチが他の学校と異なる。

 そのあたりに惹かれて、和樹もこの大学を志望したのだ。


 もっとも、和樹は途中で実際にシステムを作るのが面白くなってしまい、在学中に父親の伝手などでシステム構築を手伝っていたら、いつの間にかそれが仕事になってしまうほどになった。


 この研究室でも特に優秀だといわれていて、教授も院に進んでさらに手伝ってほしいと言っていたが、和樹はそれを固辞して卒業、今に至る。

 ただその後も、年賀状のやり取り程度はしていたが、今回突然メールで『頼みたい仕事がある』と言われ、呼び出されたのだ。


「今日は土曜日ですから、みんないませんけどね。先生も先輩が来るのは黙ってましたし。知ってたら、来宮君とか佐山さんとかも、会いたがったと思いますよ」


 名前はなんとなく記憶している後輩の名前を言われ、少しだけ懐かしくなる。

 あまり、というよりほとんど人付き合いをしない和樹は、研究室の集まりも最小限しか参加しないような学生だったが、その割にはなぜか後輩にはよく慕われていた。

 確かに後輩が困っていた時に色々助言したりはしていたが、お世辞にもとっつきやすい性格ではないはずなのだが。


「もう今年で二十六だからな。すでに四捨五入したら三十歳だ。いつまでも若人の集まりにはついてけないよ」


 そういいながら、普段女子高生と一緒に過ごしているのは説得力なさすぎる気はしたが、そこは気にしないことにする。


「そんなことないと思いますけどね……先輩、面倒見いいし、かっこいいし」

「は?」

「い、いえ。なんでもないです。あ、先生戻ってきましたね」


 奈津美の言葉の直後に、扉が開く。

 足音でも聞こえたのだろうかと思ったが、和樹は全く分からなかった。


「おお、すまん、月下。来ていたか。久しぶりだな」

「大藤先生、お久しぶりです。ご無沙汰してました」

「うむ、相変わらず悪いと全く思ってないな。まあいい。呼び出してすまんな」


 入ってきたのは、頭に白い色の方が多くなりつつある、初老と言っていい人物。

 痩せ気味で、身長は百七十あるかないかというくらい。

 びしっとスーツを着込んでいて、ある種それがトレードマークの、この情報学部の教授の一人、大藤おおふじ正和まさかずだ。

 確か、今年で五十五歳だったはずである。


「いえ、仕事の話ってことでしたし。早速始めても?」

「うむ。倉持君、資料を持ってきてくれ」


 その言葉で、少なくとも奈津美も関わっているのが推測できる。

 ほどなく奈津美が持ってきた資料には、『大学間連携システム(仮)』だけ書かれていた。

 とりあえず受け取ると、教授が頷いたのでページを開く。

 そしてすぐ、自分が呼ばれた理由を納得した。


「これ……ベースはもしかして?」

「うむ。お前の卒業論文だ」


 この情報学部では、卒業論文または卒業制作を選ぶことができる。

 卒業制作とは、いってしまえばシステムそのものを構築すること。

 これは難易度は高いが、さほどの複雑性を求められない。

 所詮学生が作るものだ。

 そのため、大抵の学生は卒業制作を選ぶのだが、和樹は論文を選んだ。

 というのは、その時点ですでに多くのシステム構築に携わっていて、今更そんなもので卒業資格をもらうのが躊躇われたというのもある。


 そして和樹が提唱したのが、各大学、さらに国や企業の研究所などが持つデータを結びつけるためのインターフェース。

 機密性の高いそれらだが、同時にそれらは貴重な研究成果の宝庫である。

 ある研究でボトルネックとなってる問題の解決法を、実は全然違う研究所が研究していることだって、よくあることだ。


 そういうものを、有機的に結び付けられないかと考えたシステムを、和樹は提唱し、論文としてまとめ上げたのである。

 これは、すでにやっていた仕事の知識も多いに役に立ち、教授にも絶賛されたが、いかんせん話が大きすぎて、実現するにはまだ何年もかかるし、そもそもどれだけの協力が得られるかという問題があり、あくまで理論だけのはずだった。


「まさか……これを構築するんですか?」

「そうだ。産学官連携の大プロジェクトだ。それに、お前も加わってもらいたい」


 あまりに話が大きすぎて唖然としてしまう。


「エンジニアとしては興味がないとは言いませんが……」

「いや、違うぞ、月下。そのプロジェクトのメインメンバーとして参加してほしいんだ」

「え……は?」

「このアイデアは実はあれからあちこちで話題になってな。ついにいくつかの国の研究所や企業、大学で実証実験を行うことが決定した。それで、この研究室も中核として参加が決まっているんだが、そこにお前も参加してほしい」

「俺はただのフリーエンジニアですよ!?」

「発起人が何を言ってる。まあ、すぐに結論を出せとは言わん。資料には条件なども書いてある。開始も来年度からだから、まだ時間もある。そうだな……年内までに返事をくれればいい。ぜひ、考えてくれ」

「……わかりました」


 資料を受け取ると、カバンに入れた。

 呼び出された理由についてはよくわかった。

 確かにこれは、オンラインでやり取りしていい内容ではないだろう。


「うむ。できれば前向きに検討してもらえると嬉しい」

「先輩、私も協力しますから、是非一緒にやりましょうっ」


 和樹は奈津美の言葉に曖昧に頷くと、一礼して研究室を辞した。


「さて……どうしたものか」


 もし引き受けるとなれば、生活も大きく変わるだろう。

 資料を見ると、始まるのはちょうど一年後くらい。

 とりあえず今日のところは帰ってから考えるとして――和樹は久しぶりに、学食で少し遅い昼食を食べることにして、食堂棟へと足を向けた。

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