第一部 十三章 高校最後の夏

第89話 思わぬハプニング

 六月に入り、本格的に夏が近付いているのを実感するようになってきた。

 ニュースでは連日、今年の夏は例年を上回る暑さになると報じている。

 正直、白雪にとっては夏の暑さは子供のころからのことで、例年以上に暑いといわれても、いつも通りではないかと思ってしまう。


 一つには、正直に言えば京都よりこちらの方がだと思えているのというのもある。

 あの盆地は本当に夏は暑い。

 なぜあんな場所に都市を造ったのだろうと思ってしまう。


 もっとも、どちらにせよ空調を使わなければ夏に熱中症になるのは、体力のない老人だけではない。

 子供のころ、両親と一緒にいた頃は、冷房は電気代がもったいないというのもあって控えることが多かったが、そもそも十年近く前より今の方が、明らかに暑い。

 弱めに設定するとはいえ、冷房を使わないという選択肢は、ほぼあり得ない。


 学校では、生徒会としては完全に最後の仕事になる、体育祭の引継ぎがまさに佳境に入っていた。

 体育祭それ自体は実行委員会が設置されているので、主たる運営はもちろんそちらが行うわけだが、生徒会はそのサポートとしてそれなりに仕事がある。


 ちなみに今年の生徒会長は、三人の立候補があり、投票の結果過半数を獲得したある男子生徒が当選した。

 入学時点の主席合格者であり、慣例なら副会長に任じられていたかもしれない生徒だ。ある意味、慣例通りになったと言えなくもない。

 能力やリーダーシップ含めて大きな問題はなく、今のところ次の生徒会への引継ぎは順調だ。


 なお、雪奈や佳織が警戒した、白雪に対して過剰なアプローチをしてくるのでは、という懸念は、完全に杞憂で終わっている。

 なんでもすでに彼女がいるらしい。

 それはそれで、少し羨ましくもなるが。

 他の生徒会の役員も当然決まってるが、そこに彼女である女子生徒は入ってないので、公私混同をするような生徒ではないようだ。

 また、通例通りに副会長に一年生の主席生徒が選ばれている。


「自分でやっといてなんですが、私、慣例破りまくりましたね」


 一年の時は副会長就任を断り、それにも関わらず会長推薦を請けて生徒会長になって。しかし副会長は前任者を継続指名。

 もっとも、俊夫がいなければこうもうまく回せた自信はない。

 彼の経験は本当に助かった。


「まあ何とかなりそうで、何よりです」


 そう言いながら、白雪は大きな掃除用ブラシを手に取った。

 今白雪がいる場所はお風呂。

 と言っても、自分の家ではなく、和樹の家だ。


 暖かく、というより蒸し暑くなってきて、この時期は風呂場などは油断するとあっと今にカビが繁殖する。

 その前に、一度徹底的に掃除して、カビ防止の燻煙をすべきである。


 もちろん、自分の家はすでに終わっている。

 和樹もそのうちやるとは言っていたが、ちょうど時間があるのでやらせてほしいと言って押し掛けたのが今日。

 ここしばらくは帰りが遅くなることが多く、夕食すら一緒にできないことが多くなっていたので、週末は数少ないチャンスだ。

 もっとも、生徒会の引継ぎが終われば時間は出来るだろうが。


 ただ、今は和樹は家にいない。

 ちょっと買い物があると言って出かけている。

 その間に掃除させてもらうことにしたのだ。


 普通に考えたら、建前上はご近所さん以上のものではないのに、勝手に家に上がり込んでいることになるのだが、それに関してはもう今更だ。

 もっとも、風呂場はそれほどは汚れていない。

 和樹もそこそこきれい好きで、定期的には掃除しているらしい。

 といっても、隅の方などは甘いところもある。

 そしてカビというのはそういう場所から繁殖するものだ。


 三十分ほどで、満足できるほどにきれいになってくれた。

 時刻を見ると、まだ十二時前。

 和樹は昼には帰ってくると言っていたし、お昼は何か買ってくると言っていたから、特にお昼ご飯を用意する必要はない。


「さて、あとはある程度時間をおいて乾かせばいいですね」


 独り言のようにそう言った直後、インターホンの音が響いた。

 この音は扉の前からの音。つまり、和樹だろう。

 鍵は勝手に開けるだろうが、玄関まで迎えに行きたくて慌てて飛び出そうとして――。

 足が、何かに引っかかった。

 直後。


「ふにゃああああああああ!?」

「ただい……白雪!?」


 和樹が慌てて飛び込んできた。


「すみません、変な声出して……引っかかったみたいで」


 シャワーのレバーにハーフパンツの裾が引っかかり、水が出てきてしまったのだ。

 いきなり最大水量になったらしく、盛大に冷たい水を被ってしまった。

 いくら六月とはいえ、いきなり冷水はさすがに冷たい。

 とにかく急ぎ水を止めた。


「失礼しました。掃除は終わっていたのですが……」

「ちょ、ま、白雪、とりあえずっ」


 いきなり和樹がバスタオルを放る。

 それを受け取ってから、白雪は自分の格好に気付いた。


 風呂場を掃除するために、今の服装は上は普通の綿のTシャツ、下はハーフパンツで、後は下着のみ。そしてそれに、思いっきり水を被ればどうなるか。


「ふえぇぇ?!」


 思わずバスタオルを思いっきり羽織る。

 そのバスタオルで隠された下は、はっきりと下着がシャツに透けて見える状態になっていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「と、とりあえずお借りします……」


 そういうと、白雪は寝室の扉を閉じた。


 ようやく落ち着いた白雪が着ているのは、Tシャツ、それにスウェットパンツだ。その上に羽織る薄手のカーディガン以外は、全て和樹の服である。

 白雪が着てきた服は、カーディガンを除いて下着まで全て見事にびしょぬれになり、今は乾燥機で乾かしている最中だ。


 あの後、とにかくすぐに濡れた服を脱ぐ必要があったわけだが、当然だが白雪は着替えなど持ってきてはいなかった。

 体を冷やさないように、ということで暖かいシャワーを浴びたが、着替えがない。

 なので、和樹の服を借りざるを得なかった。


 すぐ上のフロアなので、着替えを取りに行けばいい話ではあるが、上のTシャツはともかく、下のスウェットパンツは抑えていないとさすがにずり落ちてしまう。

 その状態を他の人に見られるのは、さすがに恥ずかしいどころではない。

 そもそも下着すらつけてない状態なので、たとえマンション内とはいえ、外に出る気にはなれない。

 これが隣室ならまだしも、フロアが違うと人に見られる可能性は大幅に上がる。

 かといって、和樹に取ってきてもらうという選択肢は、ない。

 いくら何でも下着を持ってきてもらうのは、恥ずかしすぎる。


 そんなわけで、乾燥機で乾かし終わるまで待つしかなく、かといってずっと風呂場にいるわけにもいかないので、和樹に服を借りることになったのだ。

 当然だが、下着は着けてないということになる。


 さすがにその状態は和樹も良くないと思ったのか、寝室から出てこないように、と言われてしまい、白雪がいるのは和樹のベッドの上である。

 和樹はダイニングで、とりあえず買ってきた惣菜を片付けて、昼食の準備はしているようだ。

 乾燥機が終わるまでは、まだ二十分ほどはかかる見込みだ。

 その間はとりあえず待つしかない。


(み、見られちゃいました……よね)


 一瞬、おそらく一秒程度だろうが、水で盛大に透けた下着姿は多分見られた。

 もっとも、それで困ることは何一つありはしないが、気持ちとしては複雑だ。

 今日の下着はグレーのもので、掃除するつもりだったからお洒落なものではない。

 どうせ見られるなら、もっと可愛いものを着けてくればよかったなどという考えが頭をよぎるが、すぐ慌ててその考えを振り払う。

 むしろすぐにバスタオルを放ってくれたところが、和樹らしいと思えてしまう。


 今着ているシャツは和樹のものなので、Tシャツであっても袖が肘近くまであるし、白雪からすればほとんどチュニックの様なサイズだ。

 これもいわゆる、彼のシャツを着てる状態、なのだろうかと思ってしまった。

 あまりその手の話はネット上のものを含めてみることはないが、その程度は聞いたことがある。

 といっても、状況が状況なので恥ずかしさの方が先に来るが――。


 ぽす、と横になってみた。

 ちなみに、和樹のベッドはかなり大きい。

 部屋が大きいからなのだろうが、フルサイズのダブルベッドなのだ。

 なのでベッドサイズに限れば、白雪のそれとほぼ同じである。

 ベッドマットは、白雪のそれよりは固いが、低反発素材なのだろう。固すぎるということはない。

 

 この部屋はほとんど寝るためだけに使う部屋のようで、おそらく服を入れてあるであろうチェストがある以外は、ほとんど何もない部屋だ。

 あとは備え付けのクローゼットがあるだけである。


 このベッドで横になるのは、あの、正月に無理やり帰ってきた時以来。

 期間でいえば一年半ぶりとなる。

 あの時から、和樹と共に過ごす時間も増えたし、距離もずっと近付いていた。

 そして多分、あの正月より前から、ずっと和樹のことが好きだったのは間違いない。

 でなければ、あのような行動をとった理由がない。

 父のようだと、そういう言い訳をしていただけだ。


 ふと、あの時に素直に告白していたらどうなったのだろうと想像してみるが、多分意味はないだろう。むしろそうなったら、今の様な距離感になっていたとは思えない。


 和樹は、遵法精神も倫理観も人一倍強い。

 むしろ今の状況を受け入れているのも、かなり妥協している部分はあるだろう。

 もし白雪側にそんな下心があれば、おそらく家に入れてくれたりはしなかった気がする。


 高校生であるという自分の立場が、少し恨めしくなってくる。

 もっと自分が年上なら――とは思うが、そうなればそもそも自分は京都に戻っていただろうし、和樹に会えた可能性はない。

 ままならなくても――今だけは、和樹のそばにいられることが嬉しい、ということだけは確かだ。


(大好きです、和樹さん)


 絶対に言葉にはできない気持ちを、声にならないほど小さく呟きつつ。

 白雪は、意味もなくベッドの上で、なぜか嬉しくなってゴロゴロとしていた。



 なお。

 和樹が、乾燥機が終わったのに出てこない白雪を心配して扉をノックしたのは、三十分後。

 完全に眠りこけていた白雪は慌てて飛び起きて、サイズの合わないスウェットパンツで転び、小さく悲鳴を上げてしまう。

 それを聞いて和樹が慌てて入ってこようとして――白雪が先に数倍する悲鳴めいた声で押しとどめなければ、いろいろな意味で大惨事だっただろう。

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