第28話 妹襲来
母親からの電話がかかってきたのは、二月最初の金曜日の夜、白雪との夕食が終わって、彼女が片付けをしている最中だった。
たいていはメッセージだけで済ませて、正月の挨拶などを除けば滅多なことでは電話してこないので、少し珍しい。
「はい、和樹だけど。珍しいな、母さん。なんかあった?」
『ああ、和樹。ごめん、言い忘れていたことなんだけど』
この時点で嫌な予感がした。
たいてい、母親のこの言い出し方の場合、致命的であることが経験上多い。
『今日、美幸がそっちに行くはずなの』
「は!?」
思わず出た素っ頓狂な声に、白雪が驚いて顔を上げた。
「どういうことだよ」
『ほら、あの子受験でしょう? で、そっちの試験会場まで行く必要がある大学があって。和樹、泊めてあげて?』
「ちょっと待て。俺にも都合があるんだが」
『最悪眠る場所さえあればいいから。あの子だって子供じゃないんだから。そのマンション、鍵は渡せるでしょう?』
かつて、家族でこちらにいた時に住んでいたマンションは、ここと場所は違うが同じセキュリティを導入しているマンションだった。だから当然、母親も鍵の使い方などは知っているのだ。
だからといって今日突然言われても――と思ったら。
インターホンが来客を知らせる音を鳴らした。この音は、エントランスからの呼び出しだ。
『……あら? もう来ちゃったみたいね。じゃあ和樹、あとはよろしくね』
「ちょ、待て、つか、せめて一日前に言えっ!」
すでに電話は切れていた。
母の
ついうっかり、で大事な連絡事項を忘れるのだ。
幸い今まで、致命傷になったことはないが、致命傷一歩手前くらいは何回もある。
限界を見極めているんじゃないかと疑ったことがあるくらいだ。
和樹が子供の頃からスケジュール帳や携帯、あるいはウェブツールなど方法は変われど、自分の
「和樹さん、来客のようですけど……」
「分かってるんだが……すまん、白雪、すぐ家に戻ってもらえるか」
「え。でも後片付けはまだもう少し……」
見てみるが、鍋やフライパンなどの大物はもう終わっていて、あとは食卓に並んでいた食器類だけだ。軽く洗って食洗器に入れるだけだろう。
「それは俺がやっておく。その、妹が来てるんだ」
「妹さん?」
和樹はスマホのマンション専用アプリに表示されているエントランスの映像を、白雪に見せた。
そこには、少し癖のある髪の若い女性が映っている。
「この方が美幸さん?」
「ああ。さすがに鉢合わせるとかなり面倒なことになる」
「……そうですね。わかりました」
白雪は手に持った食器をシンクに戻すと、手を拭いて自分の荷物を取り出す。
カバンに入っているのは和樹が渡したパソコンと教科書だ。
「それでは失礼します。今日はありがとうございました」
白雪が深々とお辞儀をして、玄関を出る。
彼女がエレベーターに入るのを見届けると、扉を閉じてスマホでエントランスとの対話モードをオンにした。
『遅い~。兄さん、何やってたの』
「タイミングが悪いんだ。今解除する。部屋は分かるな」
『うん、大丈夫』
それで画面が消える。
とりあえずキッチンに戻ると、途中だった食器の片付けを再開した。
ほどなく、玄関のインターホンが鳴ったので、再び鍵を解除する。
「ねぇねぇ兄さん、今すごいの見たの!」
「……は? いきなりなんだ」
美幸は入ってくるなり、やたらハイテンションだった。
「すっごい可愛い子がいたの。高校生だと思う。もうびっくりしちゃった」
思い当たるのは白雪しかいない。
だが、白雪の方が先にエレベータに乗ったはずで、三階から四階に行くだけだから、美幸と鉢合わせをするはずはないのだが。
「なんか、ここより上層の子みたいなんだけど、一階に来たエレベーターに乗ってて、そのまま上に向かったのよ。あれ、と思ったら『降りそこねてしまって』とか言ってて。あの可愛さでそういうドジっ子っぽい感じがあるとか、ものすごく可愛くない?!」
テンションが高すぎて日本語が微妙におかしい。
白雪はどうやら何か考え事でもしていたのか、四階で降りそこねたらしい。
美幸がエレベーターを一階で呼んでいたから、そのまま一階まで行ってしまったのだろう。
彼女らしからぬミスだが、それに言及するとさらに面倒なことになるので、和樹はもちろん口をつぐんだ。
「兄さん、あんなすごい美少女が同じマンションにいるって知ってた?」
「あのな。田舎のお隣さんの距離感と一緒にするなよ。マンションの隣人でも顔見知りですらないのが普通だぞ」
だからといって知らないとは言わないが。
「そっかー。でも、ほんとにすっごく可愛い子だったの。いやぁ、テンション上がったわ」
「上がりやすいテンションだな。で、受験は大丈夫なのか」
「そっちは……まあやるだけやったし。というわけでよろしくね、兄さん」
「母さんから連絡あったの、さっきだけどな」
「え」
唖然とする美幸に、スマホの着信記録を見せる。
「母さん……私が出る時に兄さんに連絡するって言ってたのに」
「それ以前に数日前に連絡しろ。俺が出張でいなかったりしたら、どうするつもりだったんだ」
「……ソウデスネ」
美幸の目が泳ぐ。あの親にしてこの娘ありだ。
「食事は? というか俺はもう終わってるんだが」
「……ああ、それは食べてきたから大丈夫。片付け中?」
「ホントにいきなり電話が来たからな」
「っていうか……食器多くない? 二人分はありそうな」
「今日は友人が来てたんだよ。まあ少し前に帰ったが」
一応嘘は言ってない……と思う。
「それは会いたかったなぁ。残念」
美幸には前に誠や友哉のことは話している。
勝手にその二人だと勘違いしたらしい。
今日が平日であることに疑問を持たなかったようだ。
とはいえ、あまり追及されると困るので、話を変えることにした。
「で、いつまで居るんだ?」
「あ、えっと……
「二つだけか」
「あとは地方試験やってくれるから。この二つだけ地元近くの試験会場がなかったのよ。まあ本命は明後日なんだけど」
「わかった。あとで予定だけ教えておいてくれ。食事の面倒くらいはみてやる」
「さすが兄さん。ありがとう♪」
「いいから今日はさっさと風呂入って寝ろ。布団は出しといてやる」
美幸は「はーい」というと、自分の荷物から着替えを取り出して、風呂の方へ消えた。
大学時代に何回か来たことがあるので、勝手は分かってるのだろう。
まともに会うのは三年ぶりだが、たまに電話などでは話していたので、別に距離感に戸惑うようなことはなかった。
強いて言えば、少しだけ女性らしくなったかという気もするが、あまり印象が変わらない気がする。
とりあえず来客用の布団を出すと、寝室の向かい側の部屋に広げる。
普段は使ってない部屋だが、先日、白雪の手で徹底的に掃除されたばかりだ。
そうしているうちに、風呂場からシャワーの音が聞こえてきた。
それを確認すると、スマホを取り出してメッセージアプリを起動する。
『妹が三日ほどうちにいるので、その間は夕食は不要だ』
わざわざこうしなければならないのは、最近土日とかでも、白雪が夕食を一緒にどうですかと言い出してくることがあるからである。
二回に一回は和樹も受け入れてしまっている。
すぐに返事があった。
『わかりました。妹さん、可愛らしい方ですね』
その返信に違和感を覚える。
というより――。
『エレベーター、わざとか』
しばらくして『なんのことでしょう』という吹き出しのついた絵文字が送られてくる。どう考えても確信犯だった。
『妹は妹で、すごい美少女がいた、とテンション上がってたよ』
それには赤面するような絵文字が返ってきた。
顔の印象だけで言うなら、白雪の方が圧倒的に美人だとは思う。妹の美幸は、家族であるというひいき目を入れても、少し可愛い程度だ。
そもそも白雪の方が年下なわけで、その白雪に『可愛らしい』といわれるのはどうなんだ、という気もする。
まあ、確かに美幸は背が少し低く、形容するなら美人というより可愛いになるだろう。この辺り、美人でもあり可愛いともいえる白雪とはタイプが違う。
それ以上の返信はないようなので、メッセージアプリを落とす。
妹とニアミスしたのは予想外というか、それ以前に妹が来ること自体が予想外だが、とりあえず変なことにならなくてよかった。
これが普通の家やアパートであれば、白雪が家を抜け出す時間がなかっただろうから、エントランスで呼び出しがかかるマンションでよかった、と本気で安堵する。
そもそもあと一時間早く来られていたら、食事中だった。
そう考えるとかなり助かったといえる。
別に
最近感覚が麻痺してきているのは否めないが。
少し前までは、遠からずこの関係も終わると思っていたし、そうあるべきだともおもっていたが、今は違う。
彼女も、そして和樹自身もこの関係が続くことを望んでいると思う。
どこかで必ず関係が切れるとは分かっているが、今はこのままでいいと思ってしまっている。
ちなみに疲れていたのもあるのかもしれないが、美幸はこの後一時間ほど風呂にいて――完全にのぼせてしまった。
本人曰く、偶然出会った美少女を思い返していたらしい。
それでも試験については本命はばっちりだった、自信たっぷりに宣言していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます