2 白の王冠
「姫様できましたぞ」
烏月の声に呼ばれるよりも早く、璃朱の鼻腔に味噌のいい匂いが漂ってきた。生唾を飲み込みながら広間へと足を踏み入れる。
六人が座るのに丁度いい脚の低い机。その上には既に料理が並べられていた。
烏月は手際よくご飯をよそい、狛に配膳させている。自分も手伝おうと璃朱は腕を伸ばしたが、それより早く烏月の手がそれを制した。
「姫様は座っていてください。この茶碗で最後ですから」
「じゃあ、それ、わたしのってことでは駄目ですか?」
「姫様のはもうでに狛が運びました。それともこれがよろしいですか?」
「あ、いいです」
話が平行線になりそうだと璃朱は自ら折れた。
手伝わせてくれといえば話は早いだろうが、過去にそういったところ『姫様の手を煩わせるわけには云々』と朗々と語られた。多分今いったところで同じ台詞をまた聞く羽目になるだろう。
(平等がいいんだけどな……)
数週間ともに生活してみて烏月に沸いた感情。とても気が配れて優しいが過保護がすぎるところがある。
働きたくない、動きたくない、やる気がないと、と叫び続ける七瀬だったら喜んで璃朱の立ち位置を受け入れるだろうが、彼女にとっては自身が何もできない者のように思えて嫌だった。
(戦うことはできないけど……)
だからこそ料理でも洗濯でもやらせてと思うのだが、いつも烏月がやってしまい璃朱には指一本触れさせない。
(もう頼まずにやっちゃおうかな……。場合によっては姫様命令なんて言ってねじ伏せて……やりたくないけど)
烏月のほうを一度窺ってから璃朱は両手を合わせる。
「いただきます」
どちらにせよ実行するのは今度、と豆腐とわかめの味噌汁を口に運ぶ。出来立ての朝餉が目の前にあるのに、考え事をしていて冷めてしまったなんて料理をした烏月に悪い。
「美味しい」
味噌の風味が口内に広がって自然と感想が漏れる。不服だった心が凪いでいく感覚があった。
「それはようございました」
璃朱の純粋な感想に烏月の顔に柔和な笑みが広がる。
狛も璃朱が味噌汁に手をつけたことにより、隣にちょこんと座って食べ始めた。二人の穏やかな朝食風景に目じりを緩ませた烏月。配膳は六人全員分置かれていたが、他の人物はこの場にいなかった。
やがて璃朱が三分の一ほど食べたところでやっと一人が欠伸を噛みしめながら食卓に現れた。少し癖のある赤髪をさらにぼさぼさにしてもう一度大きな欠伸をする。美味しそうな朝餉を前にしても、ぼんやりとしている眼は今の今まで寝ていたことを如実に伝えていた。
寝癖を掻きながら緩慢な動きで空いている席につくと、両手を合わせていただきますと呟いた。その声もぽやぽやでうっかり食べ物を口からこぼすのではと思われたが、一口食べたところで七瀬の顔がやっとしゃっきりとし始めた。
「烏月、醤油」
豆腐をつつく頃にはいつもの調子になり、烏月に要望を押し付ける。ちなみに醤油は璃朱が一番近かったが、彼女はあえて無視をして切り身を口に運んだ。役に立ちたいとは思うのだが、ここでうっかり手を出してしまうと――。
「そこにあるでしょう。自分でとりなさい」
「あー? 姫だったら取るじゃん。俺にもその働き見せてくれよ」
「姫様は姫様ですから」
「けちくせー」
この会話がさらにややこしくなり、そのとばっちりを受けるが七瀬になるからだった。
過去に一度塩を差し出して経験済みだ。
(こういうところも過保護というか……それとも過干渉みたいなものかな……?)
やはり一度烏月とは平等に接してもらうことについて話し合わなければ。璃朱に調味料が一通り近くにあるのもそれ故であろう。
「姫はえこひいきとか嫌いだと思うんだけど」
七瀬が唇を尖らせて言うことには完全に同意だが、発言はしない。心の中でとにかく今は頷いておいた。
「それでも姫様は姫様で貴王姫様ですから」
烏月はどう言っても折れない固い意志で言い切った。
璃朱は出そうになるため息を味噌汁で飲み込みながら、そっといまだにぶつくさ言い続ける赤毛の彼へ目線を向けた。七瀬と目線が合うのではないかと思ったが、彼の目線は大広間に入ってきたばかりの灯黎に向けられていた。
「朝から五月蠅い奴だな」
「ほっとけ」
灯黎は不快感を隠そうともせず、眉間に皺を寄せたまま七瀬と一人分間を開けて座ろうとする。が……。
「はいはい詰めてねー」
最後に入ってきた三冴がそれを許さず、灯黎の身体をそれなりの力でぐいぐいと追いやり七瀬の隣に座らせた。灯黎は忌々しげに舌打ちをこぼしたが三冴は全く意に介さない。さっさと箸を持ってもうすでに食べ始めていた。
(間が嫌ながら最初か最後に来ればいいのに)
目覚めてから数日経ち、いつの間にかできていた光景。これで全員、いつもの定位置での一日が始まった。大体くる順番もいつもどおり。何故か灯黎は狙っていないのに七瀬と三冴の間になる、つまり璃朱の前に来るのは決まって彼だ。
こんな綺麗な顔を拝みながらご飯を食べるのって女子にとっては喜ばしいことなのかな、と最初は思っていたが、日数が過ぎると慣れてしまった。
それでもやはりまじまじと見つめると美しい。
ふと灯黎が目線を上げた気がして、璃朱は慌てて白米に目線を落とした。
「てか烏月さーん」
七瀬の不服そうな声が再び食卓に広がる。
「黙って食えませんか?」
「しんみりと食うよりもわいわいとしていたほうが楽しいだろ」
「その口ぶりからは苦情しか感じられませんが」
「まぁそーですけど」
そう言葉を切ると七瀬の目線は灯黎に移る。
「俺に働け働けと言いますけど、灯黎さんとかはどーなんですかね」
「何故おれの名が出る」
七瀬の目線には気づいていたが無視を決め込んで朝食を食べ始めていた灯黎だったが、名出しには不服だったようで箸が止まる。
「だってお前だって部屋に引き篭もってばっかりじゃん。かと思えばいないし?」
「おれは自分の身の回りのことはやっているつもりだ」
「じゃあ部屋では何やってんだ」
「読書だ。真面目な、な。春画ばっかり読んでいるお前とは違う」
「おまっ……!」
烏月のため息が隣で漏れる。到底朝食でする話ではないと言いたいのが滲み出ていたがつっこむ気にもなれないのだろう。
「図星か?」
灯黎が鬼の首をとったとばかりに口角を上げる。
「否定しないもんねー。姫ちゃん危ないからこっちおいで」
「お前の方が危ねぇだろうが!」
七瀬は立ち上がり箸で三冴を指す。もはや礼儀も何もない無法地帯と化していた。
大声を張り上げた七瀬の唾が灯黎へと飛ぶ。彼は表情を一転させ凄みのある顔でそれを払った。
「もう嫌だ……この席……」
「なーにやってんだ?」
裏庭で狛がしゃがみこんでいる。
七瀬は腰に手を当てて、上からそんな彼の様子を覗きこんだ。ちらりと上を向いた拍は何も言わないまま、手元だけを懸命に動かし続ける。
「返答したっていいだろ」
「うるさい、あっち行ってすけべ野郎」
「おいこら待て、そのあだ名誰が言った」
七瀬のこめかみに青筋が立ったが、狛は気にも留めない。また一輪花を摘んで、その茎を手に持つ編んだ花々に括り付けた。
「王冠か?」
「見れば分かるでしょ」
「作り始めたばっかみたいだから、見ても分かんねぇ」
頭を掻きながら七瀬はその場にしゃがみこんだ。
(しっかし……王冠作れる量か?)
黙々と作業を続ける狛の横顔と足元にちらほら咲く白詰草を交互に見る。狛の表情は真剣で口出す余裕はなく、咲く花は七瀬の瞳から見ても咲き乱れているといえないものだった。
「…………」
一人の少女の後頭部を七瀬は思い浮かべる。狛がこれを渡す相手は一人しかない。その頭は小さいが、それでもそれなりの白詰草は必要だ。
(腕輪や指輪なんて発想はないんだろうな)
王の冠。貴王姫である彼女は頂点に立たなければいけない存在だ。それは誰かが指示したことではない、筈だ。
自分達の中で脈々と流れる何かが『そうしなければいけない』と言っているのだ。
謂わば世界の理なのかもしれない。
(そんな大層なこと考えたくもねぇし……どうでもいいけどな)
それでも、彼女は姫で、王だ。
七瀬を含めた五人にとっては……。
またぷつりと一本積まれ狛の手元の王冠に加えられる。懸命に摘み取る彼の顔は真剣そのもので、狛にとって王冠こそ相応しいと思っているのだろう。
七瀬はそんな彼から少し離れて、中腰で一輪の花に手を伸ばす。力を少し加えただけでぷつりと七瀬の手の中に白い花は収まった。
「何、してるの?」
狛は自身の作業を止め、七瀬の姿を見つめる。
「見て分かんねぇか?」
白い花弁を狛に見せつけながらまた白詰草を一輪摘む。
狛はゆっくりと瞬きして言い放った。
「雑草取り」
「お前そろそろぶっ飛ばすぞ」
狛の戯れだと分かっていてもそろそろ上下関係を分からせねばならない気がした。
そんな決意を打ち砕くかのごとく、狛は淡々と言葉を返す。確実に七瀬が撃沈する一撃を。
「七瀬が春画見せつけてきたって言いつける」
「馬鹿野郎! それだけはやべーからな! 俺殺されるからなあいつらに!」
「だからだよ」
「お前ふざけんなよ……」
上下関係を分からせることはいつになるのか。
撃沈した七瀬はそれでも黙って白詰草を摘み取る。狛も元から喋る性格ではないため、やがて二人分の白詰草を摘む音が聞こえるだけになる。
黙々と手を動かしているといつの間にか二人の距離はひらいていた。
七瀬が振り返ると、狛は摘む手を止めてぼんやりと天を仰いでいる。
「早くやんねぇと日が暮れるぞ」
「ねぇ七瀬」
「なんだよ」
狛は天に導かるようにゆっくりと立ち上がる。顔だけを天に向けて淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「お姫様って……なんか不思議、だよね」
「は?」
「……なんかね、雰囲気が……たまに違うものになる気がする」
「なんだそれ? 誰かに言ったのか?」
「ううん。なんとなく今、思っただけ」
狛はゆるく首を振って白詰草に視線を戻す。それでも花を編む作業に戻りはしなかった。
七瀬も摘む作業を止め、狛の横顔をじっと見つめる。彼にとって璃朱の雰囲気が変わる気配はあまり感じられず狛の言うことにぴんとくることはなかった。
「俺はそう思わねぇけどな。いっつも見ればやれ家事をやらせろー、だとか、家事やらせろだとか……あいつそれしか言ってねぇな」
「烏月もやらせればいいのにね」
「お? お前がそう言うとは思わなかった」
狛との付き合いは浅いが、七瀬から見て狛は烏月と近しい思考だと思っていた。過保護だといかないまでも璃朱のことは姫らしく扱うものだとここ数日の言動でなんとなく悟っていただけに意外だった。
狛は七瀬を一瞥して淡々と、淡々と言葉を紡ぐ。
「お姫様のやりたいことやらせればいいと思う。別に……姫取合戦じゃないんだし……」
感情を込めていないつもりだろうが、尻すぼみになった言葉の端々からは狛の気持ちが漏れていた。
「嫌いか?」
七瀬がその感情を言語化して狛に問う。
狛は黙っていた。
「姫取合戦」
もう一度問うようにその戦の名を口にする。
狛は一度瞬きして、身体を真っ直ぐ七瀬に向ける。その瞳は淡白なように見えて、強い光が宿っていた。
「お姫様に言われたらちゃんと戦う。それがぼくの存在理由なんだから」
「おーおーそれは大儀なもんで。ほんと姫自身が姫取合戦を回避してくれて助かったわ」
「なんでだろうね」
「ん?」
「貴王姫にとって姫取合戦は何よりも大事な気がするのに……お姫様は……それよりもぼくたちのことを大事にしてくれた」
『わたしは皆さんにも倒れてほしくはありません』
あの時の璃朱の決意のこもった顔が二人に瞬く。
「あ、そうだ」
まるで何かを思い出したかのように、狛はまた天を仰ぐ。吹き込んだ風が彼の髪を揺らした。
「雰囲気、懐かしくなる時がある……」
出来かけの花冠を優しく抱く。風に身を任せる姿の背後には、誰かがその小さな体を抱きしめているように七瀬には見えた。
母のような慈しみ。母胎のような揺り籠。それに今、狛は抱かれている。
狛の唇が動くが、紡がれたその単語は音にならない。
彼の物悲しく見える瞳が、七瀬を捉える。
「七瀬は、ない?」
懐かしくなることが。
「そう言われてもなぁ……」
正直言ってそう思うかと問われても七瀬にはぴんとこなかった。彼にとって璃朱は『貴王姫』という枠に囚われた、ただの小娘だ。
「ぼくだけなのかな……」
「さぁな。聞いてみればいいんじゃないか」
「……うん……」
歯切れの悪そうな声が返ってきて、七瀬は頬を掻いた。こんな状況でなければ、自分にもこんな話を振ることはなかっただろう。
(なーに真剣に考えているんだ俺は)
頭を振って、静かに佇んだままの狛の手をとる。その小さな手に摘んだままだった白詰草を握らせた。
「ほいよ。これで足りるか?」
狛はこくりと頷いて、その花を素直に受け取った。
(いつもこんなだったらいいんだけどなぁ)
「今、何か思った?」
「別に」
「……あ」
七瀬の白詰草で花冠を完成させようとしていた狛の手が不意に止まる。慌てて七瀬に背を向け、完成間近の花冠を胸元に抱きしめて隠す。
どうしたと七瀬が怪訝な顔をしていると草を踏む第三者の音がした。
「二人ともここにいたんだー」
朗らかな少女の声が聞こえ、なんとなく狛を背にして七瀬は立つ。背を向けたのは手に持つ王冠を見られたくないのだろうと容易に想像できた。
「お、あぁ。姫、どうしたんだ?」
璃朱に声を掛けながら狛の様子を窺う。彼はできるかぎり七瀬の背に隠れようと微動だにしない。
(ありがとうも言わないがきだけど)
「烏月が手伝ってほしいことがあるんだって。わたしがやるって言ったら『なら姫様はどなたか連れてきてください』だって。もうほんとう、目の前にできる人がいるっていうのにね」
頬を膨らませて不平を述べた璃朱は、こくんと首を傾げて七瀬の後ろを覗きこんだ。
慌てて狛の頭を掴みしゃがませる。
「……痛い」
「うるせぇ。すまねぇって」
「何か隠してる?」
「なんも隠してねぇって」
「ほんと? しゅ、春画とか……狛も一緒だから違うかな……」
「この前の話を掘り返すんじゃねぇ!」
泣きたい。灯黎と三冴がこの場にいたら確実に殴っていた。
(姫の口から春画なんて単語聞きたくなかった)
「……ふっ」
小さな頭から笑い声が漏れた。
「お前笑うんじゃねぇよ!」
「あ、ごめんね! そ、その本気で思ったわけじゃないから」
笑った張本人ではない璃朱が慌てて弁明する。そんな彼女に気にするなと言おうとした七瀬の手のひらで狛の頭が身じろぎする。
「……お姫様」
七瀬の背後から這い出た狛の手には完成したばかりの白詰草の王冠が握られていた。
狼狽していた璃朱も思わず彼に食い入るように見つめる。
「お姫様、頭下げて」
「こ、こう?」
狛に言われるまま身をかがめ同じ目線にする。彼は一呼吸置いて、その頭に白い王冠をのせた。
「え? これわたしに?」
指差し首を傾けると、狛はこくんと頷く。
「ありがとう」
璃朱が笑みを浮かべると、狛はさらに小刻みに首を横に振る。その頬はほんのりと桃色に染まっていた。
狛のその姿にうっすらと笑みを浮かべた七瀬は、二人に背を向け歩き出す。
「じゃあ、俺は行くわ。烏月に捕まったら大人しく手伝うけど、それまでは自由にさせてくれ」
「えっ、ちょっと!?」
早足に過ぎようとする七瀬に璃朱は腕を伸ばしたが、軽く躱されてしまう。そのまま二人を振り返らず、七瀬は片腕をひらひらさせてその場を去っていった。
「行っちゃった……」
「お姫様は七瀬のことが気になるの」
「ううん、そういうわけじゃないよ。それにしても綺麗な髪飾りありがとう」
「髪飾り……うん、髪飾り。王冠の髪飾り」
「王冠か……」
璃朱はそっと白詰草に触れる。可憐な花びらは硬く結われ、簡単には壊れそうにない。
「素敵な王冠をありがとう」
「……うん」
こくんと顔を下げ、その表情を髪に隠す。しかしその耳が微かに赤くなっていることに璃朱は気づいた。
(感情の起伏が薄いと思ったけど、表に出すのが苦手なだけかも……)
もっとこんな風に自分を出してくれればいいと思う。もっと笑って、弟のように甘えてくれたら、それはそれで嬉しい。
でも、なんとなくそれは口にできない。
きっと狛にそれを言ってしまえば、彼は逆に悟られないようにしてしまうのだろう。感情を奥へと押しやって、諦観してしまった子のようになってしまう。
そんな、気がするのだ。
「もうちょっと寄ってくれる?」
手招きすると狛は素直に寄ってくれた。璃朱は両手の人差し指を立て、それを狛の頬にあてる。
「はい、笑顔」
指で柔らかな頬を持ち上げる。
狛は驚いて全身が固まったが、璃朱の微笑みにゆっくりとちょっと不格好な笑みを浮かべた。
「……あ、あの、お姫様……」
「なに?」
「あ……えっと、なんでもない」
頭を振りながらも狛は璃朱の上着を掴む。無自覚ではあっただろうが、本当は言いたいことがあることをその行動が如実に伝えていた。
璃朱は指を離して、狛の頭を撫でる。
狛の丸い眼が璃朱を捉えて、そっと口を開く。
「……あのね」
「似合ってる?」
「あーはいはい、似合ってる。なんであの場に俺いたのに、また見せに来ているんだ」
「だってあの時はさっさと消えちゃたでしょ。だから改めて見せにきたの」
あのあと狛と別れ、最初に探したのが彼だった。
烏月のところには行ってないよね、と考えて廊下を進んでいたところ、案の定彼は隠れるように壁にもたれ掛かっていた。
璃朱を見てぎょっとしたのは、多分雑用から逃げるために隠れていたつもりだったのだろう。璃朱だと分かるとその顔をひそめ、そっとまた逃げるように歩き出す。
だから思わず腕を伸ばした。
服を掴むと七瀬は肩をびくりとさせたが、振り返った顔はいつもと同じだった。
「狛に作ってもらえてよかったな」
「狛と七瀬、でしょ」
「あー……」
ばつが悪そうに頭を掻く。自分がやったことなんてバレバレなのに、それでも隠そうとするのがやはり彼らしい。
掴んだままだった手を離すと、七瀬は軽く息を吐きながら璃朱に向き直った。
「誰に聞いたんだ?」
「狛に」
その返答に七瀬は柔らかな苦笑を浮かべる。
璃朱もつられて柔らかな笑顔で、あるがままの気持ちを伝えた。
「だから七瀬もありがとう」
「おう、そう思うなら俺の雑用なくてくれない? 姫からの提案なら烏月も聞くと思うんだよ」
「言うと思った。多分それ言うと七瀬が怒られるよ?」
「うぇ……正座説教三時間はきっついな……」
その場に遭遇したことはないが、想像は容易かった。思い浮かべたその姿にまたくすりと璃朱は笑う。
「みんなにも見せてくる」
「烏月に俺の場所まで教えるのはやめろよ。それから灯黎はやめたほうがいいぜ。あいつ小馬鹿にするだけだぞ。それに何読んでるか分からねぇからな」
「七瀬みたいな『すけべ野郎』じゃないから」
「そのあだ名お前か!?」
「……あ、三冴がそう呼べって」
なんとなく口から滑ってしまった。
きっと七瀬の目には璃朱の後ろでほくそ笑む三冴の姿が映っていただろう。いたたまれなくなって璃朱はそそくさと逃げ出す。
「あいつの手引きかよ! ぶっ飛ばすまじで!」
背後で壁を蹴り上げる七瀬の怒声と打撃音がした。
「うるさいですぞ!」
それに負けじと烏月の注意が飛ぶ。
(あ、居場所自分から言っちゃった……)
烏月に見つかるのは時間の問題だろう。
ごめんね、と内心で呟きながら角を曲がる。
(雑用軽減も考えよ)
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