帝都あやかし屋敷の糸組み師【中編コンテスト版】
笹井風琉
第1話 真夜中の客人
人々は足早に去り、固く戸を閉めて鍵をかける。
帝都の夜は、あやかしのもの。
◇◇◇
夜半過ぎ。店の戸を叩く音が、
表で誰か騒いでいる。言葉ははっきりとしないが、屋敷の奥にいても、それが男の声だとわかる。
くたびれた寝間着の前合わせを整える。全身を見まわして、たもとの
「透緒子。起きていて?」
中廊下から
「はい、姉様。ただいま」
透緒子はしわがれた声でこたえ、顔の左側に髪をおろして青黒い
障子を開けると、沙夏が申し訳なさそうな
「お客様ですか?」
「そう、なのだけれど……あやかしをお連れとのことなの」
「あやかし、ですか」
「お父様が言うには、その、鬼だとか。朝を迎えるまでの間に合わせでかまわないのですって」
沙夏がおびえたように声をひそめる。
間に合わせというからには、客も承知の上での訪いだ。
よほどの危急なのだろう。
「とにかく、来てちょうだい」
沙夏のあとについて、中廊下を抜け母屋に入る。
いつものように、透緒子は店の手前の部屋で足を止め、板戸の裏で畳にひざをついた。板戸には小さなのぞき窓があつらえてあって、そこから透緒子はおもての店の様子をうかがう。窓からはまず義父の背中が見え、少し視線を動かすと、店の土間に立つ男の西洋風な黒い軍服が見えた。
透緒子が見たい相手は、その男のさらに向こう。店の入り口の戸に、寄りかかるようにして立っている。
あれが、鬼。
姿かたちは人間の女のものだが、ひたいの左右に
透緒子は両目をしっかと開いて、鬼の全身から立ちのぼる湯気のような気を見る。深く見通そうと、のぞき窓のふちにひたいを押し当てた。
すると、鬼の視線が鋭くこちらを向いた。
おどろいて板戸から顔を離す。そばで興味深そうに透緒子を見守っていた沙夏が、入れ替わりでのぞき窓に寄る。そしてすぐさま、ひゅっと息を飲んだ。
「板戸の向こうにおられるのは
低く、良く通る。軍服の客人の声はのぞき窓を突き抜けて、透緒子の背をぞくりと震わせた。
「ご無礼を! 娘の沙夏にございます。すぐに紐を寄越させますゆえ、お許し願いたく」
「責めたつもりはない。組師どのならば、挨拶をと思ってな」
すぐ後ろで自分の遣いが鬼のさがを取り戻そうとしているのに、男は落ち着いた声音だ。
「さ、沙夏! 急ぎなさい!」
対して、義父はもう限界に近い。当然だ。この瀬田家に鬼が来るなど、
透緒子はもう一度のぞき窓から鬼の姿を目に映した。立ち上がると
少し考えて、
それを無言で沙夏に手渡す。沙夏は透緒子に触れないように紐を握った。
透緒子が差し出した右手は、痣のないきれいな手だ。けれど、沙夏の指一本さえ、透緒子の肌に触れたことはない。
沙夏だけじゃない。左半身を痣に覆われた透緒子に触れる者は、誰ひとりいない。
沙夏が店に出ると、透緒子は静かに板戸の前に戻った。退妖師が組紐を面隠しに使うとは知っていても、実際に見るのは初めてだ。
「こちらの紐で、事足りますでしょうか」
沙夏の声が上
「白……糸?」
男の
若い。まずそう思った。
鬼を遣うなら相当な熟練と思ったが、男はまだ三十も迎えていないように見える。
店の明かりに照らされる男の瞳は
男は胸元の
鬼がすっと土間に片ひざをつく。男は鬼の顔に面隠しをつけ、組紐を頭の後ろで結ぶ。
そして、鬼のひたいに指を当てた。
「
鬼の
そして、何事かを男に耳打ちする仕草を見せる。
「い、いかがでございましょう。
志貴家の、当主。
義父の言葉に、透緒子は声を出さずにいるのが精一杯だった。板戸の向こうにいる美丈夫が、帝都の退妖を担う
束の間、静かになった。
そして男の、破裂したような笑い声が店に響く。
「存外、良い買い物になった。組師どのの見立てが上手いのだろう」
「それは過分なお言葉を」
「そう謙遜なさるな。あいにく、手持ちがこれだけしかないものでな。夜が明けてから、改めて礼をしたい」
「ひょ……」
大金が置かれたのだろうと、義父のまぬけ声から察せる。
組紐は満足いくものだったのか。透緒子はそちらの方が気がかりで、窓から鬼の姿にじっと目を凝らし続ける。
そんな透緒子に、見えているぞと言わんばかりに、美丈夫が視線を向けて薄く笑ったような気がした。
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