帝都あやかし屋敷の糸組み師【中編コンテスト版】

笹井風琉

第1話 真夜中の客人

 夜告よつげの大鐘楼から、鐘の音が鳴り響く。

 人々は足早に去り、固く戸を閉めて鍵をかける。


 瓦斯ガス灯の明かりが落ちればもう、そこは人の世でなく。



 帝都の夜は、あやかしのもの。



 ◇◇◇



 夜半過ぎ。店の戸を叩く音が、透緒子とおこのいる奥部屋まで響いてきた。浅い眠りからい出して、ふるりと身震いする。十月も半ば、寒露かんろを過ぎた夜の空気は冷たい。


 表で誰か騒いでいる。言葉ははっきりとしないが、屋敷の奥にいても、それが男の声だとわかる。

 くたびれた寝間着の前合わせを整える。全身を見まわして、たもとのつくろいがまた必要だなと思った。


「透緒子。起きていて?」


 中廊下から障子しょうじ越しにかけられた声は、義姉の沙夏さなつのものだ。こんな夜ふけに起こされても、沙夏の声はれなく澄んだ響きがする。


「はい、姉様。ただいま」


 透緒子はしわがれた声でこたえ、顔の左側に髪をおろして青黒いあざを隠す。そのまま左肩へ髪を寄せ、ほつれを指でいてから、ゆるく結んだ。


 障子を開けると、沙夏が申し訳なさそうな面持おももちで待っていた。中廊下に彼女の吐息がうっすら白くただよう。


「お客様ですか?」

「そう、なのだけれど……あやかしをお連れとのことなの」

「あやかし、ですか」

「お父様が言うには、その、鬼だとか。朝を迎えるまでの間に合わせでかまわないのですって」


 沙夏がおびえたように声をひそめる。


 瀬田せたの家はふるく、開国前から続く組紐くみひも屋だ。けれど、庶民の和装のための帯締めが主力で、あやかしを討伐する退妖師たいようしの依頼を受けることは少ない。まして、鬼を連れ歩くほどの退妖師を満足させられる品は扱っていない。


 間に合わせというからには、客も承知の上での訪いだ。

 よほどの危急なのだろう。


「とにかく、来てちょうだい」


 沙夏のあとについて、中廊下を抜け母屋に入る。

 いつものように、透緒子は店の手前の部屋で足を止め、板戸の裏で畳にひざをついた。板戸には小さなのぞき窓があつらえてあって、そこから透緒子はおもての店の様子をうかがう。窓からはまず義父の背中が見え、少し視線を動かすと、店の土間に立つ男の西洋風な黒い軍服が見えた。


 透緒子が見たい相手は、その男のさらに向こう。店の入り口の戸に、寄りかかるようにして立っている。


 あれが、鬼。


 姿かたちは人間の女のものだが、ひたいの左右につのがある。退妖師のつかいとなったあやかしが顔に下げるはずの、封じのじゅを描いた面隠つらがくしがない。それらしきものをぎちりと歯でくわえ、伏せがちな金の瞳はぎらつき、肩を上下させて荒い息をくり返している。


 透緒子は両目をしっかと開いて、鬼の全身から立ちのぼる湯気のような気を見る。深く見通そうと、のぞき窓のふちにひたいを押し当てた。


 すると、鬼の視線が鋭くこちらを向いた。


 おどろいて板戸から顔を離す。そばで興味深そうに透緒子を見守っていた沙夏が、入れ替わりでのぞき窓に寄る。そしてすぐさま、ひゅっと息を飲んだ。


「板戸の向こうにおられるのは組師くみしか」


 低く、良く通る。軍服の客人の声はのぞき窓を突き抜けて、透緒子の背をぞくりと震わせた。


「ご無礼を! 娘の沙夏にございます。すぐに紐を寄越させますゆえ、お許し願いたく」

「責めたつもりはない。組師どのならば、挨拶をと思ってな」


 すぐ後ろで自分の遣いが鬼のを取り戻そうとしているのに、男は落ち着いた声音だ。


「さ、沙夏! 急ぎなさい!」


 対して、義父はもう限界に近い。当然だ。この瀬田家に鬼が来るなど、今世こんじょう一度きりのことだろうから。


 透緒子はもう一度のぞき窓から鬼の姿を目に映した。立ち上がると桐箪笥きりだんすの引き出しを開け、ずらりと並んだ組紐を見つめる。


 少し考えて、藍白あいしろ浅葱あさぎの二色がらせんを描く、縄のような模様になった八津組やつぐみの紐を選ぶ。

 それを無言で沙夏に手渡す。沙夏は透緒子に触れないように紐を握った。


 透緒子が差し出した右手は、痣のないきれいな手だ。けれど、沙夏の指一本さえ、透緒子の肌に触れたことはない。

 沙夏だけじゃない。左半身を痣に覆われた透緒子に触れる者は、誰ひとりいない。


 沙夏が店に出ると、透緒子は静かに板戸の前に戻った。退妖師が組紐を面隠しに使うとは知っていても、実際に見るのは初めてだ。


「こちらの紐で、事足りますでしょうか」


 沙夏の声が上る。すぐそこに鬼が見えるのだから無理もない。


「白……糸?」


 男のいぶかる声がする。透緒子はもう一度、のぞき窓から様子をうかがった。


 若い。まずそう思った。

 鬼を遣うなら相当な熟練と思ったが、男はまだ三十も迎えていないように見える。

 店の明かりに照らされる男の瞳は射干玉ぬばたまのようで、おだやかな声のわりに目は鋭い。黒髪は短いながら、えりあしが立て襟のふちをかすめるほど。首などはすっとして、肩広く、胸たくましく。なかなかお目にかかれない、たいそうな美丈夫だ。


 男は胸元の衣嚢ポケットから、つるし紐の切れた面隠しを取り出した。面隠しの四角い布の上辺には、ちぎれた青紐が通ったままだ。彼はその青紐を引き抜き、透緒子が選んだ白い組紐を器用に通した。


 鬼がすっと土間に片ひざをつく。男は鬼の顔に面隠しをつけ、組紐を頭の後ろで結ぶ。

 そして、鬼のひたいに指を当てた。


えにしを結べ。汝が誠の名、妙童鬼みょうどうきなり」


 鬼のからだから昇っていた気がやわらぎ、荒れていた息が鎮まる。しばらくすると鬼は立ち上がり、着物の帯の隙間から懐紙を取り出してあごを拭った。

 そして、何事かを男に耳打ちする仕草を見せる。


「い、いかがでございましょう。志貴しき家のご当主様に、手前どもの品で間に合せにもなるまいとは存じますが」


 志貴家の、当主。

 義父の言葉に、透緒子は声を出さずにいるのが精一杯だった。板戸の向こうにいる美丈夫が、帝都の退妖を担う四大家よんたいか、その筆頭家の当主だというのか。


 束の間、静かになった。

 そして男の、破裂したような笑い声が店に響く。


「存外、良い買い物になった。組師どのの見立てが上手いのだろう」

「それは過分なお言葉を」

「そう謙遜なさるな。あいにく、手持ちがこれだけしかないものでな。夜が明けてから、改めて礼をしたい」

「ひょ……」


 大金が置かれたのだろうと、義父のまぬけ声から察せる。

 組紐は満足いくものだったのか。透緒子はそちらの方が気がかりで、窓から鬼の姿にじっと目を凝らし続ける。


 そんな透緒子に、見えているぞと言わんばかりに、美丈夫が視線を向けて薄く笑ったような気がした。

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