登山
登山の開始は・・・
俺は休暇を利用して冬の登山を楽しむことにした。
俺は我が国の首都がある東側から、登山予定の山のある西側に列車で向かうことになっていた。
ただ、この日は大雪によって列車の運行に支障がでており、目的地には大幅に遅れて到着した。
大雪は国の東側に集中しており、この日は西方の降雪の予報は出ていなかったので目的地に遅れても大して問題はないだろうと甘く見ていた。
これが後に仇となる。
自分が軍の特殊部隊の隊員であるという自負も、あなどりにつながったかもしれない。
正午ごろ、俺は登山を開始した。
登山開始後、三時間で頂上に到着した。
通常は頂上到着まで五時間を見積もるよう想定された山だが、俺はかなりのハイスピードで登った。さすが俺は特殊部隊の隊員だ。
満足感にひたり、俺はスマートフォンで頂上からの景色を撮影したり、背伸びしたり、岩の上でのんびりくつろいだりした。
俺よりあとから頂上に到着したひとたちは続々下山していった。
俺が下山を開始したのは午後四時前だった。
冬である。俺は六時にはほぼ真っ暗になっていると想定し、早足なら二時間で下までたどりつけるだろうと踏んでいた。
しかし。
三十分後、早足でくだる俺の頬に、何か冷たいものがあたった。
見上げると、そこには雪がちらちらと俺の顔めがけて降っていた。
予報では国の西側に本日中の降雪はないとのことだったが、東側の雲がこちらにやってきたのだろうか。
俺は急いで道をくだった。
そして。
わずかに十分も経たないうちに、俺は横殴りの大雪にさらされることになった。
まだ登山口まではかなりの距離があるはずだ。
腕時計をみると時刻は五時前。
あと一時間くらいで登山口に着くはずだが。
時計をちょっと確認するあいだにもあっという間に雪が盤面について時計の針がわからなくなるくらいの吹雪だ。
先を急がねば。
しかし、それから三十分歩いても、登山口には到着しなかった。
雪もやむことはなかった。
むしろどんどん強くなる。
雪雲が太陽をさえぎったせいか、日没前でもあたりは真っ暗になっていたので、俺は懐中電灯をつけていた。
もはや登山道には雪が全面に積もっていて、道がどこにあるのかわからない状態だった。
他のひとの歩いた足跡でもあれば、それをたどればいいのかもしれないが、真新しい雪の上にはそんなものは一切なかった。
ここにおいて俺は確信した。
俺は、遭難したのだ。
認めたくなかったが、認めざるをえなかった。
後悔したくなかったが、俺は自分の決断を呪った。
正午に出発などという、遅い時間に登山を開始しなければ。
頂上に着いてすぐに下山していれば。
そもそも列車が大幅に遅れている時点で登山自体を中止していれば。
いや、だめだ。
そういった焦りはすぐ死につながる。
こういう緊急時にこそ平静を保たないといけない。
そんなことはさんざん特殊部隊の訓練で叩き込まれたことだ。
冷静に。
こういうときは元来た道を戻るのが一番いいのだが。
俺はうしろを振り返った。
道には、俺の足跡すらもほとんど消えかかっていた。
おそらく元に戻っても、途中で足跡はわからなくなるだろう。
なにしろこの横殴りの雪だ。
下をみると、自分の服は足の先まで雪がこびりついていて、じっと動かなければあっという間に雪像にでもなれるんじゃないかと思えるほどだ。
俺は懐中電灯でそのへんを片っ端から照らしてみたが、ただ木がそこかしこに植えられているだけで他には雪以外何もない。
スマートフォンを見てみたが、無慈悲なことに電波は圏外だった。
助けも呼べない。
・・・・・・
ビバークだ。
ビバークというのは、遭難した際に緊急避難的にテントを張ってそこで宿をとることを言う。
急いでテントを張らないと。
さいわい、雪は新しくてやわらかいので、すぐにでもテントを張ることができた。
もしも雪が固かったら、それらをかきだすのだけでも時間がかかるので、テントを張るのが大仕事になってしまう。
俺は全身の雪を払うと、テントの中に入った。
寒い。電池式の小さなランタンを灯す。
そうして、でかいカバンの中に持ってきていたカイロの封を何個も切り裂いて開けた。
カイロを、手で、ぎゅっとにぎる。
ぎゅーっと握り続けると、次第にカイロは温かくなってきた。
そうしてまた次のカイロを同じように起動させた。
何個もカイロを用意すると、ジャンパーのファスナーをあけて、下着の上にカイロをたくさん放り込んだ。
貼り付けタイプのものは、背中やらお腹、尻の下につける。
あと、なによりも手と足の指先は凍傷しやすいので、どちらもカイロで温めつづけた。
そうやって人心地ついたところで、俺は非常食用に持ってきた菓子を食べることにした。
菓子は、保存が効きやすいビスケット類が多い。
飲み物は、水筒にいれてきたお茶しかない。
最初はあたたかかったはずだが、中を開けてみると、すでにほとんどあたたかみはなくなっていた。
まあ、冷たいよりかはマシだ。
あとは。
体力を減らさないよう、寝ていよう。
いざというときに体が動かないのじゃ助かる命も助からないというものだ。
外からは雪のすごい轟音が鳴りつづけている。
突風が吹いたのか、ときおり「ぴゅるるる」という嫌な音が聞こえる。
遭難してしまったのはミスだが、すぐさまビバークしたのはいい判断だったろうと思う。
ここでじたばたとパニックになってうろついてしまったら、本当に死んでしまうかもしれない。
またスマートフォンを見てみたが、やはり電波は圏外だった。
そこで俺ははっとした。
急いでスマートフォンの電源を切る。
充電切れになったら電波が届く状況になっても救援依頼ができないことになってしまう。
あぶない。
ちょっと遅れたが、気がついてよかった。
++++++
俺はやることもないので、ただただ目を閉じて夜が明けるのを待っていた。
そうしてだんだんと眠くなってきた。
身体中にカイロを張っているので、このまま寝て起きたら死んでました、ということにはならないだろう。
俺は、いつのまにか眠っていたらしい。
++++++
何か、頬に触れるものが。
だれだ、俺の眠りを邪魔するものは。
俺は寝ぼけていて、いまいち頭が働かないらしい。
まぶたを開けると。
「あの・・・もしもし・・・生きていらっしゃいますか?」
半開きにした俺の目の向こうに、人らしきものが・・・
俺はかっと目を見開くと、両手をうしろについて座ったまま腰から上だけ起こした。
「きゃっ!」
女性が悲鳴をあげる。
俺はいま自分が置かれている状況を瞬時に思い出した。
女性は・・・
帽子をかぶった頭の上からひざの先まで、かすかに雪がついている。
しかし外は大雪だ。このテントに入る前に雪はあらかた取り払ったということか?
長い黒髪を左右に垂らしているその女性の瞳は、濡れて、揺れている。
大きなつり目にふたえのその女性は、正座し、左手をテントの床につき、にぎった右手を口元に寄せて、不安そうに俺のことを見ている。
あごが短いひとだ。
俺は、これはほんとうに現実なんだろうか、と思った。
もしかして、ここはもう天国か?いや地獄かな?
いやいや、地獄にこんな美しい女性がいるだろうか。
俺は一瞬彼女から目をはなしたが、もう一度彼女を見ると、うっすらと濡れた唇がかすかに揺れて、吐く息が白くなっていた。
俺は急いでカバンの中からカイロを取り出すと、これまた急いで一気に何個もそれらを開封した。
「あ、あの・・・」
とりあえずいまは彼女とのおしゃべりは後回しだ。
俺はカイロをぎゅっとにぎり、しばらくにぎってから、ひとつずつそれらを彼女に渡していく。
「これを体の中に貼って」
「あ・・・ありがとうございます!」
そう言って、彼女は俺に背を向けると、もぞもぞとカイロを貼り始めたようだ。
俺はさらにカイロを取り出し、またぎゅっと握る。
これを繰り返した。
「あの、背中、貼ってくれますか?」
「ん?」
俺は何を言われているのかわからなくて一瞬ぴたりと動作が止まってしまった。
「あの、手が、届きませんので」
「あ、ああ」
俺はそう言うと、ひざ立ちで彼女の背中を前にした。
じーーーっと、ファスナーを下ろす音。
そして、彼女の服の一枚が、俺の前で彼女の足元に落ちた。
また、じーーーーっとファスナーの音。
そして、もう一枚彼女の服が俺の前で落ち、またじーーーーっとファスナーを下げる音がし、もう一枚。
そしてまたファスナーの音がした直後、彼女の服が落ち、そこに現れたのは、下着姿の彼女だった。
俺は貼り付けタイプのカイロを、彼女の背中に、上からひとつ、ふたつと貼ってゆく。
「あ、あの!!」
突然、叫ぶような彼女の声。
「え?」
「あの!そんなに貼ったら、あなたの分が無くなってしまうのでは?」
「ああ、それなら心配ないよ。ほら」
そう言って、カバンの中からカイロの山をつかんで、彼女に見せた!
「ね?」
「わあ!」
彼女は驚いて、俺のほうを向いて・・・しまった。
「あっ・・・」
シースルーの、うっすらと透けた彼女の下着の下には、ブラジャーのあいだに胸の谷間がくっきりと浮かび上がっていた。
俺は、思わず口もとをぎゅっと結んだ。
すぐに彼女は、さっ、とうしろを向いた。
++++++
そうして彼女の背中にさらにカイロを貼ってあげたあとは、ふたりしてテントの中ですわっていた。
俺はちょっとだけ、俺の右側にいる彼女の横顔を見た。
ランタンの光は彼女の左頬だけを照らしている。
横から見ると、彼女の鼻がとても高いことがわかる。
彼女は体育座りをして目を閉じている。寝てはいないようだ。口はしっかり閉じられている。
大きな目に鼻が高くてあごのあまりない美女か。
こんな美しいひとと一緒にいるのに、それがこんな状況とはね。
俺は、こんなきれいなひとと死ねるのなら、それも俺の死に際としては悪くないのかもな、なんて自嘲気味に思った。
それで思わず、本当に声に出して笑ってしまった。
「ふふ」
その声に反応した彼女は、
「どうかしましたか?」
と不思議そうに俺のほうを振り向いた。
途端に、ランタンの光が彼女の顔のほぼ全体を照らす。
瞬間、彼女の左目がきらりと光り、鼻の右側に出来る影だけは横に長く伸びた。
++++++
そとからは相変わらずの轟音が聞こえてくる。
明日の朝、外に出ようとしても、テントが雪に埋もれすぎて、生き埋めになってしまったら・・・
俺はそれを危惧すると無言で立ち上がり、テントの出口前にひざ立ちになった。
「え、ちょっと待ってください!外に出られるのですか?この吹雪の中を!?」
俺の動く音に気が付いた彼女が背後から声をかけた。
「もしも雪が積もりすぎたら、明日の朝そとに出られないかもしれない。生き埋めにならないように雪を取っておくんだ!」
俺はテントの出口を開けた。
開けた途端に雪がテントの中にバサッと、たくさん入り込んでくる。
予想どおり、もうテントの入り口をふさがんばかりに雪が積もっている。
「あたしも手伝います!」
「大丈夫だ!俺はこういうのには慣れてるから」
「慣れてる?」
俺は彼女の声を聞き終わらないうちに急いで雪を手でかき集めては捨て、かき集めては捨てを繰り返した。
途端に手が冷たくなり、まるで一気に凍傷にかかってしまうのではないかと錯覚してしまうくらいだった。
入り口をばっちり確保した俺は、テントの中に入る前に、また体中の雪を払った。
そうしてひざ立ちのまま、もぞもぞと中へ入る。
「いやあ。手がつめたい!つめたい!」
「あ、大変!」
「いやいや、大丈夫だよ、カイロがあるから」
俺は歯を出してニカッと笑った。
「これくらい慣れてる、慣れてる」
「だめです!」
そう言って、彼女は、両手で俺の両手を包み込んだ。
俺のにぎっていたカイロは、テントの床にぽとっと落ちた。
しばらく俺の手を見つめている彼女。
俺は、自分の手の感触はよくわからなくなっていたが、彼女の手のぬくもりだけはよくわかった。
しかし。
「いや、だめだ!」
俺は彼女から強引に手をはなした。
「そんなことをしたら、君の手が、冷えてしまうじゃないか!」
「いいんです!」
そう言って、彼女はまた俺の両手を両手で包みこんだ。
俺は呆気に取られ、それ以上なにも言えなくなっていた。
しばらく俺と彼女自身の手を見つめていた彼女が、顔をあげた。
俺と、目が合う。
ランタンに横顔を照らされた彼女の顔は、また、鼻の右側にだけ長い影をつくっている。
彼女の、つり目の大きな瞳が、ランタンの光に照らされ、ゆらゆらと揺れている。
あたたかい。
どんどん俺の手はあたたかくなっていく。
だが、それはつまり、俺のつめたさが、彼女の手に移動していくことと同じなのだ。
「や、やっぱり、だめだよ、君の手が」
俺はさっきよりも弱く手を離そうとしたが、彼女は俺の手を解放することはなかった。
「だめ!あたし、借りはつくりたくないんです!」
「・・・?」
俺は彼女が何を言っているのかわからなくて、思考停止してしまった。
彼女が、濡れた、その唇を、開く。
「テントの中にまで入れてもらって、おまけにカイロまで貼ってもらって、そのうえ雪かきまでさせてしまうなんて。せめて、これくらいのことは、させてください!!」
さっきまでやさしそうな微笑をたたえていた彼女の口もとは、きっ、と結ばれ、あごをあげた彼女は、まっすぐに俺の目を見てくる。
そうして、俺と彼女は、しばらくのあいだ、見つめ合っていた。
++++++
それからのち、俺たちは寝て夜を過ごすことにした。
俺はカバンを枕にし、両腕を胸のところで交差して、足を大の字に投げ出し天井を見ていた。
ふと彼女のほうを見ると、彼女は俺に背を向けて寝ている。
が、なんだか震えているように見える。
「寒いのかい?」
俺は背後から彼女に声をかけた。
カイロであたたかくしているとはいえ、それだけではまだ足りないのかもしれない。
彼女は両肩を両手で抱えているが、やはり震えているようにしか見えない。
本当は上着を貸してあげたいところだが。
俺は彼女とは反対の方向を見た。
あいにく、上着は雪で濡れてびちゃびちゃだ。
一応干してはいるが、まず明日の朝までに乾くことはないだろう。
俺は雪山での訓練もばっちり受けているのだ。
こういうときにすることは決まっている。
「ほら」
俺は彼女にすり寄っていくと、彼女のうしろから彼女を抱き寄せた。
「え?え?なんですか?」
「体をあたためあわないと」
「え?そんな!恥ずかしいです」
「あのな。君は、冬山は素人かい?」
「え・・・どういう意味ですか?」
「冬山で遭難したときは体をあたためあうのは常識だろう」
「そ、そうなんですか」
「冷え切った体でなければ大丈夫。冷え切ってるときはまずいらしいけど」
「あなたは、冬山の玄人なんですか?」
「うーん、玄人かどうかは知らないが・・・訓練は受けてるからね」
・・・
あ・・・しまった。
機密事項だった。
「訓練?あなたは、何者なんですか?」
「えーと、山岳・・・救助隊?」
そこで彼女は俺のほうを向いた。
ランタンの電池がもったいないので、ランタンの明かりはほぼ最小にした。
なのでテントの中はほとんど真っ暗だ。
彼女の表情はよくわからない。
「ほら、あたためあおう」
「こ、これ以上、あなたに借りをつくるのは・・・」
「いまはそんなこと言ってる場合じゃないだろう?緊急時なんだ。我慢しろ」
そう言って、俺は彼女を抱き締めた。
「わかりました!我慢します!」
彼女の口はほぼ俺の耳の先にあるので、ちょっと声がやかましい。
「こ、これは・・・あたしも、あなたを、もっと、きつく、抱き締めないといけないんですよね?」
「ん?そうなのかな?」
「だって、あたためあわないといけないんでしょう?助け合いですよね?」
「そうだ。助け合いだ。俺も君に助けてもらっている。だから、別に君は俺に借りをつくったことにはならないよ」
そう言って、ゆっくりと、彼女は俺のことを抱き締めてくれた。
「あたたかいです」
「うん。俺も」
「あの、ひとつうかがっても、いいですか?」
「ん?なんだい?」
「あの、お名前を、まだ、うかがっていないです」
「ああ、そんなことか。俺は、詳(つまびらか)アレスっていうんだ」
「つまびらかさん。めずらしいお名前ですね」
「ああ、よく言われるよ。君の名前は?」
「陰陽 恭子 です」
「おんみょう?君もだいぶめずらしい名前じゃないか」
「そうですね」
「ふふ」
「うふふ」
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