4日目・正しい尾行のやり方
向かいのマンションのベランダを何度も確認してみたが、今日も一度も恭子の姿を見ていない。
見かけないと、それはそれで気になるものだ。
いや、実際には向こうもカーテンの隙間から常にこちらをうかがっているのかもしれないが。
そう考えるとちょっと不気味ではある。
そうして、そろそろシャワーでも浴びようかと思案していたところに、
ピンポ~ン♪
とチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう。
まさか、望未か?
やっぱり同じマンションの同じ階に住まわせたのは、恭子が俺のことを監視するのが目的としか思えないな。
インターホンのところに行って、外の画面を確認する。
玄関の前にいたのは、成瀬だった。
成瀬とはさっき会ったばかりだ。なんだろう。
俺はゆっくりと玄関に向かい、ドアを開けた。
「やあ、どうしたの」
「少佐、明日のことで」
そう言って、成瀬はなにやら紙袋を俺の目の前に差し出した。
「なんだ、これは?」
「ちょっと、中に入ってもいいですか?」
「あ、ああ」
成瀬なら別にやましいこともないからいいか、と思って中へ入れることにした。
扉を閉める直前、ちらっと望未の部屋のドアを見たが、望未が出てきそうな気配はない。
後ろ手に扉を閉める。
成瀬はさっさと奥の部屋に行ってしまった。俺もそれにつづく。
成瀬はテーブルに紙袋を置くと、その中からなにかを取り出した。
成瀬と俺はテーブルに向かい合わせに座った。
テーブルの上には相変わらず置き時計とセロテープで開封痕を止めたカイロが置いてある。
「なんだそれ?髪の毛?」
「そうです」
「あっ!」
そこで俺は理解した。
変装か。
明日は望未の尾行をすることになっている。
尾行というのは、対象者に顔がバレている者がする場合には途中で気づかれてしまう可能性が高い。
そのために、顔が知られている相手の場合には、変装が必要になる。
俺が軍にいたころに何度か訓練を受けたが、結局、俺自身が誰かを対象として尾行したことは一度もなかった。
だが成瀬は何度も尾行の経験がある。
今の今まで尾行のやり方なんて忘れていた。
「これはウィッグです。さっき、量販店で買ってきました。それと、こっちはスーツです」
「わざわざ買ってきてくれたのか。言ってくれれば自分で用意したのに」
「尾行はわたしの得意分野です。どんな服を選べばいいかもわかりますので。それに、この空間で少佐がウロウロしたら、なにかと奥さんに目をつけられやすいじゃないですか。なので、自分のものと合わせて適当に見つくろってきました」
「さすがだなあ」
成瀬はこの世界では自分が軍人であることを覚えてなさそうだったが、そのへん、恭子はどんなふうに彼女たちを作ったのだろう。
「ウィッグのかぶり方はわかりますか?」
「この、薄い網みたいなものを、まずかぶるんだろう」
「そうです。その上に髪の毛をかぶります」
俺の髪よりももっと真っ黒いウィッグだ。俺の髪はほとんどスポーツ刈だが、女性でいうとベリーショートみたいな髪型のウィッグ。
「少佐の髪がしっかり隠れる長さのものを選びました。まあ、少佐はそもそもかなり髪が短いので、あまり関係ないとは思いましたが」
「ありがとう。君のは?」
「わたしはこれです」
成瀬がかぶるらしいウィッグはけっこう長い。床に座っている成瀬の頭から床にまで垂れさがり、そのまま横に広がるくらいの長さだ。
「ちょっと、かぶってみてよ」
「なぜですか」
「え、なぜって」
「今はその必要はないですよ」
「ん・・・まあ、そうだが」
「それに、当日わたしの姿を見た少佐が、わたしに一瞬でも気を取られたら、失尾(しつび)してしまいますよ」
失尾(しつび)というのは尾行に失敗することをいう。
「君に見とれてしまうってことかな」
「少佐。ふざけないでください」
成瀬は相変わらず眉毛ひとつ動かさずに俺のことを見上げた。
「ご、ごめん」
俺は首を縦に振って謝った。
「そもそも、明日は、少佐はわたしがどこにいるかわからないと思いますよ」
「へ?・・・あれ?もしかして、別行動?」
「当たり前です」
そうか。どっちかが尾行に失敗した場合にそなえて別行動なわけね。
変身した成瀬が俺の視界に入ったとしても、わからないわけか。
「明日、わたしは学校を早退します」
「・・・それは、つまり?」
「わたしはクラスから対象者が出てくるところから尾行します。少佐は、就業のチャイムのあと、ダッシュでここに帰ってきて変装し、それから尾行に向かってください」
「おいおい、それじゃあ、俺はいきなり望未のことを見失うじゃないか」
「なに言ってるんですか。わたしがどこにいるか連絡します。少佐はそこに急いでやってきてください」
「あ、なるほどね」
俺は尾行の実戦経験がないので、そのへんはよくわからない。
「でもさ、早退してから、君はどんな服で学校に入るわけ?」
「わたしはもちろん、私服で行きます」
「大丈夫か?私服で学校の中に入れるかな」
「何がですか」
「正門の前で誰かに止められるかもしれないぞ。不審者として」
「それは大丈夫ですよ。だいいち、わたしは女です。男よりも警戒されにくいですし。わたしもプロですから」
なるほど。成瀬が言うと説得力があるな。
「じゃあ、それは任せたよ。なんか、尾行は全部成瀬にまかせたほうがいい気がしてくるな」
「そうはいきません。もしもわたしが失尾したら」
「いやあ、それはないだろ」
「少佐。油断は禁物ですよ。相手が何者かわからないのですから」
「望未はただの普通の女だよ」
そう。望未は軍隊の経験もないのだし。別に警察官になったとかいう噂も聞かないし。
「少佐。奥さんは、明日、宮田望未を尾行するように言ってきたのですよね」
「ん。うん」
「わざわざそんなことを言ってくるということは、宮田望未が誰かと会うからだと思いませんか」
「あ」
そうか。そういうことか。
「もしも宮田望未の会う人物が、過去に尾行された経験のある者だったり、警察関係者だったりしたら」
「確かに、その可能性もないとは言えないな」
「そういうわけですから、油断は禁物です。尾行する人間は最低ふたりは欲しいところです」
そう言って、また成瀬は紙袋から何かを取り出した。
「そのカギは?」
「車のキーです」
「ん?」
「このマンションの駐車場、下に空きがありましたから、停めておきました。トヨタのプリウスです」
「へ?その車、どうしたわけ?」
「盗んできました」
「はあ?どこで?」
「別にそれは、少佐が知る必要のないことじゃありませんか」
成瀬はなおも表情ひとつ変えずに言う。髪のあいだから見えるブルーの瞳は、まったく変化を見せない。
「あ、あのなあ」
「それくらいのことはできますよ」
「いや、そうだけど、もしも警察がやってきたら、どうすんだよ」
「そんなヘマしませんよ」
こわい。
つくづく優秀なやつだ。
味方でよかったよ。
「で、つまり、その車で尾行しろってことかな」
「そういうことです」
なるほど。もしかしたら途中で対象者、つまり望未と、望未の出会う人物が車に乗ってどこかに行く可能性に備えてのことだろう。
そうやって考えてみると、さっきまでここでのんびりしていた自分が、ちょっと恥ずかしくなる。
電車の一件のあと、成瀬はここまで考えてくれていたのだ。まったく恐ろしいやつだ。
「あ、そうそう。車は盗難車ですから。明日、帰りにどこかに捨てて帰ってくださいね」
やっぱりこわい。
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