第2話


 それは大木にとっては昨日のことのようであり、人間にとってははるか昔のことであった。男がまだ玄冬の時を過ごし、女が青春の盛りを迎えた頃のこと。

 早々に酒に溺れる両親達に嫌気を差す少年の世話は、いつだって少女の役目であった。歳の離れた幼馴染の視線に含まれる好意の種類に気付かぬほど少女は幼くはなく、されど、それを受け止めるほどには若くもなかった。


「どうして……?」


「さて、如何したものか」


「なっちゃんは僕が嫌い?」


「まさか。だがそれが君を愛しているということと同義ではないということだ」


「どーぎ?」


「私は君を弟のように思っているというわけだよ」


「僕、なっちゃんの弟じゃないよ」


「そう思っているというわけだ。分かるかい。私が、そう、思っているわけだ」


 芽吹き、根を下ろした地より動くことの適わない大木にとって、他の命が織りなす輝きほど麗しいものはなく、つまりはまあ……格好の娯楽ひまつぶしなのだ。ことさら大木は人間を好む。彼らが恋愛と呼ぶそれは、他の種族には見て取れぬものであり、もどかしさすら感じる一連の流れは何度見ても新鮮さに溢れている。酒を嗜む人間が己を見上げて風流だと呟く気持ちなど、大木には一切理解の範疇を超えているものであるが、なるほどどうして、恋愛中の人間を見て感じる気持ちこそ、これこそが風流なのかと大木は存在しない頭で納得していた。


「……君が大人になったときになら真剣に考えてあげよう」


「ほんと! 嘘じゃないよね! 絶対だよ!」


「大人になったらね」


「大人っていつになれるの? 明日?」


「君が」


 人の恋路を盗み見るなど悪趣味にもほどがあるが、その道理が大木に通じるはずがなく、また、己を傷つける人間を見逃しているのだからこれくらいは駄賃に妥当だと、大木は葉を揺らす。


「私の身長を超えた時かな」


 木肌に残された傷痕を少年は輝く瞳で見上げる。それは、希望の光であり、絶望の光であった。

 性別による体躯の違いは種によって異なっている。多くが雌のほうが立派な体躯をもつなかで人間は男のほうが背が高くなりやすい。一年、二年と経つなかで少年の瞳に宿る野心の火は、三年、四年、五年と経つと幾分と燻っているようである。


「ナツさ、またでかくなってね」


「去年より5㎝伸びたね」


「嘘だろ……」


 可愛かった面影が嘘のように歪んでいく男の目つきが悪いのは、なにも生まれ持った才能のせいではなく、精神衛生の悪さが理由であった。足りぬのだ。どれだけ男が背を伸ばそうと、女はその先を行く。どれだけ行こうとも、男の線が女の線に追いつきはしなかった。


「ズルいだろ……」


「ズルで身長が伸びるなら、世に苦しむ幾ばくかの人間は救われるだろうね」


「俺もな」


「今年もまた私の勝ちだ。そして、勝ち逃げさせてもらおうか」


「東京じゃなくてもよくねえか」


「それが君が決めることかい」


「いいや。お前が決めることだな」


「そういうことだ。分かっているじゃないか。さぁ」


 女が線を引く。

 大木に、男との関係に。


「四月になれば私は花の大学生。踊る心がないといえば嘘になる。ああ、そうだとも、分かるかな。分かってくれるかな」


「五年後だ」


「その時、私は社会人だね」


「五年後だ」


「好きにするといい」


 その場をあとにする女が振り返らないのは、それがせめてもの優しさであったから。

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