第186話 空亡㊲ 別れ

「これが……? 」


 神楽は手元の勾玉に視線を落とした。翡翠色の輝きが、魂までも吸い込むようだった。


「それを身につけていれば、呪いを吸ってくれるらしい」


 彼女は言われた通り、龍涙と呼ばれる勾玉を首から下げる。

 すると、一層に光が増す。暗闇にでも持っていけば、淡く光って明かりになるだろう。


「少し、苦しさが無くなったような……? 」


 先程まで肺を紐で締め上げられるような、鈍い痛みが胸の内にあったが、勾玉を下げた途端に、蝋燭の火がふっと消えるようにしてそれが無くなる。

 心なしか体も軽い。


「ほ、本当か!? 」

「はい、少しですけど、体調が良くなった気がします」


 亡の顔が、向日葵が咲いたみたいに明るくなって、神楽を抱きしめた。


 ***


「勾玉、渡しましたぞ」

「うむ、ご苦労」


 晴明は眼前に鎮座する若い男に、頭を下げていた。まるで主に従う従者である。引きつった顔を悟られぬよう、深く深く頭を下げた。


「龍神様、あの勾玉の、効力は……? 」

「あぁ、あれはな――」


 ***


 神楽の体調が回復して、もうひと月。彼女は妖怪退治の依頼を請け負うほどまでになっていた。

 今日は人が寄り付かない、郊外にある古い神社に来ている。


「さて、お仕事お仕事」


 神楽はようようと、妖怪の前に躍り出た。

 石壁の表面に、無数の眼球が浮かんでいる妖怪だった。人語を解さないようなので、そこまで強くはないだろう。

 まず、挨拶がわりにひとつ、正拳突きで壁に穴を開けた。


 ――龍涙には、確かに呪いを弾く効果がある。


 次に繰り出すのは、回し蹴り。妖怪を遥か後方へ吹き飛ばし、社の中へ。

 衝撃で建物が崩れる。


 ――しかし、我の呪いの場合は別じゃ。


 その隙を逃さずに畳み掛ける。

 石の肉体に乗り上げて、連続で殴りつける。


 ――少しの間は弾くが、呪いは消えん。気づくのは、もう死ぬ時であろうな。


 妖怪の体が崩壊し始める。

 あと一息だ、と彼女は最後の攻撃を準備する。


 ――あの勾玉の真の効果は、我が住む神界への鍵じゃ。1度あれのそばで巫女が死ぬことが、龍涙の封印を解く条件じゃ。


 大きく息を吸い込んで、拳に霊力を集中させる。


 ――そして、効果が現れれば、今後巫女が死んだ後、その魂は我のものになる。永遠に神界に囚われるのだ。


「“竜骨”! 」


 石壁の肉体が、完全に破壊される。


 ぱんぱんと手を叩いて、神楽がその場を後にしようとした時、それはやってくる。


「っ! がっ、はっ! がっ! 」


 心臓が張り裂けそうな程に握りしめられる。たまらずに片膝をついた彼女に、容赦なく痛みは襲いかかる。


 ――我の復活には、肉体だけでは不十分なようなのでな。巫女の魂を、にえとせねばならん。


 口から血が噴き出る。鼻からも、目からも出血が止まらない。

 彼女は、次第に自分の血液で溺れていった。


「な、んで……」


 呪いは解けた、そう思い込んでいた。しかし、今彼女に襲いかかっている力は、間違いなく龍神の呪いである。

 もはや視力は奪われた。身体中の筋肉は千切れ、もうまともに動くことも叶わない。

 彼女は悟る。死がやってきたのだと。


 ――できることなら、最後は、あなたの腕に抱かれて死にたかった。


 少しだけだが、寂しく思う。

 まさか、こんな急に別れることになるとは想像していなかった。


 ――あぁ、でも……。


 彼女の脳裏に、旅の日々と、その後の日常が次々に浮かび上がる。


 ――私の人生、良かった、よね……? 亡さん。


 神楽は、自分の胸に浮かんでくる感情を、心の中で抱きしめた。


 ――あぁ、やっぱり、これが、なんだ……。









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