第187話 空亡㊳ 影

 雨が降っている。この季節の雨は冷たかった。この現実ごと押し流してくれれば良かったが、そんなことはなく、ただただ、目の前に真実はある。


「神楽……」


 亡が膝をつく音も、その慟哭も、この雨音では聞こえることもない。

 かきいだいた伴侶の体は、冷えきった指先でも分かるほどに冷たかった。痛いほどにその冷たさを知った。


「すまない……神楽、俺が、役に立たないばかりに……。すまない、すまない……」


「亡……、なっ……!? 」


 背後に感じた兄の気配に、今は意識を向ける暇はない。

 彼にできるのは、せいぜいが泣き喚くことだけだ。神の力の前に、1人の人間の力など赤子でしかない。


 その日は、雨が降った。


 ***


 骨が砕ける音。そして、確かに拳で頬骨を砕いた感覚。

 空の手は充血し、晴明の頬は腫れ上がっていた。


「ふざけるな!! てめぇ、あいつを騙しやがったのか! 」


 龍涙は呪いを完全に弾くものではない。弟夫婦が諸手を挙げて喜んだ希望は、所詮は神のあそびにすぎなかった。


「龍神様、いや、龍神は復活を試みている」

「それがなんだよ! 俺に話してどうすんだ! 」


 畳を赤く汚しながら、晴明は彼に頭を下げた。


「頼む。お前たち兄弟には龍神の封印を手伝って貰いたい」

「てめぇ、ふざけてんのか! この後に及んでお手伝いさせようってのかよ! 封印なんてできるんなら、なんでもっと早く言わなかった! そうしたら神楽は……」

「準備に、手間取った」


 晴明はそれ以上何も言わなかった。

 空は怒りの落とし所を無くし、ウロウロとその場を彷徨う。


「詳細は……? 」

「お前たちの了承が得られれば話す」


 空は部屋から出て、その場に立ち止まった。


「あいつにも、話してみる」


 ***


 結論から言えば、亡はすぐに了承した。

 空は神楽が死んだ日から、弟の様子にどうも違和感を覚えていた。

 あれだけ愛していた女が死んだというのに、翌日にはいつもの調子に戻って、今では孤児達の世話や妖怪退治に精を出している。


 伴侶の死に押しつぶされず、前を向いていると考えることも出来るが、どうにも無理をしているように思えてならない。


「亡、無理をしなくても……」

「神楽がいれば、きっとやりなさいと言うよ」


 ――あぁ、やっぱりだ。


 亡は神楽の死が悲しくない訳ではない。完全に立ち直ったわけでもない。

 ただ、神楽に恥ずかしくないように、彼女に対して胸を張れるように気張っているだけだ。

 彼はまだ、蓬莱 神楽に囚われている。


「それに……」


 亡は兄から目を切って、庭の方を見つめる。溶けだした雪が固まって、氷になっていた。


「龍神とかいう神は、許せないから」


 その時既に、彼の表情に影があったことを、空は気づけなかった。

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