第145話 裏切り者

 第1長官補佐執務室。一条夜子に与えられたこの部屋には、彼女以外に誰もいない。

 法律やら行政について書かれた小難しい本が棚いっぱいに並び、その1つ1つが部屋を見下ろすように佇んでいる。


 彼女はスマホを耳に当てながら、いつも身につけている黒いローブを脱いだ。

 スーツ姿になったら彼女の頭から、年齢の割に多く白髪が混じった長い髪の毛が垂れる。


「うん、そう。三条と五条が断絶したわ。これでは、一条、四条、九条の3家だけ」


 電話の向こうにいる誰かの声が微かに部屋に反響する。内容を聞き取ることが出来ないほど小さなその声は、少し高い、女性のものだった。


「うん。ぬらりひょんの所で、お願いね。奏多ちゃんが行くみたいだから気をつけて。ゲホッ! ゲホッ! 」


 強く咳き込んだ夜子は、口元に当てた右の手のひらを見つめながら、俯き加減に言う。


「ごめんね、こんな役割。でも、もう時間が無いの」


 彼女は器用に肩と耳でスマホを挟みながら、右手を拭った。


。うん、乗っ取りも上手くいくと思う。随分時間がかかっちゃったけど、ようやくね。うん、アメリカも……そうね」


 夜子は手を拭ったティッシュをゴミ箱に投げ捨てる。怒りをうち捨てるように、強く腕を振るった。


「これで、生贄も十分よ」


 ***


「これで、生贄も十分よ」


 なるべく音を立てないように、手で口を覆いながら、美緒は補佐官室の前で立ち尽くしていた。


 ――長官の死体? 乗っ取り? 生贄? 興亡派に内通してるのは、長官じゃなくて……。


 美緒は足音を立てないよう、ゆっくりとその場を後にした。もう音が聞こえない所まで来ると、途端に走り出す。

 ウェーブのかかったショートボブを揺らしながら、彼女は滅多に人が来ない、討魔庁の離れにあるトイレに駆け込んだ。


 ――早く、早く、伝えなきゃ。葵に……。


 スマホを素早くフリックし、ロックを解除して電話番号を入力していく。

 緊張で手が震える。上手く持てず、スマホを床に落としてしまう。


 早く拾おうと彼女が手を伸ばした時、鍵をかけたはずの扉がガチャリと開いた。


 夜子がこちらを見下ろしながら立っている。


 彼女は美緒の口を片手で塞ぎ、懐からナイフを取り出した。


「っ!? んー! んんー!! 」


 頭を振り乱しながら、怯え、半狂乱になって美緒は暴れる。

 連絡係の彼女には、大した戦闘能力は無い。スーツとスカートを乱しながら抵抗しても、腕を振り払うことは出来なかった。


 彼女の目から流れ出た涙が、口を抑える夜子の手を濡らしても、力は一向に弱まらない。


「んんんん! んん! んんんん! 」


 助けて、何もしません。そう訴えようとしても思うように口は動かない。


 振り上げられたナイフが、美緒の胸に向かって下ろされた。

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