第70話 決意と別れ
あの惨劇の晩、時雨は眠れなかった。
目に黒々としたクマを作りつつ、彼女にはまだやらなければならないことがあった。
霧雨がどこから時雨と康二の関係を知ったのかは分からないが、いずれにせよこのままでは彼を危険に晒す。
そう判断した時雨は、康二をいつもの隠れ家へと呼び出した。
その日の夜は新月だった。いつも夜を照らしてくれる月も、この日ばかりはその目を閉じる。
必然的に、隠れ家の中も暗い。蝋燭の光だけでは、顔の前にかざした自分の手がようやく見える程度だ。
彼女にとっては好都合だった。
***
康二が立て付けの悪い戸を開き、急ぎ足で隠れ家へと入ってくる。
息が上がっていることから走ってきたのだろう。
前日に、彼の家に飛んできた烏の足首に文が巻き付けられていた。
時雨からのものであった。
『話したいことがあります。どうか明日の晩、いつもの隠れ家に来てください。迎えには行けませんが、監視用の烏に見張らせるので、妖怪のご心配はありません。何卒。 時雨』
いつもは美しい彼女の字が乱れていた。
康二はただ事では無いと思い、その日の夜の仕事を全て取り止め、全速力で時雨の元へと急行したのであった。
「時雨様、どうされたのですか? 」
「お話が、あって……」
康二は一瞬、息を呑んだ。
彼女の顔は、暗い部屋の中でも分かるほどに酷くやつれ、目の下にできた濃いクマがそれを一層に悲壮なものにさせていた。
「そ、その顔は……」
「心配はありません。執務が立て込んでいただけですから」
時雨は彼に向けていた顔をそむけてしまう。
いつもの彼女ではない。康二はそう直感した。
「時雨様、お悩みがあるのでしたら……」
「もう、会うのは止めましょう」
康二の表情が一転し、その脳は揺れた。
体がその言葉を拒絶するように、全身から冷や汗が漏れ出る。
「な、何故ですか……!? 」
「もう、愛が尽きたのです」
時雨は彼を見ることはない。
ただ冷たくそう言い放った。
「で、ですが、お腹の子は……」
「あぁ、言い忘れていましたが、この子はあなたとの子ではありません」
康二には紡ぐ言葉が無かった。この場に相応しい言葉を持ち合わせていなかった。
「大妖怪である私が、人間の子など孕む思いますか? あなたとの関係は単なる戯れです。お腹の子は他の天狗との間に出来たのです。勘違いしないでください」
淡々と、一瞥をすることも無く時雨は話していく。
用意された脚本のように。
「違う……貴方は、そんなことができる方ではない! 」
泣き叫ぶように康二は言う。
彼は、時雨が男を何人も作れるほど器用な女ではないことを知っていた。
「顔を、顔を見せてください! あなたの顔を見れば、私にはその真意が分かります! 」
「……顔など、見たくもありません」
彼から背けられた時雨の表情を読み取ることはできない。
その肩に康二が触れようとした時、彼の足元に風の刃が飛ばされた。
「なっ……!? 」
「出ていってください。そして、もう谷には近づかないで」
なおも近づこうとする康二に、続けざまに2度、3度と刃が飛ばされる。
さすがの康二も後ずさりせざるを得なかった。
「……私では、その荷は背負えぬと、そう言うのですね」
彼の頬に涙が一筋。
「あなたの真意は測りかねます。しかし、私は、あなたのことを愛しています。これまでも、これからも」
「……戯言を、私は、あなたのことを……」
時雨は片手を口元に当てて、吐き捨てるようにして言った。
「心に留めたことなど、1度たりとて、ありません」
***
康二が力任せに戸を開け、小屋から飛び出してしばらく。
時雨は口に手を当てたまま座っていた。
やがて、その手に力がこもる。その手首を握る手も同様であった。
爪が皮膚に突き刺さって、顔から血が垂れてくる。
――私は、あなたのことを……
決して康二のもとに届かないように。
決して自分の覚悟を揺らがさないように、彼女は小さく小さく呟いた。
「愛して……います……」
目から涙の滝が流れる。血と混ざりあった雫が、床に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます