第62話 反抗期

 青年は彷徨さまよう。17になったばかりの彼は、厳格な父に対する反発から家を飛び出した。

 しかし、神室家の御曹司として大事に育てられたこの男、神室康二は、烏楽の町を1人で出歩いたことなど無かった。


 家を出て今日で5日目になる。家から持ってきた自分の財布に残っている所持金も、もう尽きている。

 その日の宿も無く、うろうろと街を歩いていた彼は、いつしか郊外に出た。


 彼は看板に目もくれなかった。ただ宛もなく歩いていただけだったから、よく前も見ていなかった。

 空腹で足元が揺らぐ。康二の脳裏には父の顔が浮かんだ。


 父が見繕ったお見合いが気に入らなかった。青年期特有の反抗だろうか、康二は突発的に、自らの直情を行動で表現してみたくなった。

 特に好いている女がいるわけでもない。しかし、無性に大人に反発してみたくなった。父母の度量に甘えてみたくなったのかもしれない。


 ――父さんは、怒っているだろうか。それとも心配してくれているだろうか。はたまた、呆れて見捨てられたか。


 康二は長男ではあるが、下には弟が3人いる。父が言うことを聞かない彼を捨て、弟を跡取りとするのもまた、自然なことであった。

 胸中に不安と焦り、そして後悔がごちゃ混ぜになっている。


 父が嫌いな訳では無かった。神室家を当主として牽引していくその背中に、少なからずの憧れがあった。

 ただ、これから敷かれた線路の上を歩くのだと悟った、この17という時分に、どうしようもなく自分というものを見せつけたかったのだ。


 足のふらつきは更に酷くなる。今自分が真っ直ぐに歩くことができているのか。

 それすら分からなかった。


 やがて彼は膝から崩れ落ちるようにして倒れた。

 起き上がる気力もない。このまま烏のエサにでもなるのだろう。

 自らの無惨な死に様を想像しながら、彼は瞼を閉じた。


 ***


 鳥のさえずりが聞こえる。朝の音だ。

 康二は重い瞼を開き、天井を視認した。


「ここは……」


 上半身を起こしてみると、彼の体には毛布がかけられ、下には布団が敷かれていた。

 身につけていた衣服も替えられており、白い寝間着を着ていた。


 状況が呑み込めず、しばらく思考を止めていた彼の耳に、綺麗な女の声が届いた。


「起きたのですね」


 美しい女だと、一目見て彼は思った。肩口で切り揃えられ、編み込みが入った髪。端正な顔立ちが彼の目を奪った。

 装いは山伏の格好であったが、袖が肩のところで無くなっており、白い腕を惜しげも無く露出させていた。


「谷の近くに倒れておりましたので、運ばせて貰いました。お体の方は? 」

「え、えぇ、大丈夫です。あなたは……? 」


 しかし、康二の目はすぐに移った。彼女の背中に生えた大きな黒い烏の翼。

 人では無いことは確かだった。


「はい、時雨と申します。お察しの通り、天狗です。ここは天狗の里、人の立ち入りは禁じられています」


 彼は妖怪を目にするのは初めてだった。ましてや天狗とあっては中々お目通りは叶わない。

 呆気に取られながらも、彼の視線は天狗の顔に向けられていた。


「こ、怖い、ですか……? 妖怪ですし……」

「い、いえ! ただ、綺麗な人だと……」

「え……? 」

「い、いや、失礼しました! 」


 正直な気持ちは口をついて出るものだ。

 つい漏らした本音に彼は気恥ずかしくなって、慌てて視線を逸らす。


 時雨の頬も少し朱色を帯びていた。


 静寂を破ったのは、康二の腹の虫であった。


 時雨は口に手を当ててクスリと笑う。


「粗末なものですが、お食事をご用意してあります。どうぞこちらへ」


 招かれるままに彼は起き上がって、隣の部屋へと入った。


 用意されていた膳の上に並ぶのは、白米、味噌汁、焼き魚と漬物。


「どうぞ、召し上がってください」


 彼はすぐさま座って、気持ちばかりに手を合わせ「いただきます」と言ったあと、夢中で食事にかじりついた。


 栄養を欲していた体は大喜びでそれを受け入れる。


「たくさんありますからね」


 不意に時雨の手が彼の頭を撫でた。

 驚いて彼女の方を見ると、無意識だったのだろうか、時雨も同じ顔をしていた。


「あ、ごめんなさい。夢中で食べているのが、少し可愛らしくて」

「いえ、嫌という訳では……」

「そうですか。おかわり、ありますよ? 」


 顔に全身の血液が集まっているのかと思う程に、康二の顔は熱くなっていた。それでも彼は料理を食べる手を止めない。

 それを微笑みながら時雨は見つめていた。

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