第20話 龍の髭

 構築された結界は、紗奈と青目の空亡を完全に隔離した。

 景色は変わらない。しかし、そこは確かに現世ではない、別の空間だった。


「なんのつもりだ? 言っておくが、こんな結界俺にかかれば紙みたいなものだぞ? 」

「分かってるわ」


 空亡と対峙する紗奈の表情には、一欠片程の変化も見られない。


「やけくそ、かあるいは時間稼ぎか。どちらにしろ無駄な事だ。今の気分はどうだ? これからお前は俺に殺され、片割れも亡雫も俺の手に入る」


 余裕を取り戻した空亡は、完全に彼女を殺す気である。負ける可能性など微塵も考えていない。


 だが、それは見誤りであった。


「何か、勘違いしてないかしら? 」

「あ? 」


 彼女は両手を合わせ、合掌する。


「私は時間稼ぎに来たんじゃない。あなたと、刺し違えにきたのよ」


 その肉体から発せられる霊力が、弾けた。


「“降龍おうりゅう神楽かぐら”」


 数分前の彼女とは比べ物にならないほど強大な霊力が溢れ出し、その場に満ちていく。


「お前、それを、使えたのか……!? 」


 彼女が使用した霊術は、龍神の巫女に伝わる秘伝の奥義。

 龍神の力をその身に宿し、能力を飛躍的に引き上げる。


 しかし、その負担は凄まじい。使った術者は負担に耐えきれず、確実に死ぬ。

 故に、これは奥の奥の手だ。


「さぁ、死になさい! 空亡! 」


 消えた。空亡にはそう見えた。

 彼の脳がその処理を終える前に、紗奈の拳が腹を抉り彼の身体を遥か後方へと吹き飛ばす。


「がはっ! 」


 空亡が苦悶の声を上げた直後、今度は宙に浮いた彼は、地面へと叩きつけられる。


 巨大なクレーターの中心で吹き出る鮮血。彼の口から発せられたものである。


 何とか体勢を立て直すも、攻撃が止むことはない。顔、胸、腹、足、あらゆる箇所に彼の目を持ってしても見えない、不可避の打撃が打ち込まれる。


「はああああああああ!!! 」


 紗奈の渾身の一撃。

 空亡の腕は千切れ、口や鼻から垂れ流した血でその身は赤く染まっていた。


「くっそ! “現世”! 」

「効くか、そんなもん! 」


 現世の斬撃は、彼女の身体を守る霊力の膜に全て弾き返され、効果は無かった。


「“幽玄神威”! 」

 強大な妖力の塊を手に持ったまま紗奈にぶつける。


「無駄よ! 」

 しかし、腕ごと空に蹴り上げられ空中で大爆発を起こし、花火として打ち上がるだけであった。


 空亡の技のことごとくを無効化し、攻撃は続く。



 その間にも、紗奈の身体は降龍神楽の反動によって、高い負荷に晒される。


 骨が軋む音がその耳にも届いていた。


「ぐっ! まだまだぁ! 」


 それでも、彼女は攻撃を絶やすことはない。

 一撃を打ち込む度に肉体は悲鳴をあげる。

 彼女を支えるものはただ1つである。


 ――あの子達は、私が守る!


 家族のため、娘たちのため、彼女は母親としての責務を全うしようとしていた。


「ごほっ……!」


 口から吐血する。既に彼女の内蔵は潰れ、生きているのは奇跡的な状態だ。


「この術、はぁっ……ほんと、はぁっ……燃費悪すぎよね……」


 肩で息をしながら、彼女は立ち上がろうとする。


「馬鹿な……なぜ、まだ立てる……! 」


 空亡は全身から血を流しながらも、まだ立っていた。だがその足取りはおぼつかない。

 妖怪である彼もまた、致命傷を受けていた。


「まだ、まだ……」


 紗奈は立ち上がった。霊力は未だに膨れ上がり続ける。






 ――今の気分?


「……“竜骨”! 」

 空亡の顔を、半分吹き飛ばす。




『お母さん見て。テストで100点取ったんだよ! 』

『お母さん、今度のライブ絶対見に来て! 』


『今日母の日でしょ? 』

『似合うかなと思ったんだけど……』


 彼女の脳裏に浮かぶのは、彼女が最も愛し、そして最も愛された存在。






 ――2人共……


 ――――私が、絶対に守るからね。






 ――気分なんて、そんなの、決まってるじゃない。








「“最っ高”よ……!! 」


 彼女には、死の恐怖も苦痛も無かった。

 ただあるのは、子供達を守れるという母親としての喜びだけだ。


 連撃を加え続ける紗奈。


「ば、かな……もはや内蔵も、とっくに潰れているはず……なぜ、動ける……! 」


 彼女は大きく笑って答えた。


「母は強しって言うでしょ! 」



「これで終わりよ! 空亡! 」


 彼女の“最期”の攻撃が、刻まれた。

「“りゅうひげ”! 」


 掌底に全ての霊力を込め、空亡のみぞおちを抉る。


 内側に直接霊力を叩き込まれた空亡の身体は、ボロボロと崩壊していく。


「この、俺が、空亡が……、“また”人間に……! 」


 霧散し、空へと舞っていく残骸を見つめ、紗奈はへたりこんだ。


「はぁっ、はぁっ、ふふっ、やっぱり……巫女の最期は……ひとりじゃなくっちゃね……」


 薄れる意識の中でも、彼女は娘達を案じていた。


 ――あの子たち、大丈夫かしら。なるべく早く、立ち直ってくれれば良いけど……


 紗奈が孤独の中、その目を閉じようとしたその時、結界は崩れた。





 莉子と沙羅が母親に駆け寄り、抱き締める。


「な、んで……」


 か細い彼女の声に答えたのは、空亡だった。


「これが、そいつらの覚悟だ。しっかり受け止めてやれ」


 紗奈はふっ、と笑った。


「余計な、こと、を」



 莉子と沙羅の顔は涙に塗れていた。

 しかし、努めて笑顔を作ろうとしている。


 最初に言葉をかけたのは沙羅だった。


「お、お母、さん……私達、大、丈夫だよ? お母さんが、眠るところ、ちゃんと見てられる、よ? 」


 しゃくりあげながらも、必死に口角を持ち上げている。


「いっ、ぱい、いっぱい、くれてありがとう。私、ここに来て、お母さんの、娘になれて、世界一、幸せだった」


 莉子もまた、懸命に気持ちを伝えようとする。


 紗奈の目にもまた、熱い水が溢れていた。


「ご、めんね……2人とも……。こんな、早く、お別れになって……」


 もはや力も入らない、その腕を2人に伸ばす。

 莉子と沙羅は、力強くその手を取った。


「大、丈夫。大丈夫。私も沙羅も、ちゃんと、前、向けるよ? 」

「そう、だよ。お母さん。だから、ちゃんと、見ててね? 私達、絶対幸せになるから、お母さんが、気づけるくらい、とびっきりに」


 強く、固く握られたその手は震えていた。

 だが、2人は約束を違えることは無いだろう。


紗奈はそう確信した。


「そっ、か……じゃあ、安心だね……」


 夜が明けようとしていた。


「2人、とも……私、あなた達のこと、愛してるよ……大好き……」

「私達も……」

「大好き、お母、さん……」


 龍神の巫女は、孤独なものだ。


 圧倒的な力故に、いつも1人で戦い、そしていつか1人で死ぬ。

 誰にも看取られることなく、ひっそりと。


 歴代の誰もが、そうして死んできた。


 しかし今、彼女はこの世で最も愛を注いだ人間に抱き締められ、その腕の中で生涯を終えようとしている。




 ――あぁ、私。


 日が上り出した。優しい暖かさが、彼女達を包み込む。







 ――――孤独ひとりじゃ、無いんだ……。








「お母さん……? 」

「もう、寝ちゃった? 」


 龍神の巫女・四条紗奈は、安心した子供のような寝顔を浮かべ、2人のぬくもりの中息絶えた。




 母には聞かすまいと堪えていた、莉子と沙羅の慟哭どうこくが日の出と共に空に上がる。


冷たいはずの朝風が、今日は暖かい。

あの手のように濡れた頬を撫で、涙を乾かす。



 龍の髭が、季節外れの花をつけていた。

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