第5話 幸運

 涙で世界が歪んでいた。突如として眼前に現れた男の顔も、よくは見えない。


 片方でキャシーを抱いて、空いた片手で目をこすって、上目で男を見てみる。


 短く切られた黒い髪、目は青く透き通っている。

 身につけているのは着物と袴。江戸時代の人間か、と錯覚しそうになる。


 顔は、多分俗に言うイケメン、という部類に入るのだろうか。よく知らないや。


「あ、貴方、は? 」


 もしかして、と期待する自分がいた。「居るわけない」そう思う現実的な視点を持った自分もいた。


 あの願いが届いたのではないか、そう期待してしまう空想的な視点を持った自分がいた。


「空亡」


 確かに言った。空亡って。

 突然生き返ったキャシー、そこに気配もなく唐突に出現した男。


 ストレスで頭がおかしくなっていたのか。元々私はおかしい女だったのか。

 私は、その名前を疑うこともなく、受け入れた。


「じゃあ、貴方が、空亡様がキャシーを? 」

「そうだ」


 アザになるほどに強く、石畳に頭を付ける。


「え!? ちょっ、おい! 何してんだ!? 」

「ありがとうございます……あり、がとうございます……ありがとうございます……」


 しゃくりあげながら何度も何度もお礼を言った。


「か、顔を上げろって! 」

 空亡様は私の肩を掴んで、必死に私の上体を起こそうとする。

 でも、私は頭を上げることはなかった。


「なんでも、捧げます」


 そうだ。キャシーは帰ってきた。もう、いい。


「この子以外なら、私の命でも何でもあげます。でも、出来ればこの子の面倒を見て頂ければ……」

「少し落ち着け! 何も取らん! 」


 その言葉を聞いて初めて私は身体を起こした。


「なんで……? 」

「なんでって、別に見返りを求めて助けた訳じゃ……」


 分からなかった。私の周りにいた人間は、何かする度に見返りを求めていたから。

 空亡様は困ったように頭をかきながら、諭すような口調で言った。


「あー、なんだ。俺は妖怪であって神様じゃない。でも、お前はいつもここで祈りを捧げていた。ご利益の1つや2つくらい、あってもいいだろ? 」


 その微笑みは、私が見たことがなかったものだった。

 こんな顔してくれる人間、いなかったのに。


「さぁ! 次だ、次の願いを言え! 」

 次?

「そうだ。俺は寛大なんだ。毎日お祈りしてくれた美少女のために、何でも叶えてやろう」


 空亡様は胸を張って、自慢げに言う。

 ――願い、願い……。


 私は頭を巡らした。私が欲しいもの。望むもの……


「暖かい、ご飯。コンビニ弁当じゃないやつ」


 勝手に口から出た。欲しいものが溢れ出してくる。


「新品の可愛い洋服、ぬいぐるみ、あとゲームとかスマホとか漫画とか……それから、それから……」


 目の前にいる彼は、時々相槌を打ちながら聞いている。


「安心できる居場所と、私を愛してくれる人」


 誰にも殴られない場所。私を殴らずに、頭を撫でてくれる人。

 私が今、1番欲しいもの。


「いいぞ。全部やろう」


 拭った涙がまた溢れる。何度袖で拭っても、目の奥から溢れて止まらない。

 嗚咽を漏らしながら、泣き続けた。キャシーが涙を舐めとってくれる。


 この涙は、私が知らない初めて流す種類の涙だった。


 嫌な世界だと思っていた。全部灰色に見えていた。


 でも、この瞬間、私の世界に色がついた気がした。


「そうと決まれば、後片付けをして行かなくちゃな」


 空亡様は私の手を強く掴んだ。




 1秒後、私がいたのは、空だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る