労働の意味

松山大紫

労働の意味

「っていうか、お父さん働き過ぎじゃない?」

 何の前触れもなく、突如として発された娘の言葉に、私は履きかけた革靴のかかとを踏んでしまった。

 反抗期のせいか、ここ最近は口をきくこともほとんどなく、時折顔を合わせると汚いものを見るような目で一瞥をくれて立ち去る高校3年生の娘であるが、休日出勤をする父親を労うだけの心くらいは持ち合わせていたということだろうか。

 あまりに予想外の言葉に虚を突かれて硬直していた私は、何とか言葉を返そうと口を開きかけて――

「バッカじゃないの?」

 二度目の硬直に陥ることとなった。

 例の一瞥をくれると、娘はわざとらしいくらい勢いよく私に背を向けた。その背中にかける言葉を、私は持ち合わせていない。

 結局一言も発せなかった私のことなど、もはや娘は振り返ることもなく、最近いつの間にか我が物顔で三和土に鎮座するようになったヒールの高い靴を履くと、赤茶けた髪を翻して出て行った。

 私は、パタンと閉じた玄関の戸を呆けた顔で見つめていたが、

「あ……」

 靴のかかとを踏んだままであることに気付き、慌てて履き直した。

 休日の朝、8時頃の出来事である。


 会社まではバスで15分揺られる。

 運良く一番後ろに空いていた一人掛けの座席に座れた私は、ふと車内を見回した。休日にスーツ姿の人間など私くらいのものだった。数年前まではまだチラホラと似たような姿の会社員を見かけたものだが、最近はほとんど見ない。同僚にしたって、休日にはラフな格好で出社し、必要があれば会社でスーツに着替えるというスタイルが定着しており、昔からの惰性で何となくスーツ出社してしまう私以外は、上手に「カモフラージュ」できている。

 目を閉じて、娘の言葉を反芻した。

『バッカじゃないの?』

 それはおそらく、間違いではない。彼女が幼いころから、私は毎日朝早く出掛け夜遅く帰宅していたし、休日にも出社していた。家族を養うためにがむしゃらだった。正直に言って、それが誇らしくもあった。顧客のニーズに応えるために、あるいは発生した問題を直ちに解決するために、一生懸命だった。

 娘の年頃からすると、そんな人間はまさしく「馬鹿みたい」なのだろう。

 いかにスマートに仕事をこなし、私生活を充実させることができるか。それこそがもっとも重視されるべき時代だ。私生活を犠牲にしてまであくせく働く生活など、疾うの昔に消えてしまったはずの忌まわしき悪習に過ぎない。この御時世、労働などストレスの原因でしかないと認識されている。人はストレスと引き換えに賃金を得て、生活をしている。ただそれだけだ。働くことに、それを賛美する要素など何もない。

 だから、娘は間違っていない。彼女が言った言葉は、この時代において正鵠を射ている。

 しかし、私の心の奥底にはわずかばかりの期待もあったのだ。

 休日すら犠牲にして仕事に精を出す父親を、敬う気持ちもあるのではないかと。

 それが私の幻想にすぎないということが、今朝のほんの数秒の会話で身に染みた。それは率直に、辛かった。


 会社にたどり着き、自分の所属する課へと向かう。

 人気のない社内は薄暗く、シンと静まり返っている。まるで抜け殻のようなどこか寒々しいその空間に、カツンカツンと響く自らの靴音が、私にとっては心地良かった。

 幼稚な例えではあろうが、戦地に赴く兵士のような厳かな気持ちすら沸きあがってくる。私にとって、会社は戦場なのである。果たすべき使命が、負うべき責務がここにはあるのだ。などと声に出して言うと、また馬鹿にされるのだろうが。


「おはよう」

 課の扉を開けてそう声を掛けたが、今朝は一つも返事が返って来なかった。

 今日は私一人かな、と室内を見回すと、課員25人の内10名ほどが出社して自分の席にいる。しかし、一言も発することなく強張った顔でこちらを凝視しているだけだった。

 どうしたものかと私は更に視線をめぐらせ、その原因を把握した。

 把握したと同時にふっと短く息を吐き、お腹の下の方に力を入れる。乱れた心拍数を整え、軽い緊張感を保つ。

 凍りついたような室内に足を踏み入れ、またカツンカツンと靴音を響かせた。私の一挙一動に、課内の視線が集まっているのを感じた。

「おはようございます」

 私は、室内一番奥の課長席の前で足を止め、丁寧に頭を下げた。本来ならそんなところにいるはずのない我が社のトップは、安っぽい椅子に深く腰掛け、朝日を背に鋭い目で私を睨め付け、腕を組んでいた。

「お前に勤務命令なんて出していない」

 言い放たれた言葉に、私は一瞬目蓋をピクリと動かしたが、表情は変えなかった。

 先代が亡くなり、三十余歳という若さで社長の座に着いた彼は、敏腕社長として各方々からもてはやされている。しかし、会社の役員たちよりはるかに若いにもかかわらず放たれる彼の横柄な口振りに、嫌悪感を抱かざるを得ないのは私だけではなかろう。

 そんな気持ちを飲み込み、能面のように表情を変えず言い募った。

「数日前から、A社に提供しているシステムにバグが発生しているようですので、原因究明を急いでおります」

「勤務命令は出していない。帰れ」

「しかし……」

「おい、お前たちも聞け!」

 と、彼は椅子から立ち上がった。背後で、室内の課員がガタンと椅子を鳴らして立ち上がるのが音で分かった。

「ここは俺の会社だ。俺が指示を出していない以上、勝手な仕事をする事は許さない。今すぐ帰れ!」

「お言葉ですが、社長」

 私は引かなかった。

「システムのバグの原因がまだ究明できていません。悪意ある外部からの要因であれば、放置することで被害が拡大し」

「そんな説明は聞いていない。黙れ」

「しかし、社長!」

「黙れと言っている! ……時間外勤務がもてはやされた、お前たちの時代はもう終わったんだよ。過労死、精神疾患、自殺……加えて超高齢化社会、少子化が大きな社会問題となった時代を迎えて、労働時間は大きく削減することになった。休日は確実に休みをとり、残業もしない。必要があれば勤務命令を出す。それに従って働けばいい。働くことを美徳とする時代は死んだんだ。そんなことがまだ理解できないのか、お前たちは!」

 高飛車な物言いに唇を噛み締めているのは私だけではないはずだった。

 『そんなことがまだ理解できないのか』だと?

 若造の分際で何という口のきき方をしているんだ、この男は。


 その時代の流れは、痛いほどよく分かっている。むしろ、誰よりもよく知っている。

 ――過労が社会問題となった、今よりも25年以上前、とある匿名の若者がインターネット上で意見を書きこんだ。

『今のままでは日本が駄目になる。長時間の勤務が、時間外の労働が、愚かであることを浸透させ、徹底的に無くすベきだ! 法整備をし、教育を見直し、根本的な意識改革をしなくてはならない。長時間勤務を徹底的に悪とするんだ!時間的ゆとりがあれば人は金を使う。子を産み、育てる。今の日本は働く事が目的となっており、生きることは働くための手段になっている。何て愚かな逆転現象なんだ! これを正常化しなければ、日本に未来はない!』

 ろくに働いたこともないその若者の言葉は反響を呼んだ。何の具体的ビジョンもないその言葉に、何故か人々は賛同した。きっと疲れていたんだろう。国全体が。

 そして、この考え方に根差した具体的な公約を掲げた政党が選挙において圧倒的勝利を収め、直ちに日本の改革は進んだ。一人あたりの勤務時間を減らすため、会社は構造改革を迫られた。困難かつスケールの大きな改革には長い時間が掛ったが、それでも何とか社会は前に進み続けた。

 それから25年以上が経ち、日本は変わった。景気も回復し、少子化も徐々に改善されつつある。一人一人の仕事量削減のため、会社が従業員を増やしたことで就職難の時代にも終止符が打たれた。当初は国が会社に資金的援助をしていたが、今はどの会社も自分たちで回せるだけの体制を築いている。

 過労死などという言葉はもはや死語だ。独身の若者も減り、休日には子供を2人や3人連れた家族連れをあちこちで見る事が出来る。

 絵にかいたような幸せな社会だった。

 だがしかし、火付け役となった匿名の若者は後に後悔することになる。


「――大体、何が休日勤務だ。大した仕事もしてないくせに、人がやらないことをやって喜んでるだけだろ。未成年で酒飲んで立派になったと喜んでるガキと一緒じゃないか。バッカじゃねぇの」

 社長のその言葉で、私は嫌でも今朝の娘の言葉を思い出した。

 今の日本は、そういう教育がされているのだ。時間内に仕事を終わらせられないのは無能な人間であり、超過勤務や時間外労働をする奴は「使えない奴」でしかない。適度に効率よく仕事を済ませる人間こそが有能なのだと、そう教育されている。

 だから人々は、休日や時間外の勤務をしないために一生懸命だ。そんなことをするのは、自分が無能だと主張することに等しい。

 今やほとんどの会社が、時間外に発生し得る事態に対処するための構造を作り上げている。我が社も例外ではなく、通常の勤務時間外に必要な仕事については、綿密な当直体制を敷いて無理のない勤務となるように調整されている。

 しかし、私の属する課は当直が必要なほど時間外の仕事がある訳でもなく、また、いつ問題が発生するか予測ができない部分もある。だから、当直はいない。対処すべき事案には、時間外に出てきて対処するしかないのだ。

 そんな我々の状況を知らないであろうこの若き社長は、吐き捨てるように言った。

「無駄な仕事しやがって。言っておくが、時間外勤務手当は出さねぇからな」

 そんなものいらねえよ、と口汚く吐き捨てそうになって慌てて口元を引き締めた。

 どんなに残業をしようが時間外勤務をしようが、それを会社に申告することなど疾うにやめた。休日出勤を叱咤されるのが煩わしいだけだからだ。

 時間外の勤務には会社の責任者が「勤務命令」を出し、その代わり平日の休みや時間外手当を支給することで正当な業務と認められる。しかし、時間外の勤務命令を出すことはこの時代において「会社の管理体制の不備」と見られがちであり、そうである以上、勤務命令が出されることはほとんどない。

 だから私は、もうほとんど完全に無償で時間外勤務をしている。古い言葉で言うと、サービス残業だ。

 ――そう、家族のために働くなどという理屈はいつの間にか私の中から消え失せていた。私が働く理由など、最早そんな所にはない。

 もっとも、説明したところでこの若者には分かりはしないだろうが。

「……とりあえず」

 私はふぅと息を吐いた。

「そこを退いてくれませんかね、社長」

「あ?」

「そこは、この課の課長の席です。ここの課員がどんなに重要な仕事をしているのかも知らないような人間が着座する場所ではないので」

 私はその場で振り返った。

 今日、課に来ている10人は年齢性別こそバラバラだが当課きっての有能な技術屋だ。

 A社のシステムバグは、原因次第ではA社や関係各社に大きな損失を与える。場合によっては、多数の会社の存続に致命傷を与えかねないようなインシデントとなる可能性もあり、とてもじゃないが看過できない。

 勿論、即座に社長にも報告しているが、彼は事の重大性を理解できていなかったのだろう。あるいは、他社などどうなってもいいと思ったのかもしれない。

 しかし、ここにいる皆はそのバグの危険性と速やかな原因究明の必要性を直ちに察知してくれた。そして、我々が提供したシステムにより他社が損失を免れない事態となりつつあるこの状況を、いち早く何とかしなければと考えてくれたのだ。

 だから、こうして集まってくれた。

 一切お願いなどしていない。勿論強制もしていない。誰も来なければ私一人でやろうと思っていた仕事だ。それでも彼らはこうして出社してくれた。その理由は、おそらく私と同じだ。


 ――私たちの仕事を必要としている人間がいるから。


 ただ、それだけだ。

 

「お前、今何て言った!俺は社長だぞ!」

「だから何だって言うんですか?」

 私の若いころの悪癖がチラリと顔を出す。

 何とかそれを抑えつけながら、私はカツカツと足早に机の横を回り、社長の真横に立った。

「退いて下さい。私たちの仕事を「大した仕事じゃない」だとか「無駄な仕事」だとか言うような人間が立つべき場所じゃありませんよ。ここはこの課の責任者の――私の席です」

 一歩進み出ると、一瞬気圧されたように社長は後ろに下がったが、拳を握りしめて声を荒げた。

「課長のお前がそんなだから! そんなだから、気を遣った社員が出社しなければならなくなるんだろうが!」

 それも、日本の過剰労働時代の特徴だった。

「何を時代遅れな事を言ってるんですか、若いくせに。今の時代に、そんな意識を持ってる人なんていないでしょう。それこそ、改革と教育の賜物だ。部下は上司を敬い、上司より働かなくてはならないなんて、真っ先に取り払われた意識ですよ」

「だったら何だ、この有様は! 休日にこんなにも大勢出て来てるじゃないか! この状況こそ、お前が生み出した異常状態だろうが!」

 社長はつばを飛ばしながらわめき散らしている。しかし私の目にはもはや、滑稽な生き物にしか写らない。

「あなたは、どこを向いて仕事をしているんですか?」

 私は穏やかにそう尋ねた。

「は?」

「私たちは、私たちの仕事を必要とする人達を向いて仕事をしています。確かに今日は休日であり、今の日本では休日に働くことは“無能の証”でしかありません。えぇ、本当に、バッカじゃないの……ですよね」

 そこで少し口元を緩めた。我ながら上手に、娘の口調を再現できたと可笑しくなった。

「社会は変わった。あなたの言う通りです。休日に仕事をする事は恥ずべきこととなり、休日出勤が必要となれば人はコソコソと会社に行くようになった。無能の烙印を押されないよう、私服でカモフラージュをして、電気もまともに点けずに、薄暗い会社の中でひっそりと仕事をする……だけど、それは間違っていた」

「間違っていない! 現に、それを良しとしたクソみたいな風習のせいで、日本はダメになったんだ!」

「その通りです。過労で死んだ人が何人もいた。自殺した人もいた。仕事のために死ぬなんて、馬鹿げている。……だけど、日本は社会を知らないガキの妄言に、あまりにも踊らされ過ぎたんですよ。人は、ただ賃金のために働いているんじゃない。長時間の勤務を愚かなものだと決めつけてはいけなかった。少なくとも、時間外に働いてでも助けたい人がいて、時間外に働いてでも取り組みたい課題や研究があって、名前も知らない顔も知らない誰かのために何かしたいと思う心は、決して恥じるべきものでも蔑まれるものでもない」

 そんな感性すら愚かであると、今の時代には言われるだろう。

 しかし、それは違う。

 誰かのために何かをしてあげたいという、人間らしさだ。

「もし、そんな感情をすべて切り捨ててしまったら――」


 匿名の若者は後に社会に出て、とある会社に就職した。

 守るべき家族ができ、がむしゃらに働いた。そんな中、社会は着々と改革を進め、労働に対する捉え方は変化した。

 そしてそんな改革が板についてきた頃、彼は気付いてしまった。自分は、取り返しのつかない事をしたのだと。

 命を失ってまで働くことなどあってはならない。労働には正当な対価が必要である。その主張は常に変わらなかった。だけど、労働の意味すら変えてしまったのは明らかに誤りだったのだ。

 彼は、社会に出て初めて気付いたのだ。

 労働は、ただ賃金を得るためだけの作業ではない、と。

 そこには人間らしさがあり、優しさがあり、感動や喜びがあった。憎むべきは行きすぎた指導や過剰な労働であり、働くことそれ自体の意味づけを変えてしまうことは間違っていた。

 気付くと彼は、時間外の勤務や長時間勤務をする筆頭のようになっていた。

 しかし、他にも沢山いるのだろう。自分が労働の意味づけを変えてしまったがために、誰かのために何かをするという当たり前にして賛美されるべき行為を、蔑まれる対象であるとしてコソコソと隠れながらやらざるを得ない人たちが。

 そして彼はついに、実の娘にまで言われることになる。


『バッカじゃないの』


 自分が撒いた種が、もはや自分ではどうしようもないほどに大きな、不気味で得体のしれない間違いだらけの森を生み出してしまったことに気付き、愕然とした。

 持論を捲くし立てることで相手を圧倒し、自尊心を保つという自分の悪癖を全力で発揮したのがあの時だった。

 社会がそれに賛同してしまったのは、不運としか言いようがない。働く意味も、社会の仕組みも、何も知らずにした無責任な発言は彼自身の首を絞めることとなったのだ。


 ――しかし、彼は今新たな希望を抱いていた。

 彼の部下たちは、彼と同じ気持ちを抱いていると。


 匿名の若者は――とある企業の、とある課の課長となった彼は――私は、課長席から部下の顔を改めて見回した。

 彼らは皆、私をじっと見ていた。その目はとても優しく、口元に笑みすら浮かんでいる。

 まるで、私が何を言わんとしているのか、もう分かっているようだった。

 だから私は、自信を持って言った。


「そんなの、働く意味なんてないですよ」


 


 3日後、私は、長年働いてきた会社をクビになった。不思議と後悔も悲しみもなかった。私が欠けても、あの課は残った課員でやっていけるだけの力はある。課員は別れを惜しんでくれたが、その気持ちだけで充分だった。

 幸い今、世間は仕事で溢れている。専門的な技術も身に付けているため、まぁ再就職に困りはしないだろう。


 会社の荷物をまとめて帰路についたのは、午後9時を回った頃だった。

 帰宅すると、玄関に例のヒールの高い靴が揃えてあった。

 あぁ、これは少し憂鬱だな。

 思わず苦笑しながら、私は革靴を脱いで娘の靴の隣に揃えて置いた。

 取りあえず、荷物の入った段ボール箱を廊下に置いて居間へと進む。


 会社をクビになったことは、妻には電話で伝えている。 クビになった経緯も説明した。元来おおらかな妻は、「まぁしばらくはのんびりしたら?」なんて、むしろ楽しげに笑っていた。

 きっと娘にも、もう伝わっているだろう。


「ただいま」

 居間に入ると、私に背を向けた形で娘がソファに座っていた。テレビを見ているようだ。私の言葉に返事をすることなど当然なく、振り返ることもしない。

 私も何と言っていいか分からず、黙ってスーツの上着を脱いだ。 ―― と、娘は何の前触れもなく、背を向けたまま言った。

「バッカじゃないの」

 押し殺したような、振り絞るような、何か強い感情のこもった声だった。

 そうだよなぁ、と穏やかな気持ちでその言葉を受け止めた。家庭すら犠牲にして散々仕事をしてきて、挙げ句にあっさりクビになった。これを馬鹿と言わず、何と言おうか。

「まぁ、他にも仕事はあるさ。幸い貯金はあるし、多分苦労させることは…」


「好きな仕事だったくせに」


 その言葉は、私の脳をダイレクトに揺さぶった。

「周りに何て言われても働きに行くほど好きだったくせに。家族のことを顧みないで働くほど好きだったくせに」

 それ以上言葉を続けることが出来なかったようだった。娘は決してこちらをふり返ることをしなかったが、震える肩と漏れ聞こえる嗚咽は顔を見るよりも明らかにその姿を示していた。

 私は、娘の言葉に自分の心がじわりと溶け出していくのを感じた。後悔はない。しかし、やりきれない想いはある。

 私のことを馬鹿にしていたはずの娘は、誰よりも私の気持ちを理解していたのかもしれない。どうして私がこんなにも一生懸命になって働いているのか、彼女なりに考え、答えを出していたのだろう。

 私は、肩を震わせながら顔を覆う娘の背を見ながら、深く深く息をついた。

「ありがとう」

 何とか口に出した瞬間、何故か涙が溢れた。

 娘はついに、声を上げて泣き出した。


END

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