第2話

 ザーッという絶え間ない音が聞こえていた。雨粒を肌で感じている。


 起きなければ――そんな強迫観念だけで無理矢理に体を動かす。


 真っ先に思い出したのは、落下が始まった瞬間の数秒。私は間違いなく部屋から外へと投げ出された。そして――

 理解が追いつくのと同時に、私は体をさすった。不思議と痛みはない。ただ、体中に違和感が点在している。


 はっとして周囲を見やった。


 降りしきる雨で視界は広いとは言えない。それでもある視線の先にそれはいた。


 フードを目深にかぶり、こちらを見つめる一人の少女。雨に打たれていることなど気にしていないかのように立っている。


 ひとつ、呼吸をして、体に力を入れた。


 どことなく重い。それでも無理矢理動かし、なんとか関節を曲げ、筋肉に力を入れる。


 ひとつひとつの動きを確かめるようにして、ゆっくりと立ち上がった。


 雷鳴が轟き、あたりが一瞬照らされる。


 その音を合図にするかのように少女はこちらへ向かって歩き出した。彼女の手にはいまだ槍が握られている。


 少女の意図は相変わらずわからない。何のためにここへ来て、なぜ私を襲うようなことをするのか。


 でもきっと聞くことはできないだろう。口元まで覆われた上着がそんなことを示しているように思える。


 いまはただ向き合うしかない。きっと逃げ道はないのだろう。私を見つめるあの目がそんなことを予感させる。


 しかし、そこへ聞きなじみのある声が聞こえてきた。


「おーい!」


 背後からだった。


 振り返ろうと体をひねると、視界の端に人影が飛び込んできた。


 人影は私のすぐ横を通り抜け、ぴたりと目の前に着地する。


 その人影は薄紫の長い髪と二対の角を携えている。声を聞いた時点でなんとなく察しは付いていたが、この見た目で確信した。

 

 くるりと振り返る。やって来たのはやはりネフだった。


「茜、大丈夫?」


 場違いなほど明るい声で彼女は話す。言っている言葉の内容に矛盾するかのように、喋り方は軽い。


「なにがあったの?」


 ぽかんとした顔で聞いてくるのもやはり彼女らしい。心配はしてくれているのかもしれないが、動きもふくめてすべてがコミカルだ。


 一方でフードの少女は理解がおいつかないのか、こちらを窺うように立ち止まっている。 


「あっ、えっと、なんていうか、その、……」


 思わぬ登場に言葉がしどろもどろになる。


「驚いたんだよ〜、ふわーって落っこちてたからさ」


 大げさな身振り手振りで状況を説明しながらそんなことを言う。


「さすがにちょっと気になってさ。それで来たんだ」


 そう言ってすぐそばまで近寄ってくる。その仕草は小動物のそれに似ている。


「アイツがやったの?」


 なんのためらいもなくネフは少女を指さした。


「えっ、うん、そう、かな」


「知ってるヒト?」


「……いや、知らない……」


「そっか」


 何に向けた喜びなのかわからない笑顔で答える。それから振り返り、じっと少女を見つめた。


「へー……殺すつもりってわけでもなさそうだけど、やる気はあるみたい」


「え?」


 思わず聞き返した時にはもう遅かった。私のことなどお構いなしに彼女は少女の方へ向かって歩き出している。


「ちょっと待ってて」


 そう言った途端、ネフは一足で飛び掛かり、少女へと蹴りを入れていた。あまりの速さに、少女は為すすべなく腹に食らう。


 ねじるような一撃は少女を十数メートル以上後方へ吹き飛ばした。


 弾丸じみた勢いのまま壁に激突し、力なく地面に倒れる。ぶつかった壁には、その威力を物語る大きなクレーターができていた。


 ネフは少女のことなど気にしていないかのように、こちらへ振り向いた。そのまま私のそばまで駆けてくる。


「案外硬いね、アイツ」


 無邪気に話す。やっぱりどこか楽しそうだ。


「もうちょっとかかるかも」


 そう言うと同時に、ネフの背後で少女が起き上がろうとするのが見えた。槍を杖のようにして何とか立ちあがろうとしている。


 けれど、体にうまく力が入らないのか、膝をついたままでいる。立とうとしてはよろめき、捕まるようにして槍を握る。相当な衝撃だったのだろう。むしろ生きている方が不思議なくらいだ。


 それでもまだ戦う意志があるのか、少女は槍をついたままこちらへ歩き出した。しかし、私と相対したときのような余裕は消えている。ただ必死に歩こうとしている、そんなふうだ。


「むこうもやる気みたいだし」


 ネフはそう言って、少女の方へ向き直った。


「まだ、やるの?」


「もちろん!」


 ネフはあまりにも無邪気な表情で答えた。ほんとうに子どもみたいな笑顔だ。


「……なんで?」


「なんでって……」


 大げさにも見える仕草で思案する。


「面白そうだから?」


 そう言ってまたくるりと振り返った。かと思えば、さっきと同じように一気に距離を詰める。


 少女は当然反応できていない。ただ、ほとんど直感で槍を持ち替えて防戦の姿勢を取った。


 そんなものお構いなしとでも言うかのようにネフは槍ごと蹴り上げる。


 およそ足と金属がぶつかったとは思えない、大きな音が響き渡る。


 少女はまた吹き飛び、宙を舞った。


 追い打ちをかけるように、ネフは浮いた少女に飛び掛かる。少女は放り出されたままで、それでもなんとか受けようと槍を持ち替える。


 しかし、そんなものはなんの意味もなさない。ネフが拳一つで地面に沈める。


 地鳴りが響いた。もう決したと言える。けれど、ネフは手を緩めることはなかった。むしろ、攻勢をより一層強める。


 以降は見るも無残な惨状が続くばかりだった。


 為すすべなく身体を放り出すばかりの少女を、ネフは躊躇なく幾度も殴っては蹴る。十数メートル離れている場所でも感じられるほどの衝撃波が、何度も辺りを吹き荒れた。ネフのやり方は戦いというより、どこまでやれば壊れるかを試しているみたいに見えた。


 結局、少女は一度もまともな抵抗ができず、一方的に弄ばれた。ネフが納得したのか、飽きたのか、ようやくと言えるタイミングで手が止まった。


 少女は無抵抗のまま、私の前に投げ出される。雨に打たれるままでピクリとも動かない。死んでいるようにさえ見える。


「いやー、結構続いたね」


 こちらへ戻りながら、ネフは嬉しそうにそう言った。私にはなにも返す言葉がなかった。


 駆け寄ってくるネフにむしろ恐怖さえ覚えていた。


 ただ、その瞬間ふっと体が軽くなった。膝の力が抜け、視界が急激に暗くなる。


「わっ、とと」


 ネフのそんな声が聞こえたかと思えば、身体を支えるなにかを感じた。


 憶えているのはそこまで。


 うすぼんやりとしたネフのシルエットが見えた気がしたけれど、ほんのわずかのことだったと思う。ネフが何かを言っている声も聞こえていたが、もはや聞き覚えのある音でしかなくなっていた。

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