名前のない神話

十 七二

箱庭の物語

第1話

 いつの間にか雨が降っていた。電子スクリーンの端に傘と滴のマークが見える。


 映画を観始める前は降っていなかったから、この二時間の間に降り始めたのだろう。


 雨音はほとんど聞こえない。いつものことだ。こんなふうに天気を示してくれるものがないと気づかない。耳を澄ませるとようやく窓を打つ雨粒の音が聞こえる。


 よく聞くと雨以外に雷の音も聞こえる。かなり激しい雨模様なのかもしれない。


 なんとなく外の様子が気になり、ソファから腰を上げた。軽く伸びをしながら、窓へと近づく。


 カーテンに手をかけて引いた。窓ガラスに雨粒が打ち付けている。部屋の明かりを反射して、ガラスを流れる水が絶えず変化する模様を作っている。


 夜空に稲妻が奔る。刹那の光を眩暈がするほどに眩しい。稲光によって露わになる雲の分厚さは相当なものだ。こんなに激しい雷雨はいつぶりだろうか。


 ――けれど、そもそも今日の予報は雨だっただろうか。


 そんなことを考えながら、夜の奥に広がる街へ、自然と目線が流れた。


 海と一本の大橋を隔てた向こうに、靄がかかった光たちが見える。本来なら、摩天楼犇めくきらびやかな街が、人工的な光で夜を染め上げるのだが、こんな天気では見られそうもない。すりガラス越しに見ているようなこんな景色も悪くはないけれど。


 一通り外の様子を知れると、途端に飽き始める。夜もかなり更けていた。

 そろそろ寝るのもいいのかもしれないと思いながら、夜景から目を逸らそうとした。


 そのとき、橙の絵の具を投げたような光が、夜の中に現れた。


 それは街のはずれ、海岸沿いのあたりに見えている。


 暖色の部屋の明かりとは比べ物にならないほどの強いオレンジ色。間違いなく炎だ。勢いよく上空へと広がり、雨など関係ないかのように燃え上がる。


 燃え上がるというよりは爆発に近い。音は聞こえないが、相当な規模のものだろう。


 続けざまにさらに二度、橙が現れる。規模は変わらない。今晩の主役はすっかり嵐ではなくなってしまった。


 何かの事故で起きた火災の延長のようには見えない。爆発が起きる直前の刹那、雨とも流れ星とも違う、白い光の線が垂直に落ちるのが見えた。まるで何かを撃ち込まれたような、そんな光だった。


 夜空を探す。すると、そこには明らかに不自然な光の粒があった。航空障害灯の赤い点滅とはまったく違うそれらは、白い光を放って微動だにしない。雨の最中に紛れるほどのか弱さだが、夜景の一部でもまして星などでもない。間違いなく何かが空にある。


 思わず目を引かれ、窓に手をつけて、できる限り顔を近づけた。当然そんな程度のことでは見えるものになんの違いもないが、とにかく気になった。


 直後――目の前の窓ガラスが鈍い音を立てた。


 ある一点を中心に蜘蛛の巣のように罅が入っている。


 その中心は糸くずが集まったような細かな罅で向こう側が見えなくなっているが、ミシミシという音とともに罅は広がり始めていた。


 何かが突き破ろうとしている。そう直感して身を翻すと同時に、バリバリと大きな音を立ててガラスが突き破られた。


 目の前を棒状の細長い物体が横切る。


 バランスを崩し、床へと倒れこんだ。


 何とか反射的に手をついたが、ガラスの破片が腕に刺さっていた。遅れて、思い出したように血が流れる。暑さにも似た鋭い痛みが走る。


 振り返って見ると、窓には大きな穴が開いていた。風と雨がカーテンをバタバタ揺らしながら入り込んできている。顔に当たる風と雨粒が冷たい。


 天井へ目を向けると、こちらにも大きな穴が開いている。その中心に何かが突き刺さっていた。先ほど、目の前を横切った物体だ。形状から直感的に槍だと確信した。


 ガラス片を踏みつけながら身を起こす。刺さるほどでもなかったガラス片が小さな音を立てて落ちる。


 腕のほかに足にもガラスが刺さっていたが、こちらは不思議と痛みはなかった。なんとなく脚が重い、そんな程度だ。立ち上がるのにあまり支障は感じない。床に足がついていないような錯覚だけがまとわりついている。


 窓ガラスに開いた穴を確かめようと、遠巻きに穴を覗き込んだ――その時だった。突如として夜闇に浮かび上がる影があった。


 こちらにめがけて飛び込んでくるそれは間違いなくヒトだ。思わず避けると、落ち葉のようにふわりと穴から入って、ぴたりと着地した。思わず見惚れてしまうほどの完璧な動作だ。


 飛び込んできたのは同い年くらいの少女だった。フードで覆われていて顔は詳しく確認できないが、白っぽい色の髪がなびいている。無彩色で統一された服と、小柄な体格に似合わない大きなスニーカーが特徴的だ。すっと立ち上がった彼女は大人びて見えていた。


 少女はこちらのことなど気にしていないかのように部屋を横切る。棒状のものが突き刺さった天井の真下まで歩き、立ち止まった。突き出た部分を掴み、何度か捻じるような動作をしてから抜き取る。パラパラと塵のようなものが舞ったが、気にならないらしい。手で払うこともなく、慣れた所作で持ち直し、ようやくこちらに顔を向けた。


 思わずぞくりとした。予想外だったからかもしれない。あるいは不釣り合いに見えるからかもしれない。


 大きな赤い眼がこちらを睨んでいる。顔つきは幼く、あどけなささえ感じるのに、そのぎらつくように純粋な赤を宿した目だけが浮いているようで、私に恐怖を覚えさせた。


 思わず後ずさると、床に散らばったガラス片を踏んだ。


「――――っ!」


 不意の鋭い痛みに出かかった声を堪える。音の一つも少女の前では出してはいけないような気がしていた。


 少女がこちらに向かってゆっくりと歩き始める。


 彼女の手には槍。ガラスを突き破って飛び込んできたというこの状況。


 どうあっても逃げ出すことが正解のはずなのに、体が強張っている。床から足を離そうとしても、貼り付いたようになって動かすことができない。


 少女はもう目の前まで来ている。立ち止まり、槍を構え直した。刺し殺すにはもってこいの状況だ。


 少女の右手がゆっくりと引かれるのがわかる。眼だけがこちらを睨み続けていた。


「――――!」


 息を止めるようにして口を噤むと、なぜか体が動いた。


 ギリギリのところで少女の一刺しをかわす。勢いまかせに飛び出したせいで、転がるようにしながら部屋を駆けた。


 執拗に追いかけるつもりはないのか、彼女は私が立っていた地点で立ち止まっていた。


 機械じみた動きでこちらに向き直りまた歩き出す。その妙に鷹揚とした動きが不気味だった。


 出口は少女の奥。簡単には横を通らせてはくれないだろう。私は武器も持っていないから、立ち向かうことも難しい。


 思案する間に彼女は近づいている。もはや一か八かの賭けに出るしかないのかもしれない。


 目線が彼女と、彼女の背後のドアとを行き来する。赤い目と交錯するたびに、可能性が小さくなっていくような気がしていた。


 一歩、左足を下げた。


 彼女の肩越しに、ドアへとピントを合わせる。しかし――


 少女が視界から消えた。


 急いで目線を戻せば、こちらに向かって駆け出していた。


 目の前に迫る少女からどうにか逃れようと態勢が後ろに崩れる。


 合わせるように彼女は私の胸ぐらをつかんで押し倒した。馬乗りのような態勢になり、槍を振りかざす。


 反射的に腕で顔を防御したが、槍が振り下ろされることはなかった。少女は振りかざしたままで固まっている。こちらを見ているが、その目は虚ろだった。


 はっとして振りほどこうとしたが、途端に彼女は槍を振り下ろした。


 思わず、目を瞑ったが、ガンッという鈍い音以外はなにもなかった。


 目を開けると、槍が顔のすぐそばの床に突き刺さっているのがわかった。


 驚きのあまり、少女の顔を見たまま固まる。すると彼女は私の胸ぐらをつかんだまま立ち上がった。無理矢理立たされる形になりよろめきそうになったが、そんなことは気にせず私を引っ張る。少女によりかかりそうになり踏ん張ると、目の前で目線が交わった。


 改めて見ても幼い。十代前半くらいだろうか。大きな瞳が幼さに拍車をかけているのかもしれない。だというのに、彼女の目はやはり恐ろしく見える。底のない沼を覗き込んでいるような、そんな感覚だ。


 少女はさらに私をぐっと引き寄せた。頬に彼女の髪がふわりと触れる。驚くほど、なんの匂いもしない。


 彼女はさらに強く私の服を握る。そして――


 勢いよく反転すると、私は宙に浮かび上がった。無重力のような感覚が体を支配したと思えば、一気に落下する。


 その速度は落ちることなく上がり続けた。


 ガラス窓に空いた穴から落とされたと理解したのは、その穴が視界に入ってからだった。


 なぜか妙に落ち着いていて、そして、落ちるというにはあまりにも不自然なほど体が軽かった。


 それは一瞬のことに過ぎなかったというのに。

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