第9話 身代わり婚約者③
篤人、
約束の時間より早いが、未央のバイオリンと着替えを持って部屋を出ることにした。
八月の強い日差しの中、色とりどりの花が咲き乱れる庭園を歩いていたら、一匹の柴犬が足にまとわりついてきた。
「おまえ、
多聞が屈んで頭を撫でると、柴犬は嬉しそうに尻尾を振った。
目を細めて犬と戯れていたら、ピアノの音が聴こえてきた。
犬は耳を立てて音のする方に歩き出す。だが数歩歩いただけで、立ち止まり振り返った。
ついてこいとでも言うように、多聞を見てくる。
多聞は犬の後を追った。
ピアノの音は、白壁に青い屋根の小さな洋館から聴こえてきた。
犬は開け放たれたガラス窓から建物の中に入って行く。
多聞が躊躇して立ち止まっていると、犬が戻ってきて姿を見せた。
窓のところで尻尾を振りながら、多聞を待っている。
多聞は窓に近づいた。
中から吹いてくるエアコンの冷気が心地よい。
ピアノの主は、和服を着た老女だった。
ガラス窓に立つ多聞に気づくと、女はすぐに手を止めた。
どうもと、多聞は女に頭を下げる。
厳しい顔の老女は急に笑顔になり、立ち上がった。
「多聞君ね。篤人から話は聞いていますよ。お茶でもいかが?」
老女に招かれて、多聞は部屋の中に入った。
「私は静江。この子は
静江は、多聞をここまで案内した犬も紹介した。
「多聞君は、バイオリンを弾くの?」
静江はお茶を淹れながら、多聞が手にしているバイオリンを見た。
「いえ、これは友達のです」
答えながら多聞は、この人は今日、未央がパーティーに替え玉出席していることも知っているのだろうかと、気になった。スコーンや小さなケーキをご馳走になりながら、迂闊な事を言う前に早くここを退散しようと決める。
三段スタンドから満遍なく一種類ずつスイーツを食べ終えたら心残りはない。多聞は紅茶を一気に飲み干した。
「もう行きます。ごちそう様でした」
多聞が頭を下げると、「夕食も食べていってちょうだい」と、ティーカップを片手に静江は優しく微笑んだ。
「……いや、もう時間が……」と多聞が言いかけたとき、扉をノックする音がした。
「どなた?」と静江。
「
静江にどうぞと言われて入ってきたのは、黒いレースのワンピースを着た女だった。
百七十を超える長身。足がスラリと長く、目鼻立ちが整っている。その上——。
(胸デカっ! ウェスト細っ!)
「お話があります」
と女はチラリと多聞を見る。
女の胸に釘付けになっていた多聞はバツが悪くなり、視線を逸らした。
「こちらは多聞君です。多聞君、この人は私の弟の娘、聖麗よ」と静江は多聞に聖麗を紹介すると、立ち上がった。
「あちらで話しましょう」と部屋の隅の応接セットに聖麗を連れて行く。
「あの子、偽物ですね」
部屋の隅から聞こえた聖麗の言葉に、多聞はドキリとした。
(未央、バレたのか⁈)
多聞は一茶と遊ぶフリをしながら二人に近づき、会話に耳をそばだてる。
「あの子、どうして
「『桐と藤』ですよ」
「なんですのそれ」
「あなた、ご存じないの?」
「はっきりおっしゃって下さい」
「藤子さんにお聞きなさい」
「——本物の美也子さんのお嬢さんは、どこにいるんですか?」
「篤人に全て任せてあります」
「もし秋までに見つからないようでしたら、お約束通り、私が家督を継ぎます」
聖麗がきっぱりと宣言した時だった、大きな音を立てて再び扉が開いた。
「聖麗さん! 大変だ!」
アッシュグレイに髪を染めたチャラそうな長身の男が、慌てた様子で入ってきた。
後ろには神経質そうなメガネの男もいる。
メガネ男は、部屋に入るなり多聞を凝視した。
「美遙もどきのあの子が、いなくなった!」とチャラ男が言うと、「
(ジオンってなんだよ! 親はガンオタか?)
笑いを堪えていたら、スマホがなった。
鮎川からの『撤収』命令だった。
大人たちに気づかれないように、多聞はそっと窓に近づく。
名残惜しそうにする一茶の頭を撫でて、外に出た。
「
外に出た多聞は、背後でした聖麗の言葉に吹き出した。
(マ・クベまでいるのかよ!)
「何、ニヤニヤしてるの?」
待ち合わせ場所までダッシュして、多聞は鮎川たちと合流した。未央に着替えを渡す。
「胸のデカいセイラさんに、チャラそうなジオンとメガネのマ・クベに会った」
「真壁さんね。聖麗さんの秘書だよ。篤人の婚約者が現れないと、あの人たちにこの家を乗っ取られるんだ」
「(俺たちは連邦側か)ジオンとセイラさんはどういう関係なんだ?」
「慈音さんは、聖麗さんの妹、美遙さんの婚約者だよ。でもうまくいってないみたい。美遙さんは失恋のショックでメンタルやられたままなんだって——美遙さんをフった男、公務員だからよかったけど、一般企業だったら出世できなかっただろうね。聖麗さんから潰されてたと思うよ」
「そんなにつええのか、あの女」
「権力持ってる。それに妹思いなんだ」
「セイラさんに、兄さん、いないのか?」
「いない。二人姉妹だよ。この家、男は滅多に産まれないよ」
「(残念)そうか」
着替えを終えた未央が茂みから出てきた。
「未央はこれから部活?」と鮎川。
「うん。学校に行く」と未央はバイオリンを抱えた。
「タクシー使おう。多聞君は中から門を閉めてね」
「御意!」
二人を外に出した多聞は、木戸門を閉めた。
さて篤人の様子でも見に行くかと、多聞はブラブラ歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます