第12話 赤橙

 ほとんどといっていいほど、その日は眠れなかった。

 施設の外の人と会うのが久しぶりだから、無理もないけど。

 窓の外で呑気に眠る犬のジョンを羨ましく思った。

 やがて外で山鳩が朝を唄い、だんだんと出発の時間が迫る。

 いつも通り朝食の準備を終え、食事をとる。

 職員の片上さんが、少し僕を急かす。

 僕と片上さんとで、荷物をチェックする。薬と、水入れと、保険証、ハンカチ、ポケットティッシュ、少しばかりの持参金、それにデバイス。

 軽トラ乗りのおじさんが2回クラクションを鳴らし、玄関の自動ドアが開く。

 港までは車で10分もかからない。港で施設の船に乗り込み、窓側の席に座る。

 やがてタラップが上がり、鷹松港までの約50分の船旅が始まる。

 小型の高速船なので酷い時はそれこそ遊園地のアトラクションみたいに揺れるが、今日は逆に、少し怖いぐらいに海が穏やかだった。

 今は、朝の7時12分。かなり眠い。少しウトウトしていると、もう目的地が見えてきた。

 鷹松港に隣接する、24階の高さを誇るポートタワービルが目に入る。

 ポートタワービルだけじゃない。鷹松港は大小さまざまな建物が建っていて、海から見ると大都会に見える。

 まあ実際、鷹松市は鹿川県の県庁所在地なので、わりと都会ではあるのだけど。

 やがて船は波止場へと近づく。着岸するまでの瞬間は、やはりちょっと手持ちふさただ。僕がなじんだあの世界の舟を思い出して、よりじれったく思う。

 船が岸につき、タラップが下りる。施設の船なので、鷹松から出勤してくる職員が待っている。僕は軽く職員に挨拶し、すぐ近くで待っている、叔父さんに声をかける。

 「おはよう、浩一叔父さん。お久しぶり」

 「お早う、祐介。久しぶりやね。よし、じゃあ車に行くか」

 

 叔父さんは職員に会釈し、僕は叔父さんの中古のワーゲンに乗り込んだ。


 「施設の生活はどうだ、祐介。トラブルとかはないか?」

 「うん、あいかわらずだよ。ゲームばっかりしてる」

 「そうか…」


 車は並木道沿いを直進していく。やがて銀行の前を右折し、叔父さん御用達のおしゃれな純喫茶が顔を出した。

 近くのパーキングに車を停め、ツタに覆われた喫茶店のドアを開く。カランカランという鐘の音が心地よく店内に響く。

 叔父さんはモーニング、僕はオレンジジュースをそれぞれ頼んだ。

 「まあでも、お前が変わりなさそうで安心したよ。だいぶ前に大怪我した時は俺も姉貴もだいぶ心配したからな、変わりがないのが一番だ」

 「そうだね…」


 変わりがないのが一番だ。そう言う叔父さんに、僕は今から、今まで全くしたことのないお願いをしなければならないのか。…少し胃がキリキリしてきた。

 「浩一叔父さん…。折行ってお願いがあるんだけど」

 「おう、なんだ?」

 「病院行って時間があったら、…僕を鹿川大学まで連れていってくれない?」

 「川大に…?いいけど、何で?」

 もっともな疑問だ。

 

 祝賀会の後、僕はナスターシャとコンタクトをとって、13日の今日、この日に会うことになった。今日は平日で、ナスターシャは学校の講義に出なければいけないらしく、講義のない空きコマの時間に会うことになった。

 

 「会いたい人がいるんだ」

 僕のその一言に、叔父さんはピクンと耳を震わせた。

 「女の子かい?」

 「うん、そうだよ」


 「……マジで!?」

 叔父さんの大声が閑静な店内にこだました。

 他のお客さんにチラチラ見られて、少し恥ずかしい。

 だけど、そんな周囲の視線を物ともせず、叔父さんは語り続ける。

 「あのなあ裕介、女の子との約束があるんだったらな、他の奴の意見なんかチンタラ聞いてちゃいけないんだ。何よりもまず優先しなきゃダメだろうそれは!っていうか、もうすぐに向かうか!病院なんか行ってる場合じゃねえ!」

 

 「いや、病院は行っとこうよ…。その人と会うまでまだしばらく時間あるからさ…」

 …いちおう、定期の病院受診という名目で、鷹松の街まで出てきてるので、病院は行かなきゃいけないと思う。

 「わかった、じゃあちゃちゃっと病院行ってパパッと向かうぞ!」

 

 叔父さんはモーニングのトーストとゆで卵とサラダをとんでもないスピードで平らげた。

 

 「ありがとうございました、アンタはもうちょい落ち着け」

 この店のマスターは叔父さんの知り合いのようで、会計の時に叔父さんに苦言を呈していた。

 

 「…あのなあ、甥っ子にようやく春が来たんだぞ?落ち着いていられるかっての」

 …別にそういうのじゃないってことが、言いづらい。

 「へいへい、またお越しください〜」


 僕らは再びワーゲンに乗り込み、病院へと向かった。車内で叔父さんが好きな陽気なロックの曲をガンガンに流しながら口ずさんでいて、ますます言いづらい。

 …まあ、病院行った後で、言おうか。叔父さんも病院行った後は落ち着くだろうし。

 そう予想した通り、病院での叔父さんはすこぶる静かだった。

 病院では、最近の僕の体調などについて聞かれた。特に変わったことはないので、薬とかは増えなかったみたいだ。

 

 受診は、20分もかからずに終わった。待つ時は2時間ぐらい待つこともあるので、かなり早く終わってラッキーだった。

 

 「よっしゃあ!じゃ張り切って川大行きますか!こっからなら15分もかからねえぜ!」

 「うん、そうだね…」

 「何でそんなテンション低くなってんだよ!気合い入れていこうぜ!!ヒィャッハー!!!」


 相変わらず車内ではご機嫌なロックが流れ、叔父さんも元気に鼻歌を歌っている。

 「あのさ…、浩一叔父さん、」

 「うん?」

 「…その、僕が会いたい人っていうのはね、…その、別に僕が好きな人とかっていうのじゃないんだ…」

 「何ィ!?」

 叔父さんの声が車内に響き渡った。

 「どういうことだ!?イチから説明してくれ!」


 僕は、これまでのいきさつを叔父さんに説明した。

 「なるほどね、つまりそうか…、その娘はお前のことが好きなんだな」

 全然わかってない…。

 僕がそう言いたげにしているのを感じ取ったのか、叔父さんは僕の顔に手の平を全力で近づけた。

 「おっと、お前の言いたいことはわかるぜ、『それって恋愛脳の叔父さんの感想ですよね?なんかそういうデータとかあるんすか?』って言いたいんだろうけど、…女の子が男と二人っきりで会いたいっていうのはなぁ、アプローチ以外にねぇだろうがよぉ!!!!」

 「そこまで悪く思ってないけど…」


 …でも、考えてみたら本当にそうかもしれない。

 「だろう!お前もちっとはそう思うよな!」

 叔父さんは、エスパーなのだろうか。それとも、僕がわかりやすく顔に出ているだけなのだろうか。

 「まあお前はわかりやすく顔に出るからな、でもそういうのも俺はいいと思うぜ!」

 …僕の顔なんか見てないで、運転に集中してほしいものだ。


 叔父さんの宣言通り、鹿川大学には15分で着いた。

 だけど、車を停めていい場所がどこかわからずにしばらくまごまごしていた。

 「しょーがねーだろ、今まで川大なんか縁もゆかりもない生活してきたんだからよー」

 叔父さんは、悪態をついた。

 

 『今来たよ、もう来てる?』

 僕はEDENで、ナスターシャに連絡をとる。

 一分もかからず、ナスターシャは返信してきた。

 『私ももういるよ〜。図書館の場所わかる?』

 『たぶん大丈夫。じゃあ今から行くね』


 僕はシートベルトを外し、駐車場のアスファルトに足をつけた。

 「ここから先は、ひとりで行くよ」

 「一人で大丈夫かあー?一緒に行ってやろうか?」

 少しからかい気味に、叔父さんが言う。

 「別に大丈夫だよ、ありがとう」

 僕は断る気持ちで言ったのだけど、叔父さんは「一緒に来ても大丈夫」という風に解釈したらしく、「じょーだんだって!俺はここで待ってっから、道がわからんとかじゃないんだったら一人で行ってきな?な?」と少し焦りながら言った。

 その様子がなんだかおかしくて、僕は少しプフッと吹き出した。

 「何だよ〜?年上を笑うもんじゃあありませんよ!」

 「…ごめん。行ってくるね」

 

 少し笑いをこらえながら、足早に目的地に向かった。

 「男、見せてこいよー!」

 …だから、そういうんじゃないんだけどな…。


 集合場所の大学図書館は、けっこう簡単に見つかった。

 この図書館はかなり昔に建てられた赤レンガの建物で、学校外の人が写真をとりに来たりする場所らしい。

 なので、僕みたいなよそ者がいてもあまり目立たない。

 なかなかいい場所だ。


 少し重い鉄扉を開ける。

 入ってすぐの場所がエントランス兼休憩所みたいになっていて、かなり広々としたその場所の端の方に、ナスターシャと思われる人物がちょこんと座って難しそうな本を読んでいた。

 「…ユースケ?」

 ナスターシャは僕の顔をジロジロと眺めた。「全然アバターと変わんないね」


 「…君は結構違うね」

 「いいでしょ別に。それだって楽しみ方のひとつなんだし」

 ナスターシャは髪をたくし上げて軽く整えた。

 「…まあとりあえず、…遊ぼ!」

 「え?」

 話を聞くのが主な目的だったので、いきなり遊ぼうと言われて僕はびっくりした。

 「…ダメ?」

 「ダメじゃないけど…。…そんなに時間は、とれないよ。夕方までには帰らなきゃいけないから」

 「そっか…、じゃあ、近場で遊ぼっか!」

 遊ぶのは確定なんだ。

 「いいよ…、行こっか」

 

 それから、僕らは大学から歩いて少しの距離のゲームセンターで遊んだ。バスケのゲームをやったり、UFOキャッチャーをしたり。中でも思いの外白熱したのが、エアホッケーだ。「エアホッケーだけで飯が食える」と豪語するだけあって、ナスターシャはとんでもなくエアホッケーが強く、僕の戦績は1勝10敗と散々だった。

 「どうよ!私強いっしょ!」

 「…今度やる時はもうちょい強くなっておくよ…」

 「フフンっ、いいねぇ!また遊ぼう!」

 「そうだね」

 僕らは図書館の外のベンチに座って、コンビニで買ったコーヒーを啜った。

 

 「…そういえばさ、セレーナについて教えてくれるって言ってたけどさ、」

 「…うん?」

 今までハイテンションだったナスターシャが、不思議なことに一瞬で静かになった。

 「やっぱり、直接本人に聞くことにしたよ。セレーナも、いないところで自分の話されるのは嫌だろうから」

 ナスターシャは驚くほど無表情になり、少し僕にそっぽを向けて「まあ、いいんじゃない」とつまらなそうに言った。

 「あ、もうこんな時間か。ちょっと講義に出てくるね。ユースケ、今日はありがとう、バイバイ」

 そう言ってそそくさとナスターシャは去っていった。

 あまりにも突然お開きになったので、僕はただただその場で固まってしまった。

 …どうしようか。追いかけて、別れの挨拶ぐらいはしておこうか。

 そう思ったものの、講義があると言っていたので邪魔したら悪いと思い、そのまま叔父さんの車に帰った。

 「…どうなった⁉︎」

 僕の姿を見つけるや否や、叔父さんは窓から身を乗り出して聞いてきた。

 「まあ、いろいろあったよ。……話、聞いてもらえる?」

 僕は、今までの一部始終を叔父さんに話した。


 「…僕はどうすればいいかな?浩一叔父さん」

 叔父さんは頭を抱えた。


 「…ったくよ〜、お前は乙女心ってものをもっと理解しなさいな。なんでナスターシャちゃんがそういうふうになったかっていうとな、…他の女の名前出されたのが嫌だった。それに尽きるね、間違いない、うん」

 …なんとも信じ難い。だって、それは、ナスターシャが僕のことが好きだという前提での話になってくるように思えたから。僕は、自分の事を好きになってくれる女がこの世にいるとは到底思えない。よって、その理屈は間違ってる。そう叔父さんに伝えようとしたが、

 

 「祐介、マジで今が正念場だぞ。ナスターシャちゃんか、それともセレーナちゃんか、ちゃんとどちらかを選ぶんだ。そうじゃないとどっちにも失礼だぞ」

 「…なんでセレーナの名前が出てくるの?それに選ぶってどういうことさ」


 叔父さんは胸ポケットのサングラスを取り出し、ニヤリと笑った。

 「ま、いずれわかるさ」

 

 僕と叔父さんは港の近くのうどん屋で、少し遅めの昼ご飯を食べ、そのまま帰路についた。

 途中、ナスターシャに連絡を入れた。

 『また後で、時間のある時連絡ください』


 返事は、来ない。

 

 「じゃあな、祐介。元気でいろよ」

 昼過ぎの港は強い風が吹いていたが、浩一叔父さんは、そんな時でもよく通るいい声をしている。

 「うん!わかったー!」

 僕は風に負けじと大声で叔父さんに向かって叫んだ。

 叔父さんは相変わらずの笑顔で、拳を頭上に高らかに掲げた。

 

 僕も右の拳を上げ、叔父さんの拳とハイタッチした。

 

 「頑張れよ」

 

 叔父さんは、微かな声で耳打ちした。




 船は、さまざまな思いを陸地に残し、また一方でさまざまな思いを乗せて島へと向かう。

 だけど、橙色に染まりつつある空を眺めていると、そんなことも、少しどうでもいいと思えるようになってくる。

 もう少ししたら、あの牢獄のような島に強制的に僕の体は運ばれるというのに、僕の心は不思議と穏やかな気持ちになった。

 ぼうっとして、地平線のその先を見つめている、ちょうどそんな時だった。

 『さっきはごめんね。ユースケはもう帰ったの?』

 ナスターシャから、返信があった。

 

 『ううん、こっちこそ、なんかごめん。今船の中』

 『そうなんだ!船酔いしない?大丈夫?』

 『慣れてるし大丈夫。ナスターシャは今どうしてる?』

 『私はね、さっき講義終わったから、次の講義まで少しのんびりしてるー!』

 ナスターシャとの、他愛もないやりとり。だけど、それはとても、僕の心を安らげるものだった。


 『……おーい、おーい、大丈夫かー?』

 

 ……遠くの、見覚えのある、港の建物が、視界に入ってくる。

 …寝てたみたいだ。

 『大丈夫ー?元気かー?』

 ナスターシャの元気なチャットが、目に飛び込んでくる。

 『ごめん、ちょっと寝落ちしてた』

 『…もー!心配するじゃんか!』

 ムスッとした漫画のキャラクターの絵が送られてきた。ちょっと前に僕をベンチで置き去りにした人とは別人みたいだ。

 『ごめんごめん、昨日あんま寝れてなくて』

 『えーなにそれ!早く言ってよ!』

 

 「ほれ、もうすぐ着くぞ、準備せい」

 軽トラ乗りのおじさんが、僕の肩を小突く。

 『…ごめん、船から降りるから、また時間できたら連絡する』

 『…おっけー!じゃまた連絡ちょーだい!』

 

 港に降り立つと、世界はもうすっかり赤色と橙色に支配されていて、美しいと思う反面、それはどこか底知れぬ恐ろしさを、僕の心に思い起こさせた。

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