第6話 AM2:00

 「んーーあ!!んああああ」

 外から、声にならない誰かの叫び声が聞こえる。

 堅い引き戸がドタドタと音を立てて開く。

 三つ隣の部屋の利用者である、島さんが居室に追いやられ、職員の倉田さんが鍵をかけていた。

 島さんは、「出せ」と言わんばかりにガンガンとドアを叩き続けている。

 倉田さんは気怠げにため息をつき、やがて僕が突っ立っているのに気がついた。

 「起きてたのか」

 「…いいんですか?鍵かけて」

 倉田さんは、くだらない事を聞くなという表情をして、チッと舌打ちした。

 「…いいわけねーだろうが」

 倉田さんは、こっちへ来いと言わんばかりに顎で職員室を指した。


 電波時計が、今が夜の2時過ぎであることを示している。

 夜勤帯の、僕ら以外に誰もいない職員室は、コーヒーとタバコの匂いが混ざり合い、さながらひなびた喫茶店のようであった。

 島さんは、まだドアを叩き続けている。

 倉田さんは、新しいタバコに火をつけた。

 「鍵かけをしたことは他の職員には言うな」

 倉田さんは、冷蔵庫から僕にプリンとお茶を差し出し、念押しした。

 「…島さん、何かしたんですか」

 倉田さんは、紫煙を勢いよく吐き出し、灰皿にこねくり回した。

 「奴さん、トイレットペーパーまた全部使い切りやがった。もう一個のトイレの方も使われちゃかなわんのでな、とりあえず部屋にぶち込んで鍵かけた」

 「…それだけで?…やっていいことと悪いことがあるでしょ?…誰もいないからって」

 僕は、深夜で思考が鈍っていたこともあり、思っていた事をそのまま言葉にしてしまった。

 

 僕は、倉田さんに怒鳴られるのではないかと思って身構えた。

 倉田さんは怒鳴りはしなかったが、苦虫を潰したような顔で返答した。

 「…島さんは鍵かけてしばらくしたら諦めて寝入るんだよ。だからやってんだ」

 確かに、島さんがドアを叩く音はだんだん小さくなり、しまいには音が完全に鳴り止んだ。

 「ほれみろ。…まあ、だからといって鍵かけていい理由にはならんがな。俺がやってることは客観的に見たらまず間違いなくコンプラ違反だ。…だが、ここには残念ながらそれを咎める人間はいない」

 倉田さんは、二本目のタバコに手をかけた。

 「…僕は、倉田さんは本当は優しい人だと思っています。でも、最近のあなたは、あなたらしくない。…何か、あったんですか?」

 倉田さんは「ケッ」と痰を床に吐き捨てた。汚い。

 「…まあ俺もな、ここに来た当初は優しくしようと努めていたよ。…だけどな、ここの職員どもを見てみろよ、碌でもない奴らばっかじゃねぇか。どいつもこいつも、ここの入居者を心底見下して、同じ人間だと思ってやしないだろうが。絶対に奴らは口には出さないがな。…こんな環境で、マトモでいられると思うか?…俺は無理だ。無理だった。所詮俺もムジナに過ぎねえ。ただの金で雇われた奴隷なんだよ。……もう話は終わりだ、明日も朝手伝ってもらわにゃならんからな、さっさと寝ろ」

 倉田さんは手で僕を追い払うような仕草をした。

 僕は彼の望む通りにし、彼は職員室を施錠した。

 ベッドに横になり、僕は彼の言葉を反芻した。

 …やはり、違和感が拭えない。


 僕はこの施設の中で倉田さんと一番仲が良かった。彼はここに入職してきた当初、物腰も柔らかで、あんな言葉遣いをする人ではなかった。それがここ数ヶ月であんな風に厳しく、強い態度で、僕含めたここの利用者に接するようになっていった。

 …埒が明かない。

 夜が明けたら、もう一度僕は彼に聞いてみることに決め、布団を被った。


           ★


 「おい、おそよう、起きてこっち手伝ってくれや」

 身体を揺り動かされた衝撃と、倉田さんの大きなガラガラ声で目が覚めた。

 「…………おはようござい、ます…」

 「おう、起きてパン切ってくれ」

 

 僕以外にも何人かの利用者が、朝食の用意を手伝うことになっているので、食堂ではもうある程度朝食の準備がなされていた。

 朝の5時半だというのに、皆活気に溢れている。

 僕は、高齢の利用者の人が喉を詰めたりしないように、朝食のパンを切ったり、日曜日だと食パンが出るので、それにジャムを塗ったりしたりしている。

 …まあ、僕の朝の仕事なんてその程度なんで、もう少し寝かせてくれてもいいと思うのだけど、最近の倉田さんはそれすら自分でやるのを嫌がって僕にさせようとする。

 …やはり、気になる。

 怒鳴られはしないだろうし、ダメもとで僕は昨日の続きを、僕の横で朝のスープを作っている倉田さんに聞いてみることにした。


 「…倉田さん」

 「ん?」

 「倉田さん、やっぱりあなたはそんな人じゃないと思います。…というか、無理に『悪い人』になろうとしているように見える」


 倉田さんは、目を丸くした。

 「…どうしてそう思うんだ」

 「倉田さんが本当にキツい人なら、プリンとかお茶とか出さずすぐ職員室から追い出してると思います。…というか、ここの裏事情とかをペラペラ喋ったりしないですよ、そういう人は。僕を、あなたと対等に見てくれてるから。だから、そうしてくれてるんじゃないのかって思いますね」

 倉田さんは、遠い目をし、だが直ぐにスープ作りを再開し、同時に僕に耳打ちした。

 「洗濯物を取りに行く時、ついでに俺の寮に来い。…真実を教える」


 天気がいい時はいつも、僕は昼過ぎに洗濯物を、歩いて2分ほどの洗濯場に取りに行くことになっている。倉田さんが住んでいる寮はそこから目と鼻の先にある。

 僕が倉田さんの暮らす203号室を訪れると、倉田さんは夜勤明けということもあって畳の上で直に横になり熟睡していた。

 「倉田さん」と肩をポンポンと叩くと、倉田さんはバッと跳ね起きた。

 「…悪ぃ、寝てた」

 倉田さんは目を擦りながら、引き出しから紙を引っ張り出し僕の目の前に置いた。

 「…これは?」

 「…まあ、単刀直入に言うが、…俺はここ数ヶ月の間、この施設に胡散臭さを感じててだな、…見てくれ」

 その書類は、行政からの通達で、助成金を確かに振り込んだという旨が記してあった。

 「これ、シュレッダーに入れられてたんだが、詰まって裁断しきれてなかったみたいでな、…ここの金額のとこ見てみろ、やべえだろ」

 「…2200万?」

 「そうだ、このクソ田舎の離島の施設にそんだけの助成金だぜ?…裏に何かあるんじゃないかって思うのが自然じゃないか?」

 …確かに、この金額は大きい。…だけど、

 「だけど、施設の運営にはこれぐらい必要なんじゃないですか?」

 「…2200万だぜ?尋常じゃないだろう。…だからな、俺はここの施設に順応して、調べることにした。…本当はもう、辞めようと思ったんだがな、こんな職場。…だけど、辞める直前にこいつを見つけちまってな、…天啓だと思った。『この施設を掃除しろ』っていう神の啓示だとな」

 「…だからって、ここの人に厳しい対応していいと思ってるんですか?それとこれとは違うでしょ。…それに、突然態度変えたりしたらどう考えても怪しまれるでしょ、詰めが甘いんじゃないですか?」


 僕はここまで言って、しまった、言い過ぎたと思った。


 だけど、倉田さんはハッと軽く笑い、僕の髪を雑にわしゃわしゃと撫でた。

 「言ってくれんじゃねえか。まあ、それもそうだな。今後はちったあマイルドに動くかね」

 倉田さんは、ベランダに出てタバコに火をつけた。

 「まあ、ぼちぼち帰れよ。今日は畑さんがいないとはいっても、ここに来てるっていうのがわかったら後々面倒だ。…あと、今日の事は他言してくれるなよ」

 「分かりました。…ところで」

 僕は、言おうかどうか少し逡巡しつつも、奥底に湧いていた疑問を拾い上げた。

 「なんで、僕にそれを教えてくれたんですか?」

 

 「…別に。ただ面倒くさかっただけだ。仕事してる間ずっとまとわりつかれたらかなわんのでな」

 倉田さんは振り返らずに、タバコを灰皿に押し付けた。


 裏に何かあるんじゃないかって思うのが自然じゃないか。

 …別に、ただ面倒くさかっただけだ。

 部屋のベッドに顔を埋めて、僕は再び倉田さんの言葉を思い返した。

 …そんなことが、あるのだろうか。

 流石に荒唐無稽じゃないかと思う。

 …だけど、あり得ないことではない。

 「ここは金払いだけはいいが、マトモな職員はここじゃ息ができない」やめていく職員は皆こんなことを言う。

 …だけど、そんなことを調べようとしたって、ここの職員に怒鳴られるのが目に見えてる。

 たとえやましいことがなかったとしても、そういう疑いのようなものをかけられるだけで怒り散らすような沸点の低い職員の集まりだ、ここは。

 …僕は考えることを止めた。どうせ、ここがどんな有様だったとしても、良くも悪くも僕の生活に大した変わりはないのだし。

 そう開き直り、僕は眠気に身を預け寝てしまうことにした。

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