第5話 ムサシと海のボス
【ムサシと海のボス】
川のせせらぎが妙に大きく聞こえて、眠りの淵から浮上する。
物の輪郭がかろうじてわかる夜明け前。
読み方のわからぬ壁掛け時計が規則的な音を響かせている。
見慣れぬ周囲の様子に一瞬緊張し、ああ、カフェのソファーで寝ていたのだったと、寝ぼけた頭をゆっくりと振った。
テーブルには行儀良くハンカチに包まって眠る相棒。
後ろのソファーから聞こえる歯軋りはダダのものかコゲのものか。
カウンターの方では、椅子をありったけ横に並べて、長身の角丸耳の男がミイラのようなポーズで狭そうに眠っている。
昨夜コゲを挟んで短く交わした自己紹介で、角丸耳の男はムサシと名乗った。
毎日ここといくつかの飲食店等に食料を届けており、マスターにオムカエが来たことをずいぶん寂しがっていた。
ダダとコゲのようにずっと異種族といるわけではないが、こちらで目覚めて最初の散歩から三角耳とは話せていたらしい。
ムサシはずいぶん人懐こい男で、握手した手をぶんぶんと振りながら「君の言葉も覚えたい」と言うものだから、今後の方針を決めてから眠くなるまで、その辺の物を指差しては互いの言葉で言い合い復唱しを繰り返していた。
おかげで自分もいくつかの角丸耳の言葉を覚えられたのだが、角丸耳の言葉の響きは自分の言語とかなり遠く、発音するのに難儀した。
「起きてたのかい?」
背後からダダの抑えた声がかけられる。
「おはよう、今起きたところだ。川の音に慣れなくて」
「確かに。私もこの音には馴染みがない」
静かに苦笑いを交わし、どちらともなく窓の外に視線を向ける。
もうそろそろ朝の早い一部の角丸耳たちが散歩し始める頃合いだろう。
「店内に変わったところもなさそうだし、川の音もしているし、今のところ大きな変化はなさそうだな」
「うん、記憶している限り見える範囲に変化はないようだ。いつも外を歩く時は注意深く街を見てはいるが、変化の瞬間を目撃できたことは一度もなくてね。今度こそ一箇所ぐらい変化の瞬間を目の当たりにしてみたいなぁ」
今まであまり出歩かない生活をしていて、街の変化も不便な仕組みだとしか感じていなかったが、こうしてダダと話しているとその変化の瞬間を自分も見てみたくなるので不思議だ。
好奇心というものは伝染するのだろうか。
……そんなことを考えていた時にガタタッと大きな音がしたので、とうとう変化し始めたのかと思ったが。
「――――!」
音のした場所からむくりと起き上がったのは、椅子から転がり落ちたムサシだった。
そこそこ痛そうな音がしていたが、全く気にした様子もなく大声であいさつしているようだ。
「――――?」
聞いた通りに復唱すれば、満面の笑顔で何度も頷く。
「おはよう」
今度は自分の言葉で挨拶をし、目線で促すと即座に元気の良い復唱が返ってくる。
「おはよう!!」
角丸耳は明るく溌剌とした者が多いが、中でもムサシはとびきりだなぁと、同じことを思っていそうなダダと目を合わせ少しだけ笑った。
大声の挨拶にコゲと相棒も目を覚まし、薄明るくなり始めた店内がゆっくり朝の気配に塗り変わる。
川向こうにもちらほらと散歩する人影が過ぎっていく。
ムサシが昨日カウンター裏に置いていたダンボール箱を持ち出して開くと、中には様々な種類の食料が詰められていた。
「朝ごはん好きなの選んでってさー。僕この缶詰め貰うね、たぶんいつもここで出してもらってたやつ」
コゲが選んだ缶詰めには、魚の絵と三角耳と同じ耳をした小さな獣の絵が描かれている。
ムサシは大袋に入った角丸耳用の主食を、自分とダダは干し草とリンゴをシェアし、相棒には綿袋から綿を少し取り出して渡した。
食事をしながらコゲとムサシが何やら話し込んでおり、会話がひと段落したところでコゲがこちらに視線を向けた。
「ウータンの家はここから一番遠いよな。昨日は昼間のうちに1組ずつ用事済ませたり家の様子を見に戻ろうって話になってたけど、僕とダダが残ってる間にウータンはムサシと一緒に用事と家の見回り行ってきた方がいいかも」
「え、なんで?」
「ムサシの相棒見ればわかるよ」
そう言ってコゲは食事を中断し、店の勝手口に向かいながら手招いた。
咀嚼しきれていない干し草を袋に戻すわけにもいかず、ポツポツと齧りながらコゲの手招きに従う。
「あ、車だ!」
「車で間違ってないけど、軽トラな。それにしても珍しい色」
車の種類にうとい自分に、コゲが補足を付ける。
街で車を見かけることなど今までほとんどなかったので、コゲの知識はここに来る前の記憶から引き出されたものだろう。
軽トラと呼ばれたその車は、爽やかなミント色だった。
前方のライトが茶目っ気たっぷりにウインクする。
ムサシと行けということは、この素敵な相棒に乗せてもらえるということだろうか。
爽やかなミント色の軽トラが、明るい朝の車道を風のように走るのを想像する。
思いがけない役得に、口元がにんまりと笑んでしまうのを止められなかった。
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