第3話

「―――、―――――――――――」

マスターが何か言いながら、カウンター脇から古びたノートを取り出し目の前に広げた。

ピカピカの黒い靴、柄の長い箒と塵取り、水の入った特徴的なグラスと、無造作に置かれた薬。

「これ、マスターが描いたんだって。思い出したものかな?」

綿のくたびれたクッション、埃の積もったギター、丸まった靴下。

ページを繰るごとに精密さが増していた。そういえばあのメニュー表のイラストとこの絵の雰囲気はとてもよく似ている。

「ノートに描く……使い方も道具も覚えてるのに思いつきもしなかった」

「――――――?……ほい、ペン借りた。僕らも覚えてるの描いてみよ」

やはりというかまたというか、コゲの言動はなんだか性急で強引な気がする。

少し心配になってマスターの方を見ると、マスターは苦笑いしながらどうぞと掌のジェスチャーで言った。


「……なにこれ?」

「そっちこそ」

「うわちっさ」

それぞれ試しに描いてみるも、描くというのはこうも難しいのかと呆然とする。

互いに見比べてみても、描かれたものが何であるのか全くわからない。

気付けばマスターが口元を押さえて笑っていた。

彼からしたらまるで幼い子の落書きに見え、微笑ましさすら感じるのだろう。

「これは練習が必要なやつだな……」

揃いも揃ってしょぼくれた三つの頭を前に、とうとうマスターが声を出して笑った。


その笑い声がまだ響いている最中、カランと音がして背後にある店の扉が開く。

穏やかな店内の温みをかき消すような、じっとりと冷たい冬の雨夜の匂いが、足元を伝って鼻先に突き付けられた気がした。

「懐かしいな……」

低くカサついた声に、店中の客の視線が闖入者の方に向けられる。


聞き取れたのだ。

ここにいる全ての種の者に、その言葉が。


闖入者は街灯の無い路地の闇を煮詰めたような真っ黒なコートを着ていた。

見えている皮膚には、良くない年輪を重ねたような深い皺。

それでも店内をゆっくりと見回す目元は優しく笑んでいて、そのアンバランスさに、皆混乱のまま声を出すことも出来ず固唾を飲むしかできなかった。


「ここにいたんだなコピ。長く待たせた。さぁ、行こう」


そう言って手を伸ばした男の目には、一人しか映っていなかった。

自分たちの頭上を越え、カウンターを越え、その視線の先にはマスターただ一人。


「ああ」だか「にゃぁ」だか、そんなか細い声がして、カウンターからマスターの気配が消えた。

黒い小さなつむじ風が軽やかにカウンターを乗り越え、しなやかな獣のような動きで男の手から肩まで駆け上がり、ふわりとほどけるように全てが透過する。

目の前にいたはずの男も幻のように消え、開け放たれた店の扉からは、温い初夏の風が吹き込んでいた。

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