3 夕暮れと前進

『駅前西口コンビニの前、来るってよ。……あと、行く前に唐辛子持ってきてくんね?うめえんだけど、もうちょい辛い方が良いからさ』


 一人で独占した宴会場で、レンゲを手に姉御はそう言っていた。


 ついでのようにパシらされはしたが別に今更腹が立つ訳もなく、僕は七味唐辛子を手に一度階段を往復し、その後母さんに一言断ってエプロンを脱ぎ……そのまま、我が家を後にした。


 向かうのは当然、駅前西口のコンビニである。もしかしたらちょっと治安が不安なのかも、と少し思ってしまったが、刑部さんに聞いてみた所、夜が更けない限りそうでもないらしい。


『逆に、待たせすぎっと面倒なのに絡まれるかもな?』


 ニヤッと、姉御は抜け目なくそんな事も言っていた。冗談ではあるんだろうけれど、……なんというか本当に、どこまでも男を転がし慣れている姉御である。


 とにかく、僕は夕暮れの最中早足に駅へと歩んでいった。


 なんと切り出そうか。何を言おうか。色々と言いたい事が頭の中にたまって行き、けれどまとまるにまとまり切らず、まとまらない言葉をどうにか形にしようと、また考え込む。


 どうしても、考えてしまう。うまく言えなかったら?また失敗したらどうしようかと。


 いつもならそうして迷って、失敗するのを嫌がって、結局何も意思表示しないまま周囲に流されていただろう。けれど今は、免罪符がある。


(……失敗しても、良い。そもそももう失敗してるんだから)


 半分投げやりな考え方な気がしないでもない。でも、僕にはちょうど良い考え方な気がした。


 失敗しようと思う。……失敗しても良いから、挑戦しようと。

 それでうまく行かなくても、今より前向きにはなれる気がする。


 自分でも意外な程足取り軽く僕は進んでいき……けれど、だ。


 目的の場所に辿り着く前に、僕の足取りは遅くなり、やがてその場に止まってしまう。


 気弱の虫が出てそれ以上前に進めなくなってしまった、とかではない。ただ、夕暮れの最中で、そのまま歩み去れないだけの何かを見ただけである。


 誰かが、走っている。軽いジョギングなのだろうか。大分前、それこそ中学生の頃とかに見た覚えのあるジャージを着ていて、長い黒髪を頭の後ろで纏めている、誰か。


 そんな誰かは、僕に視線をやりながらも、何も言わず僕の横を素通りして行き……だが、振り返った先で、彼女は数歩進んだ末に、足を止めていた。


 夕暮れの最中、彼女はゆっくりと振り返る。


 やはり、なんだか見覚えのある風景のような気がする。イヤ、彼女が振り向いてくれたことは一度もなかったのだけれど、髪を纏めて走っている彼女を、僕は中学生の頃、部室から眺めて応援していた。


 走るのを辞めてしまったはずだけれど、心境の変化があったのか。あるいは気晴らしに、……好きな事をしたくなってくれたのだろうか。


 そんな僕の憧れの人……だった人。

 朝間さんは、気まずそうに視線を泳がせた末に、遠くに見える駅を眺めて、こう言った。


「久住くん。……もしかして、夜遊び?なら、あの……やめときなよ。後悔するよ?」

「え?いや、そういう訳じゃなくて……」


 言葉を濁し、視線を泳がせ……気まずい空気のまま僕は俯き掛ける。

 けれど、だ。僕はすぐさま視線を上げた。


(もう、転んでる……)


 だからこれ以上転ばない。そんな後ろ向きな前向きさに背を押され、僕はこう言い切った。


「これから、金子さんに告白しに行くんだ。フラれるかもしれないけど、その……」


 と、結局言葉が濁ってしまった僕を、朝間さんは少し驚いたように眺め、やがて呟く。


「ふ~ん……。乗り換え早いね」

「ク……、」


 なんも言い返せないし凄まじく胃が痛い。

 呻く他になかった僕を前に、朝間さんはふと呆れたような笑みを零し、言った。


「冗談。……フったの私だし。ほら、好きなの私じゃなかったでしょ?」


 そういう訳じゃない。朝間さんの事も好きだった。でも、それよりも……。

 そんなご機嫌取りのような言い訳をしてしまいそうになる。つい癖のように。


 けれど、……今は、言い訳をしてはいけないのだろうとも、僕は思った。


「うん。……違う人だったよ」


 そう頷いた僕に、朝間さんも頷いて、それからどこか寂しそうな笑みのまま、僕に背を向けまた走り始める。


 ……かのようなそぶりを見せたが結局走りださず、朝間さんは再び振り返ると、どこか疑うような視線を僕に向けると、こんなことを言ってきた。


「え?なんか凄いさわやかに行こうとしてるじゃん。本当に久住くん?中身変わった?」

「いや、ええっと……」


 かなり頑張ってるんですけど僕今……と曖昧な笑みを浮かべた僕を前に、朝間さんは何やら肩を落とすと、こう言った。


「なんか今私急にうらやましくなって来たんだけど……。良いな~」

「良いな~って……」


 呟く他になかった僕を前に、朝間さんは言った。


「久住くん今度誰か紹介してくれる?」

「……切り替え、早いね」

「お互い様でしょ?」

「…………はい」


 返す言葉が何も思い浮かばず僕はただ頷いた。

 そしてそこでまた、若干気まずい沈黙が、その場に下りる。


 けれど、僕はその沈黙に抗う様に、口を開いた。


「あの……また、走る気になってくれたの?」

「え?うん。気分転換と……」


 そこで朝間さんはそっぽを向き、どこか遠い目をしながら、こう言った。


「ダイエットです」

「徹頭徹尾それなんだね……」

「なぜか最近ストレス溜まってたから、やけ食いして」

「……すいませんでした」


 結局僕は謝っていた。いやまあ、だって……もはや謝るしかないだろうこの場では。


 そんな僕を、朝間さんは腕組みしたまま眺め、それからその視線を向こうに見える駅に向けると、こう言った。


「ていうか、久住くん行かなくて良いの?カナ、帰っちゃうかもだよ?」

「あ、うん……」


 そう僕は頷き、駅へと歩み出そうとして……けれど、そんな僕の背に朝間さんがまた声を投げてくる。


「久住くん」


 今度はなんだろうと振り返った僕をまっすぐ見据え、どこか冗談めかすような笑顔を浮かべながら、朝間さんはこう言った。


「……フラれちゃえ」

「結構、言うね……」

「でも、ホントにフラれたら怒るからね?」

「…………どうしろって言うんだ」


 もはや肩を落とすしかない僕を前に、朝間さんは小さく笑みを零す。


「どんな告白したか、今度カナと教えてよ。……部室で、さ」


 そして、朝間さんはそれ以上何も言わず、夕日の最中走り去っていった。


 今度、部室で。……部室にまた、来てくれるらしい。いや、男紹介してとかも……言いたかった事は別なのだろう。


(友達では、いてくれるのかな)


 そんなことを思いながら、僕は夕日の中再び走り出した彼女を見送って、それから、先へと進み始めた。


 なんだか少しだけ、スッキリした気がする。スッキリ……初恋に別れを告げられた。


 失敗と言えば、失敗なのだろう。成就せず失われた恋なのだから。

 けれど、僕は足取りは軽く……もう、迷う事なく進んで行ける。


 失敗しよう。もう一度。いや、何度でも、失敗して良いのだ。

 失敗しても多分、その分前には進めるのだから。


 ……まあ正直これで仮にフラれたりした日にはさらなる地獄めいた気まずさが僕の日常に襲い来る気がしないでもないが、それはそれ。もはやそれは罰として甘んじて受け入れよう。そうなってもしょうがない行動を僕は取っている訳だし。


 とにかく、僕は歩み出す。

 ……失敗しても良いと、心の中で免罪符を握り締めながら。

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