4 体操服と唆す小悪魔

 物心ついた時には店先に立って接客をしていた。


 ……と言うとまるで労働法違反のようではあるが当然そうではなく、だから、遊び場が街の定食屋だったと言う話である。


 夜、客に酒が入りだした頃になると、楽し気な笑い声が聞こえてくる。だからそれに誘われるように、まだ小さかった僕は騒ぎのある場所に釣られるように遊びに行ったのだ。


 そして上機嫌な常連さんにご飯を貰って母さんに窘められながらも夜におやつを食べて、面白そうな玩具を弄ってみたいからってビールサーバーにそれを注いでみて……。


 と言うようなことを僕はやっていたらしい。今でもたまに常連さんがそんな話を投げてくる。が、僕はあんまり昔のことを覚えていない。


 覚えているのは、怒鳴られたことだけだ。大人の客に怒鳴られた、幼少期の記憶。多分、小学校に入ってしばらく経ったくらいだろう。酒が入ったスーツの大人になにがしか凄い剣幕で怒鳴られた記憶。


 悲しい事にそれがいわゆる僕の原風景なのだろう。あとから状況を聞けば、特に常連という訳でもないお客さんが一人で酒を手に食事をとっていて、それに幼い僕はいつものように遊びに行った。そうしたら酒も込みでガキがウザかった。だいたいそう言う話だから、まあ僕の自業自得である。


 そしてそれ以来僕は気弱になった。他人をまず怖がるようなメンタルになってしまったからあまり友達を多く作るタイプにもならず、中学校に入っても似た引っ込み思案の多い部に入り、そしてその窓から頑張っている他人を眺めた。


 僕は中学時代将棋部である。将棋部と言っても、将棋だけやると言うのではなく、そう言う割と地味なゲームを何となく色々やってる熱意のない部で、僕は誘われて何となく入っただけである。


 それに熱中した……程ではないがまあ、頭を使って遊ぶのは面白かった。


 同時に、窓から見える陸上部に疑問を持った。走ってるだけで戦略性も何もないそれに、なんでそんなに熱中できるんだろうか、と。


 そしてとりわけ頑張っている女の子に興味を持って、晴れ舞台を応援しに行った。

 その晴れ舞台で、こっちを見て手を振ってくれた……気がした。


 だからそれが、天真爛漫にこっちを見て手を振ってくれる彼女が、根本的に他人に怯える気質になった僕の初恋になった。


 いわゆるアイドルのように見えたのだろう。

 同じ中学校ではあったがクラスが一緒になったことはない。遠い憧れである。


 遠く眩しく憧れて、そして挫折を見た。彼女は怪我をした。怪我が治った後、もう一度頑張ろうと一人あがく姿を僕は見ていた。


 そして彼女は校庭に現れなくなった。


 同じ高校と知ったのは、入学して暫く経ってから。噂話で知ったのだ。

 ビッチ3人組の一人だと。


 僕は勝手にへこんだ。同時に、仕方がないのだろうとも思っていた。熱中していたモノを失って空虚になったんだろう。それをどうこう言う権利は当然他人である僕ではないし、たとえ同じ高校だったとしても、……多分、中学の頃の経験からして、僕が朝間さんと関わる事もないだろう。


 だから、へこんだけれどだからそれで何か、僕の日常が変わることはなかった。


 ……彼女たちに我がテーブルゲーム部が占拠されるまでは。


 そして今、放課後。もはや癖で買ってきてしまった3種の紅茶をテーブルゲーム部の机の上に置き、まだ誰も来ていない一人きりのその部室の中で、僕は一つ決意を固めた。


(……良し。言おう、罰ゲームはなしにしようって)


 それが、結局午後の授業を丸々サボった上での、僕の結論だった。


 小悪魔に囁かれ唆され日々倫理観がバグり続けてはいたが、だとしても正しい行動は変わらない。そもそもこの罰ゲームは良くないもので、友達付き合いでそのゲームに参加している朝間さんは、困ってしまっている。


 だから、これ以上朝間さんを困らせないために、やめようって言うんだ。それが朝間さんに気に入って貰える行動でもあるはずだし。


 そのせいで3人が部室に来なくなって、結果的に朝間さんと関わりを持つ機会がなくなるとしても、現状よりは良い気がする。


(今の状況が続いても、続くだけ嫌われるだけだろうし)


 このままエスカレートが進むと朝間さんに本気で毛嫌いされるかもしれない。


 ポジティブに考えれば現状、脈0ではあるけれど思いっきり嫌われている訳でもないのだ。

 だから、嫌われ切る前に……煩悩を断ち切ろう。


「良し……戦うぞ!」


 気合を入れ部室で一人僕が呟いた、その瞬間である。


 ガラッと、部室の戸が開き、そこからひょいっと、クスクス笑う小悪魔が顔を覗かせた。


「あ、いた。……やる気じゃん、ユキちゃん」


 そう言いながら部屋に踏み込んできたのは、金子さんだ。何やら、いつもと服装が違う。体操服にジャージを羽織っている。そんな格好の金子さんは、今もつけている黒マスクの奥でクスクス笑みを零しながら、僕の方へと歩み寄ってきて……そんな金子さんの後から、朝間さんも部室に踏み込んでいた。


 朝間さんも体操服にジャージ姿だ。何やら一番上までジャージのファスナーを上げていて、そんな朝間さんはちらっと僕に視線を向けると、すぐに視線を落とし、所在なさげに部屋の隅に佇む。


 朝間さんの様子がいつもと少し違う気がする。ていうか、なんで体操服着てるんだ?一体どんな方向に罰ゲームがエスカレート……。


(いや待て僕!するな妄想を!戦うって決めただろ!?)


 拳を握り締め、迫り来る金子さんに視線を向けた僕。

 そんな僕を前に、クスクス笑いながら、金子さんは言う。


「今日さ。結局ミカ来ないって。起きたのさっきだから今日もう寝るって」


 いやどんな生活送ってるんだあのハーゲンダッツは。寝るって睡眠って解釈であってる?ビッチ的な意味の寝る?まあ、どっちでも良いかハーゲンダッツだし。


 それよりも……僕は戦うんだ!


「金子さん。あの……」


 立ち向かおうとした僕の言葉を当然のように無視して、金子さんは言う。


「ユキちゃん。はい、これ。預かっといて?」


 そして金子さんはポケットから何かを取り出し、それを僕に差し出してきた。


 水色の布地である。カップが二つ付いてる、少し透けた布。ランジェリー。女性もの下着。……要するにブラジャーだ。


 何なら見覚えがある。同じものをこの間、金子さんが付けていた。

 そんなブラジャーを手に僕は硬直して、それから金子さんに視線を向けた。


 ジャージを羽織っている。前は開いていて、体操服が見える。白い薄手の服だ。その胸……当然下着が透けて見えるはずもなく、心なし丸みが増しているような気がするその胸元に視線を向けた僕の前で、金子さんはクスクス笑いながら、ジャージのファスナーを上げていく。


「勝ったら。……その方が楽しくない?」


 お預けしてきた小悪魔はクスクス笑っている。それを前に僕はまた硬直し……だがその誘惑に立ち向かわんと、言う。


「あの、金子さん。……だから、こういうのは」


 と言いかけた僕へと、金子さんは少し前のめり顔を寄せてきた。さっきお預けしたばっかりなのに今度はネックレスの揺れる谷間が見えて、それに吸い寄せられるように言葉を止めた僕を前に、金子さんはクスクス笑いながら、囁く。


「てかさ。……ズルって良くなくない?」

「ズ、……ズル?」

「なんの話か分かるっしょ?てかバレない訳ないじゃん?見逃してあげてただけだし。だから、……今日はズルなし」


 ズルなし?な、なんの話だろうな……と、とぼけて考えないようにした僕の手に、金子さんはポケットからまた何かを取り出し、それを僕の手に引っ掛けてきた。


 僕の手に引っかかっているのは、白い布地である。ブラジャーとよく似た形状をしている、飾り気のない白い布地。


 ビキニだ。ビキニの上。季節外れの水着である。

 そして、それをこのところ毎日身に着けていた人物を、僕は知っている。


「……………」


 何にも言えなかった。派手なリアクションはしないが、……僕の視線はどうしても正直だった。


 部室の隅っこで、所在なさげに立っている朝間さん。何やら体操服姿で、ジャージのファスナーを一番上まで上げている、僕の初恋の人。


 そんな朝間さんは、僕の視線を受けて所在なさげに……あるいは心許なそうに、自身の胸を両手で隠していた。別に、何が見えているという訳でもないのに。


 ……今はまだ。


 そんな朝間さんについ視線を向けてしまう僕の傍で、小悪魔はクスクス笑っている。


「ね?……楽しくしたじゃん?」

「はい。……いや、はいじゃない!?あの、金子さん。その……」


 凄まじく欲望が刺激され倫理観をバグらされてる僕は、けれどどうにか流されようとする自分に抗い、金子さんへと言う。


「こういうのはもう、」

「やめにする?だと、マイと他人になるよ?ユキちゃん自分で声かけられないっしょ?」

「……でも、」

「てかさ、ちょっとムカつかない?関心0で、フラれてさ。ちょっとだけやり返すだけっしょ、ユキちゃんからしたら」

「やり、返す……?いや、でも、」 

「それにさ。マイさ。ウチらと違ってお硬いじゃん?だからさ。男に見られたらさ。ちょっとは意識するんじゃね?……多分、ユキちゃんに無関心ではなくなるじゃん?」

「…………それは、ええっと……」


 もはや小悪魔の誘惑ではなく、悪魔の契約染みてきた。言ってる事は徹頭徹尾倫理的に間違っているのに微妙に筋が通っているせいで、僕には免罪符に聞こえてしまう。


 見られたら意識する。それは、……ない話ではないかもしれないが、いや。


「でもそれ嫌われるって事じゃ……」

「無関心よりマシじゃん?上手い事謝れば良いじゃん。ユキちゃん得意じゃん?謝るのさ」


 もう反論できなかった。クスクス囁いてくる悪魔に倫理観と思考がバグらされ、そのまま契約してしまいそうになった僕へと、小悪魔は止めを刺してくる。


「てかさ。……ユキちゃんもウチの被害者じゃん?マイが恨むとしてもウチでしょ?脱がしたのはウチなんだし」


 そしてその囁きと共に、金子さんはふと自身の胸元、体操服の襟元に手をやり、それを引っ張った。


 ネックレスの向こうに形の良い、何にも覆われていない素肌が見える。こないだのように全部全部見えたという訳ではないが、形の良い谷間が覗き、それに誘導されるようについ視線を落とした僕の前で、金子さんはすぐさま襟元から手を放す。


 そして、視線を上げた僕の目を、金子さんは面白くて仕方ないと言いたげな目で見据え、言った。


「……ユキちゃん今、頷いたじゃん」

「…………いや、……はい」


 僕は悪魔に負けた。負けを認めた。と言うか抗っても勝てる気がしない。

 金子さんはクスクス笑いながら部屋の隅に歩いていき、そこにあったゲームを物色しだす。


「でさ、どれやる?どのゲーム?……ウチが選んで良いよね?」


 もう、好きにしてください。

 軽く肩を落とした僕を眺め、クスクス楽し気に笑みを零しながら、悪魔はゲームを選び始めた。


 それを僕は意気消沈したまま眺め……と、そこでだ。


 さっきまで部屋の隅っこにいた朝間さんが、僕の元へと歩み寄ってくる。


 ジャージを上まで閉めて、その上更に所在なさげに胸元に手を置きつつ……朝間さんは視線をさ迷わせた末、僕にその視線を止めた。


 そして、……何やら追い詰められたと言うか、決意をその瞳に滲ませながら朝間さんは言った。


「久住くん。……一緒にカナに勝とう?協力しよう?」


 戦う気になっているらしい。……なんか、ゲームにノリ気に見える。自衛のために僕を仲間に引き入れようとしているのかもしれないが……。


 朝間さんはふと、袖の余っている両手をグッと握って見せて、なんというか前向きな様子で、こう言った。


「頑張ろう、久住くん。……ね?」


 ……なんというか、なんだろうな。これは完全に勘なんだけど……。


(朝間さんもなんか、ノせられてない?)


 朝間さんも何かしら小悪魔に唆されているような気がしないでもない。

 いや、だってそもそも、……下着見られるのすら嫌がってビキニ着てくるレベルなのに、ソレ脱いでるんだから。しかも体操服着てるし、何かしら誘導はされたんだろう。


 とか思いながらつい胸に視線を向けてしまった僕を前に、朝間さんはふと視線を逸らし、さっと胸を両手で隠すと、呟いた。


「久住くん。あの……できれば、あんまり見ないで」

「あ、……すいません」


 とか僕と朝間さんがぎこちなく言っている向こうで、小悪魔はクスクスと楽し気の、玩具を物色し続けていた……。

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