2 クズミ食堂と新人バイト

 中学校の頃の僕もパッとしなかった。パッとしない将棋部員だった。当然のように女子との関わりはクラスでプリントを渡して貰うくらいしかない。


 そんな僕がひそかに想いを寄せていたのが、朝間さんだ。


 高校に入ってからやめてしまったが彼女は元々陸上部であり、そして中学の頃、将棋部の部室から陸上部の練習風景が見えたのだ。


 一番遅くまで残って、一番一生懸命練習をしていたのが朝間さんだった。弱小陸上部の中で、一番頑張っていたのだ。


 それを、何も褒められる特技はないし正直何にも熱意を持てない僕は将棋部の部室から眺めていて、そんな折、彼女が関東大会に出場すると言うニュースを聞いた。


 そして、応援に行ってみる事にした。クラスでそんな話も出ていたし、皆行くのかなって思って実際行ってみたら僕しかいなかったと言う悲しすぎる現実は今は関係ない。


 とにかく、僕は朝間さんの応援に行き、関東大会とは言え練習を頑張っていた彼女の晴れ舞台を応援しに行き……その晴れ舞台で、彼女は予選で1位を取っていた。


 それがよほど嬉しかったのだろう。中学の頃からクールだった朝間さんは飛び跳ねて喜んでいて、……多分僕の気のせいだろうけど、こっちを見て手を振ったような気がした。


 我ながら僕も単純な生き物である。初恋に至った理由がそれだ。

 クールだと思っていた彼女が飛び跳ねて喜んでいるのが可愛くて、手を振ってくれた気がして嬉しかった。


 決勝では惜しくも3位だったが、来年に期待を持てる内容だったと後から陸上をちょっと勉強した僕は知ったし、来年も応援に来ようと僕は割とストーカー気質だった。


 が、……将棋部から、練習風景は見えてしまう。


 運動に怪我は付き物だ。練習中の怪我で、彼女の陸上は終わってしまった。


 そして高校に入って、同じ学校だと知った時は僕は喜んだが……ビッチグループの一員と聞いて、へこんだ。当然のように自分から話しかけに行く度胸は僕にはない。


 そして、彼女が道を間違えてしまう理由もわかる気がするしと他人事のように(事実他人事ではあるのだが)勝手に思って、淡い初恋だったんだろう、もう忘れて、テーブルゲーム部の部員勧誘を口実に頑張って女子に話しかけてみようか、と思った矢先にテーブルゲーム部はビッチに占拠された訳である。


 そして僕はこの所毎日女子に缶ジュースをおごりつつもあまり胸を張って言えないささやかな報酬を手にしている。

 要は、


(……強く出れない)


 いろんな意味で。僕の中の事なかれでありながらも甘い汁は吸いたいと訴える悪魔が冷静にいったん様子を見てエスカレートを待とうと訴えてくるのである。


 同時に、友達選びを間違えただけでまだビッチじゃない初恋の相手をそのままにしていて良いのかと僕の中の倫理観を司る部分が警鐘を鳴らしてくるが、だからと言って僕の発言力的に何が出来ると言う訳でもない。


 今日、あの後。罰ゲームはマジで上になった。だが、朝間さんは負ける訳には行かなかったのだろう、勝ち続けていた。ちなみに常時マスクの金子さんは今日ピンクのブラだった。『どうよ?』と刑部さんは堂々と胸元をはだけていたがそもそも元々見えていた。


 そしてこれを機にきっと、どうにか身を守ろうとする朝間さんは下着ではなく水着とか明日から着てくるだろう。だが、正直それはそれでみたいと僕の中の悪魔が訴えてくる……。


「……ハァ、」


 なんというか、悩みは深まるばかりである。欲望と誠意と期待と良心の呵責が心の中で入混じり大変複雑なのである。


 そしてそんな複雑な事情が、更に混迷を極めていくちょっとした事件が、その日、我が家に帰りついた僕の前に、起こった。


 ちなみに我が家は食堂である。“クズミ食堂”と言う、どうにかほそぼそ生き抜いている街の定食屋だ。

 その戸を、がらら~と開けた瞬間。


「……っしゃいませ~、」

 と言う、なんか軽い調子の声が食堂の中に響き渡ったのだ。


 母ではない。そして厨房に立つ寡黙な父でもない。そして我がクズミ食堂に他に従業員はいない。いや、いなかったがバイトを雇おうかと言う話を母がこの前していたような気がする。


 そして、そのバイト。我がクズミ食堂のエプロンをつけつつも、頑なに黒マスクを装着しているその茶髪ツインテールの少女は、僕を前に言った。


「……ユキちゃん?」


 ちなみに、僕の名前は、久住優希である。まあクズと宣うビッチは論外としても、ユキではない。ユーキである。


 そして僕を面白がって女の子のようにユキちゃん呼びするのは、一人。


「…………マジ?」


 そう呟きそっぽを向いている、金子カナコ、ただ一人だ。


 いや、クズミの時点で気づいてよ。どんだけ僕の事歯牙に掛けてないの?


 *


 母は言った。


「この子、アンタと同じ学校なんでしょ?よろしくしなさいよアンタ……。高校生にもなったのに女の子の一人連れてこないんだから。ねぇパパ?」


 それに厨房にいる父は無言でハンズアップ。


 そして、最近懐が寂しいからバイトさせてくださいと両親に頼んでいた僕は、我が家に来た新人バイト。


 知り合いだし今着てる下着の色は知ってるんだけど二人で話した事は多分ない女子に、……仕事を教える事になった。


「……えっと、さっき言ったのが、略称って言うか、合い言葉って言うか……」

「ウス。中華いっちょう、ハンセット、ライス大……」


 シャツの上に我がクズミ食堂のエプロンを着た金子さんは、持参したらしいメモ帳に、僕が言ったメニューの略称を書き込んでいた。


 それを前に、僕は言う。


「……もしかしてバイト慣れてる?」

「ウス、先輩」

「接客経験は?」

「ないっス。自分基本裏方だったんで」

「そっか。……じゃああの、とりあえずいらっしゃいませとありがとうございましたは、元気良く……」

「ウス。パッションっスね?」

「……パッション?」

「ウス。ボスがパッションで全て何とかなるって言ってたっス。困ったらすぐに上に投げろって。ウス」


 ボス?……母さんか。


「……パッションの前に誠意ね?」

「金言っスね。ウス。流石っス先輩。ウス」


 と言いつつ、金子さんはメモを取っていた。まあ、その姿勢は良いんだけど……。


「……金子さん。そのキャラは、なんなの?」

「ウス。自分普段からこうっス」


 凄いまっすぐ僕の目を見ながら嘘ついてくるじゃんこのビッチ。


「普段からウチってこうっスよね?……ユキちゃん?」


 違う。嘘じゃないこれ。圧だ。他人のフリしろって言ってる。

 そしてその圧に勝てないから、我がテーブルゲーム部は占領されている訳である。

 それに心の中で小さくため息を吐き、それから僕は言った。


「そうですね。……じゃあ、とにかく今日はメニュー覚えて?それで大丈夫そうだったら、実際に注文とってもらうから」

「ウス、」


 とりあえず返事はしてきた部下になったらしい頭の上がらないビッチを前に、


「ハァ……」


 僕は肩を落とした。


 *


 我が家、クズミ食堂は定食屋である。カウンター席が8に、テーブルが4。

 そして2階には宴会用の広いお座敷もある。まあそのお座敷の使用は予約必須だし、わざわざ街の定食屋で宴会をしようって言う人も近頃はあまりおらず、ほとんど使われていないのだが。


 とにかくまあ、うちはそんな間取りの小さな定食屋で、取り立てて席数が多い訳ではない以上、生き残りの為に重要なのは客単価とテーブルの回転率。そして常連さんの力だ。


 要は、手際よくかつ人の顔を覚える必要がある。


 一見さんには、

「ご一緒にドリンクはいかがですか?」

 とくどくならない程度に勧め。


 “いつもの”と言う言葉には、

「はい。……チャーハンセット大と餃子に生ですね?」


 当然暗記し、そして回転率を少しでも早めるために戸が開いた瞬間に「いらっしゃいませ~」と言いながらドリンクサーバーに向かい水を用意して、席に着いた直後には愛想笑いと共に「ごゆっくりどうぞ」。


 もちろん退店の際には「ありがとうございました!」の声を忘れない。そして直後に皿を片付けテーブルを拭く。


 そんな店番のあんちゃんムーブを物心ついた頃から母に教え込まれていた僕はほぼ無意識に続け、そして間が空いた瞬間に、


「最初はメニューを覚えて、いらっしゃいませ。で、人数を確認して、それから水を持っていくだけで良いから。呼び止められて注文を受けたら、時間がかかっても良いから正確に内容をメモして?いつものって言われたらはい、ってだけ頷いて僕に言ってくれたら大体わかるから」


 新人教育。それに新人の黒マスク女子高生は、メモを取りながら「ウス」と頷いていた。


 ちなみに母は見たいドラマがあると店の奥に引っ込んでいった。父は視線を向ける度に厨房でハンズアップしている。それ以上を父に期待してはいけないって言うか厨房担当が表に出なきゃいけない状況になったらマジで店が死ぬ。


 とにもかくにも、店番しつつも隙を見つつ新人教育と僕は忙しなく動き回り……やがて、そろそろ行けそうだと判断した段階で、金子さんに言った。


「次に来たお客さんの対応、してみてくれる?いらっしゃいませ、で、お水持ってくだけで良いから。それで、注文で呼び止められたら」

「時間がかかっても良いから正確にっスね。ウス」


 金子さんは頷いていた。そこでガラッと、店の戸が開く。その瞬間、僕は「いらっしゃいませ~!」と少し声を張り、そんな僕の横で……接客は未経験らしい金子さんは「……っらっしゃいませ~」と軽い調子で言いながら、ちらりと僕に視線を向けてきた。


 その視線に僕は頷き、金子さんは狭い店内の中、ドリンクバーに歩み寄って行く。


「おひとり様ですか?」


 との金子さんの問いにお客さんが頷き、「カウンター席にどうぞ~」と言いながら、金子さんはそのお客さんの元に水を持っていく。そしてお客さんは会釈だけ返し、メニュー表を見始めた。


 ……うん。多分、平気だろう。そんなことを思った僕の横へ、金子さんは戻ってきて、伺う様に視線を向けてくる。


「うん。今ので良いよ。次もお願いして良い?出来たら、メニューも取ってみて?」

「ウス」


 頷き、金子さんはさっき取ったメモを見返していた。


 *


 接客業において大事な事は、まず慣れである。見ず知らずの他人に頭を下げるのだから不慣れでも仕方がないし、そしてある程度慣れた後必要になってくるのは、諦めだ。


 お客様は神様だ、と言う言葉を真に受けて過剰なサービスなり重箱の隅をつつくが如きクレームを入れてくる大人が世の中にはいるのである。


 それに平謝りしつつ諦めることが必要。自分の事を神サマだと思ってる奴がまともな人間なはずがないのだ、と心の中で思いつつ愛想笑いを続ける悟りの心が必要である。


 そして、多分こういう愚痴をため込まずすぐ吐き出して雑に笑い飛ばせる人間でないと接客業は続かない。


 その点、金子さんは流石ビッチである。


「……あのおっさんめっちゃ太もも見てきたんスけど、先輩。ちょっとやっちゃってくれないスか?」


 初日からそう言う愚痴こそっと零せるのは流石のメンタルだ。でも、あの、金子さん?あのね、今変態扱いした人ウチの常連のめっちゃ気の良いおじさんだから指さすのはやめようね?


 と、お願いしたら返事は「ウス」だった。


 ……なんか不安がない訳でもないけど、何かやらかしたら僕が謝れば良いか。

 とかなんとか思いながらも、その日は過ぎて行った。


 物おじしないし覚えも良いし、愛想の部分は黒マスクだが街の定食屋の客層的に若い女の子補正でやらかしても多少許されるだろうと言う若干の甘えもありつつ、金子さんに何度か来店のルーティンをこなしてもらい、メニューを取って貰い始め……そして、事件はそんな時に起こった。


 突如、店内に怒声が響き渡ったのだ。


「――何してくれてんだよ!?」


 そんな、……なんか新人がやらかしたっぽい、怒声が。


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