煩慮
部活終わり、初夏の休日。学校内に生徒はいない。
鍵を返却し、顧問のいる体育教官室をノックする。
一年間通してやってきたが、慣れることはなかった。
「失礼します、男バスの橋田です。」
ドアを開け、そう言って入るといつもの席に
「監督、自主練組も終わって、みんな帰りました」
「あぁ、ご苦労さん、翔吾、ちょっといいか」
監督はこちらを向いて言った。
「えっ…」
見慣れた黒椅子のもとへおそるおそる向かうと、チームのボスはメンバー表を手にしていた。
「明日のスタメンについて、翔吾の意見を聞きたい」
─やっぱり、か─
「フォワード(主にドリブルで攻め入る攻撃役)ポジションの残り一枠を誰にするか、だ」
今までの試合では、対戦相手のプレースタイルに応じて翔吾が入ったり、二年生の
しかし実戦を積む中での著しい成長、高いバスケセンスを見せる晴人に、翔吾はもはやバスケットで彼には勝てないことを自覚していた。
そして今、口にこそ出さないが、監督もそれを案じている。
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「できれば最後の大会、三年生を中心に出してやりたいんだが、何しろ相手が
「そうですね」
の返事も無意識に弱々しくなってしまった。
沈黙が二人の間を駆ける。
「でも、監督には是非、勝ちにこだわった采配をして頂きたいです。それが多分、三年のやつらみんなのためでもあると思いますし」
しばらく考えた上、翔吾に言えるのはこのくらいだと悟ったのだ。
「うん、わかった。わざわざありがとな、今日は休んで明日に備えてくれ」
「ありがとうございます、失礼します」
教官室を出た。
廊下は一面、差し込まれた夕日で茜色に染まっていた。翔吾一人分、西日だからやけに影が長い。
窓越しに外を眺めると、学校を象徴する松の木が、まるで夕陽と戯れるようにゆらゆらと揺れていた。
明日のスタメンには晴人が選ばれるだろう。
試合には、と言われれば、もちろん出たい。いうなれば引退がかかったこの大会、今までで一番準備をしてきたし、今までで一番、コートに立ちたいと思っている。
靴を履き学校を出ると、夏を感じさせる生ぬるい無機質な空気に包まれた。
家に帰ると、玄関の前でまず深呼吸をしてからドアを開けた。
パート終わりの母親に、このやり場のない虚しさと焦りを気付かれたくない。
その彼女はというと、慣れた手つきで夕飯の準備をしていた。
「おかえりショウちゃん、お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
「うん、わかった」
荷物を下ろし、水筒や着替えを引っ張り出した。
しかし母はキッチンヘ向き直ろうとはせず、何か嬉しそうな表情で翔吾を見ていた。
「どうしたの?」
「あぁ、ううん…なんかね、ナオちゃんに似てきたなぁ、って思って」
またか。翔吾は小さく息を吐いた。
「そうかな」
わざと素っ気ない返事をして風呂場へ向かった。
ナオちゃん─翔吾の五つ上の兄にあたる
そんな兄を翔吾だって誇りに思ってる。でも、こうやって親戚や両親、学校の先生がいつも翔吾の中にある、直貴の面影を探してくることに嫌気が差していた。直貴を知る誰もが、とりわけ母さんが、翔吾に兄の人生をトレースすることを期待している。
進路の相談をする毎にまるで、
「兄貴と同じレールを歩んでいけば大丈夫」
と言われているような、あの感覚がとても嫌いだった。
─俺は直貴の弟であって分身じゃない─
でも声に出すことなんて出来ない。そんなこともまた、母なりに翔吾を想ってくれていることの裏返しなのだろうから。
部のマネージャーを務める
『リュウ、洋介、タケ、ター坊、晴人』
部長である翔吾の名前はなかった。
「そっか…」
前を見つめ、ひたむきに走る翔吾の姿が脳裏に浮かんだ。この一年間、彼がどれだけバスケ部のために身を削り、働いてきたかを知っている。だからこそ、胸が痛んだ。
リュウはその時、緊張を抑えるためベットに身を投げ出し横になっていた。
スマホの通知が鳴る。紗苗からだ。
『明日のメンバー表。リュウはいつも通り、がんばってね』
メンバー表の写真と共に、翌日のスタメン入りを告げる連絡だ。選ばれた者は事前にマネージャーを通じて顧問から知らされることになっている。
リュウはずっと、
ふと、スタメンの背番号がいつもと違うことに気づいた。
「やっぱり、か」
翔吾の代わりに晴人が入っていた。翔吾は知っているのだろうか。出場時間が
緊張にしてはやや
夜が更け、空は月さえも霞んで見えなくなりそうな様子だ。
─明日は忘れられない一日になりそうだ─
その濁った世田谷の空を見て、そんなことを思った。
マンションの子ども部屋。
二年生の晴人は勉強机に突っ伏しながら、紗苗マネージャーから送られてきたメッセージを見て緊張と罪悪感に侵されていた。
「先輩…」
嬉しくないと言えば嘘になるけど、このモヤモヤとしたものは、多分、試合が終わるまで消えないだろう。
─いっそ翔吾先輩と話をつけておくべきなのだろうか…
スマホのトーク画面を開き言葉を考えていると、また別に、バスケ部のグループチャットでその部長が明日の概要を伝えた。
集合場所、時間、持ち物、注意事項…そして最後には『みんなでがんばろう!』とあった。
炭酸からガスが漏れ出すように力が抜けていった。晴人はしばらくそのメッセージを見つめていた。
そしてまた翔吾先輩との個人チャットを開いた。打ち込んだ文字を思いと共にシュレッダーにかけるように、バックスペースキーを長押しした。
送信ボタンを押すと、翔吾はスマホを置いて息をついた。
部屋のドアが開いて、母が怪訝そうに顔を覗かせた。
「母さん、どうしたの?」
「ショウちゃん、明日から予選の決勝リーグでしょ?」
「ああ、うん、そうだけど」
「私、パート休んで見に行こうと思って、いい?」
途端に胸が締まる思いがした。
「だって、高校最後だものね、部長としてもがんばってるって聞いたわ」
「まって、明日はその…まだ一回戦だからさ、全然勝てるし、来週来てよ。それにパート先にも迷惑かかっちゃうよ」
「ううん…。でも」
「大丈夫、結果はちゃんと伝えるから」
「そこまで言うなら…わかったわ、がんばってね」
胸の締めつけが強くなった。
「今言うのも何だけど、勉強の方は大丈夫なの?推薦のための大事なテストが近いんだからね」
忘れかけていた白紙の進路調査票が頭に浮かび、また憂鬱な気分になった。
「勉強は勉強でちゃんとやってるから…うん」
翔吾は無理矢理、笑顔を作った。
「そう、ならいいんだけどね。明日がんばってね、おやすみ」
そう言って母さんはドアを閉めた。
─試合に出れるかもわからないのに、がんばれはないよ─
夜、翔吾は浅い眠りのなかでじっと身を横たえていた。薄く、鋭く、張りつめた眠りだ。
自分にできることはなんだろう、夢と覚醒の狭間でそんなことを考えながら。
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