第9話 明鏡
扉が開いた瞬間、肌寒い空気が一気に中から流れ出してきた。薄暗がりの中、白檀が先頭に立って奥へと進んでいく。左右には玉が埋め込まれた金杯や玻璃の盃、見事な彫刻が施された大刀など、白檀が今までお目にかかったこともない高価なものが所狭しと並んでいる。
(これ全部売ったら幾らくらいになるんだろう)
思わずそんなことを考えてしまい、慌てて首を振る。
「今陛下の後ろに置かれている鏡はどこに仕舞われていましたか?」
そう尋ねると、芳玉は黙って一番奥のがらんとした空間を指さした。走り寄って顔を床に近づけてみると、一か所だけ黒く湿っている部分があるのに気が付く。そっと触れると、ひんやりと冷たい。
(やっぱり)
確信を得た白檀は立ち上がり、芳玉の方をくるりと振り返った。宝物殿の扉を背にして、少し青みがかった薄い灰色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「これは恐らく氷が溶けた痕です」
「氷?」
芳玉が訝しげに復唱する。
「はい。何者かが氷室から氷を取り出し、鏡の上に置いていたんです。犯人は鏡がここから持ち運ばれる前に氷を回収したものの、溶けた水が床に垂れたのだと考えられます」
待機場所の脇を通った武官たちが宝物殿の中が寒かったと言っていたのは、それまで中に氷が置かれていたからだろう。裾が濡れたのも、氷が溶けた後の水たまりに触れたからだ。
「犯人は鏡を氷で冷やし、それから近くに火力の強いかがり火を置きました。冷えた鏡が急激に熱せられれば――」
「温度差で鏡が割れる」
芳玉の瞳がはっとしたように微かに揺れた。
「そうです」
硝子でできた鏡は、激しい温度差にさらされると耐えられずに割れたりひびが入ったりする。冬場にはよく見られる光景だ。その上あの大きさとなれば衝撃に弱く、割れる確率はぐんと高くなる。とはいえ、鏡が割れるかどうかは完全に運次第であり、あまり勝算のある策とはいえない。だが……
「神事に使われる鏡は吉凶を占うもの。その上、我が国に伝わる最高位の祭具。割れるまではいかなくともひび一つでも入ろうものならそれを足掛かりに陛下に難癖をつけようというわけか」
流石に理解が早い。白檀が説明するまでもなく、芳玉はこの謀略の全貌を理解したようだ。現皇帝は半年前に即位したばかり。鏡に傷がついたのは幸先が悪いだとか凶事の前触れだとか騒ぎ立てれば、皇帝の立場はますます危うくなる。即位式の際にもこの鏡が使われていたはずだが、その時には氷室の氷も貯蓄がなくなっており、鏡と外気の温度差を生み出すことができなかったのだろう。だからこの時期、桃李の宴を狙ったのだ。
「今すぐかがり火を消すか、鏡から遠ざけることをお勧めします」
鏡がいつ割れるは誰にも分からない。だからなるべく急いだ方が良い。
「早く戻りましょう」
芳玉が白檀を急き立てる。急いで宝物殿を出て鍵を掛けると、彼は一目散に桃李園の方へと駆け出していった。見た目に反して案外足が速い。普段雑用で鍛えているはずの白檀でも、遅れてついて行くことしかできない。
宴の参加者たちからこちらの姿が見えるくらいの位置に近づくと、芳玉は急にスピードを落とし、ゆったりと歩き出した。呼吸を乱さず、涼しい顔で上座の陛下の傍へ行き、何やら耳打ちしているのが待機場所の近くで立ち止まった白檀の目にも見えた。
「少し暑くなった。火を消してくれないか」
太くよく通る声で陛下が命じた。これには反対できる者もおらず、役人たちはきょろきょろと何やら様子を窺いながらも一斉にかがり火を消し始めた。
芳玉は口にこそ出さなかったものの、きっと気が付いているのだろう。犯人は氷室にも宝物殿にも立ち入ることができ、さらにはかがり火の位置を自由に変え、下級役人たちに木片を投げ入れ続けるように指図することができる人物。少なくとも、正四品以上の貴族であることは間違いない。
(だとしたら、厄介なことになるだろうな)
白檀がそう眉をひそめた時、
「あなた、そこで何をしているの⁉ 早く手伝いなさい!」
怒鳴り声が響き、先輩宮女が鬼のような形相を浮かべているのが見えた。
(まずい!)
何も考えずに宝物殿へと走ってしまっていたが、思い返せば白檀は仕事中である。傍から見れば怠けていたようにしか見えない。
「すみません! 今行きます!」
火が完全に消えたのを確認してから、白檀は慌てて自身の持ち場へと戻った。
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