Chapter 2


 アトリはふさぎこんでいた。

 一日中ベッドから離れず、寝るか座ってぼーっとしていた。勿論、食事なんて論外だ。

 事情が事情だったから、エメさん夫婦は干渉しないでくれた。事情を知らないのだから、そうするしかなかっただけなのだろうけれど。

 されど、マックスだけは違った。

 案の定、マックスは、今日もやって来た。アトリが食べないと分かっていても、毎日律儀にレシピを色々変えては作って持ってきてくれるケサダと一緒に。

 ケサダは食事を置いて部屋を出て行ったけれど、マックスは残った。

 大方、残す食事狙いなのだろう。マックスの意地汚さを、アトリはよく知っている。

 料理を冷めるころを見計らって、床に置く。「待ってました!」と食いついてくる――かと思いきや、マックスは動かない。


「……マックス? ……食べないんですか?」


 しかし、マックスは動かなかった。


「……わたしなんかに遠慮なんかしないで食べていいんですよ、どうせわたし、食べないですし、ほら……」


 そう言って、料理の皿をマックスの方に押しやろうとする。


「……マ、マックス?」


 思わず、声を引き攣らせてしまう。

 ヴ~ッ! と、マックスは唸り声を上げていた。他ならぬ、アトリに向けて。


「……べ、別に、食べたからって、なにをするとかってわけじゃ……って、ひぅっ!」


 再び、ヴ~ッ! 


「……気に、障ったのですか、もしかして?」


 そろそろと、料理を引き戻す。

 とことことマックスがやって来る。


「うんせっ!」とばかりに立ちあがり、ベッドの上になにか置いた。よくよく見れば、口にものを咥えている。

 ベッドシーツの上に、茶色い物体が転がった。シーツの白を、茶色い物体から染み出た液体とマックスの涎が汚す。


「……ちょ、ちょっと、マックス? ……って、これって」


 置かれたそれを、摘み上げる。よく見たらそれは、骨付き肉を焼いたものだった。おそらくマックスのご飯だ。

 マックスは「ばうっ!」と大きく吠える。つぶらな黒い目は、アトリを真っ直ぐ見ていた。


「……マックス?」


 マックスは答えない。ただじっと、アトリを見つめている。

 答えないのは当然だ。マックスは犬でしかないのだから。

 だけれども、じっと見つめてくるその眼は、アトリになにかを言おうとしているように見えなくもない。


「……マックス?」


 だけど、マックスが答えることはない。


「……なんですか?」


 手持ちぶさたになりはじめてきた骨付き肉を、アトリは床に置いた。

 すかさず、マックスは駆け寄ってきて咥えて、ベッドの上に置く。

 再びアトリは、骨付き肉を床に置いた。

 すかさず、再びマックスは駆け寄ってきて咥えて、ベッドの上に置く。

 三度目の正直とばかりにアトリは、骨付き肉を床に置いた。

 すかさず、三度目の正直とばかりにマックスは駆け寄ってきて咥えて、ベッドの上に置く。


「……だから、なんですか?」


 マックスは視線を外そうとせず、じっと見据えてくるばかり。

 さっきみたく、吠えもしない。


「なんなんですかっ、もう!?」


 らしくもなく、アトリは癇癪を破裂させてしまう。正直、マックスの行いは気持ち悪いものでしかなかった。まるで、気持ちの押し売りをされているみたいで。

 もしかすれば、ブッチの行いだって同じようなものだったのかもしれない。

 護衛を引き受けて一緒にいてくれたのだって、【存在】が失われてしまったザ・サンダンス・キッドを取り戻すためでしかなかったわけだし。


「……言っておきますけど、わたしはただの浅倉アトリっていう一個人でしかないんですよっ……そうでしかありえないはずなんですよっ! ……超能力者でも名探偵でも天才でもありえない……一般人でただの凡人でそこらに転がる石ころみたいにありふれているだけの存在でしかない、そうでしかありえないはずなんですよっ! 伝えたいことがどうあれ、なんであれ、分かれ、分かってくれって言われたって、理解出来ないものはどうあったって理解なんて出来ないんですよ! 出来るわけなんてないんですよ! それが大事で……大切なものであるんなら、尚更なんですよ! 大体、誰だってみんなそうなんですよ、誰も彼も! 自分が思っていること、自分が考えていること、その全部全部全部がちゃんときちんと相手に伝わっていることだけしか、当たり前にしないでくださいよ!」 


 だけど、言葉であれ気持ちであれなんであれ、自分が伝えたいなにかがあったって相手に伝わらなきゃ、意味なんてそもそもないのだ。

 たとえそれがどれだけ大切なものであったとしたって、きちんと相手に伝わらなかったら、ただの無意味にしかなりえず終わってしまうだけなのだ。

 でも、後々になってその無意味にしかなりえず終わってしまったものがなんの因果か意味になりえてしまったら、それがきちんと相手にきちんと伝わってしまったら、それも、取り返しのつかない大事が終わってしまった後だったら、尚更でしかない。


「わたしは結局、なにをどうすれば、なにをどうしていたらよかったんですか……?」


 後悔の本音の言葉を吐き出すのと同時に、頬を涙が伝い落ちていく。


「それがちゃんと出来たら、出来ていたら、ブッチさんだって、【あの人】だって……誰か、教えてくださいよ!」

「お嬢さんがなにか腹にお入れになって、元気を取り戻してほしいですよ。とりあえず、アタシとしては」


 不意に割り込んできた声にはっとなる。いつの間にかケサダがいた。言葉をただただ吐き散らしまくっていたアトリが気付かなかっただけだ。


「……すっ、すみません。……なんか、すごく見苦しいものを見せちゃった、みたいで」


 いつからケサダがいたのか分からなかったけど、驚くより羞恥の方が勝った。

 こんな聞き苦しいことを、どこから聞かれていたのかって思ったら。


「とんでもねぇですぜ。むしろ、それが当たり前なんじゃねぇですかい?」

「……え?」

「失礼な物言いになっちまいますがね、お嬢さんみてぇなことになっちまったら、子供ってのは大体そうなっちまうんですよ……大体じゃなく、みんなみんな。おかしいことなんかじゃちっともありやしませんよ、むしろそれが当たり前じゃなきゃ、おかしいってもんなんですよ。自分の胸の内に溜まっちまった、もやもやしたわけのわかなねぇモンの抑えがきかねぇんなら、尚更ですよ。むしろ、どうにもならねぇ理不尽だ不条理だにぶち当たっちまって、頭ン中がこんがらがってわけもなにもわからなくなっちまったら、ぎゃあぎゃあ泣いて喚き散らすしかねぇじゃねぇですか。アタシゃ、それが普通なんだって思っていやすぜ」

「…………」

「でも、だからって……」

「……だからって?」

「失礼を承知でお言いしやすけどね、お嬢さん。アタシもエメもマックスも、お嬢さんがそこまでご期待してくださるぐらい万能な人間になんぞ出来上がっていやしやせん。首魁ボスですらも、きっと」

「……えっと、それは、どういう?」

「お嬢さんに限らず、全ての人間同士どころか生きる存在同士が誰とでもお互いに、それこそ虫みてぇに、なんでもかんでもちゃんときちんと分かり合えられりゃあ、世の中もっと平和に出来上がっているはずじゃねぇですかい?」


 ケサダの言うことはどこか見当違いである。だって、アトリが言うことじゃなくて、アトリがそう言うっていうこと自体に関してのフォローと若干の非難だし。


「それよりマックス、お前ぇ、なにやってんだい……ああああ! お嬢さんのベッドシーツが!」


 シーツを見て、ケサダは悲鳴を上げる。


「全く、この馬鹿犬……お前ぇってヤツぁ」


 そして、「敷物にしてやる!」と、続くはずだった。


「この、ろくでなしが。ろくでなしが。食い意地ばっか張ってろくでなしの馬鹿犬でしかねぇはずのお前なのに、この……」


 それどころか、声をつまらせて、ぐすぐすやり始めている。


「……また、って?」

「お嬢さん、マックスの奴はね、友達を殺されてるんですよ、ここに来る途中で」

「……!?」

「官憲や賞金稼ぎや探偵にぶっ殺されちうまうってのは、認めたくありやせんが、無法者アウトローの一種の宿命みてぇなモンで、別にそう珍しいことじゃねぇんですよ。けど、マックスの奴の友達だった奴ぁ、無法者アウトローとしてそういう死に方をするには、あんまりにも若すぎやしてね」


 つぶらな黒い目の食い意地が張ったウェルシュコーギー犬に、とてもそんなバックグラウンドがあるなんて思わなかったし、思ってもみなかった。


「……でも、とてもそんな風には」

「そりゃあそうでしょう、お嬢さんが知っておられるのは、ヤンチャで食い意地が張った馬鹿犬マックスでしょう」

「……!」

「テディ――死んだ友達のこともあったかもしれやせんが、コイツなりに見ていられなかったんですかね」


 じゃあ、さっきのマックスのあの行動は。

 瞬間、羞恥の赤がアトリの頬を染め上げる。さっきの言動は、あんまりといえばあんまりじゃなかっただろうか。いくら知らなかったとはいえ。

 そんなアトリに対し、ケサダがこれ以上なにか言うことはなかった。

 骨付き肉を摘まみ上げると、アトリがなにか言う前に部屋を出て行ってしまったからだ。マックスはその後に続く。

 アトリは再び、部屋に一人きりになる。


「……わたし、傲慢どころか駄々っ子もいいところじゃないですか。……当たり前すぎることへの分別も、全くつかなくなっちゃっていて……」


 思考と感情と理性は、既に元通り――というより、叩き治されている。

 考えるより前に、身体が動いた。

 ベッド脇のテーブルの上に、それは置かれている。

 口をつけられぬまますっかり冷えてしまった豆とベーコンのトマトスープ。それと、パン。

 スプーンに手を伸ばす。思い切って、口にする。

 口内に、冷え切ってしまっているけれど素朴で優しい豆の味、ベーコンの脂と塩気、トマトの心地よい酸っぱさが、口一杯に広がる。

 その後はもう、止まらなかった。飢えたコヨーテみたくがつがつとスープを食べる、パンを頬張る。


「アトリは、アトリだろうが。アトリでしかねぇはずだろうが。理由も分らず【異世界】から新大陸フロンティアにやって来ちまって、どうしようもねぇぐらいビビり屋で……ンでもって、無法者アウトローであるどころか【不死者】になんぞに堕ちぶれちまっているっつーこの俺とどういうわけか出会っちまった……アトリでしかありえねえはずだろうが、違うか?」


 さっきの本音は、断固否定するべきだ。ブッチの言葉を思い出す。

 あの時のあの場を取り繕うための咄嗟の虚言うそであったなんて、到底思えない。

 それぐらいのわきまえ、アトリにだってある。


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