第5章 アトリ 繋がれざる少女

Chapter 1

 

 アトリは疲れ果て、昏々と眠り続けている。

 銃弾を受けたっていうのもある。だけどそれ以上に、ブッチを失ってしまったというショックの方が大きい。

 窓の外から、光が差し込んでくる。赤い光、荒野の果ての地平線へ沈む夕陽。

 ふと、アトリは目を開く。

 なんとも言いようのない漠然とした不安が、襲ってくる。夜更けに眼が覚めて、真っ暗闇の中にただ一人だけ取り残されてしまったような。

 けれどその時、温かい気配を感じ取る。

 薄暗い部屋の片隅に、【あの人】の姿が一瞬見えた。

 夕陽が沈みきる寸前のひときわ鮮烈な赤が、窓の外からアトリを照らす。


 意識が途切れる。

 そのまま、過去へ逆行した。

 












 纏わり付く熱気と砂塵。

 適当に積み上げられた煉瓦の隙間から、風が流れ込んでくる。

 窮地に追い込まれた、手負いの二人の無法者アウトロー

 手持ちの弾薬は残り僅か。

 銃創を負い、二人は既に手負いの獣の状態。


 そんな二人の様を、幼いアトリははらはらしながら見ている。

 テレビが映す映画を、その頃のアトリがまだその題名も制作した国も知らない映画を。

 なんだか怖くて、隣で一緒に見ていた【あの人】の服の裾をぎゅっと握った。

 そんなアトリをあやすように、【あの人】は頭を優しく撫でてくれる。

 そして、映画は遂にクライマックスを迎える。

 壁の向こうを抜けた二人は、そのまま止めてしまう。

 文字通り止めてしまうのだ、自分たちが生きていた時間を。

 無数の銃声が、待ち構えていた軍隊が構えていたライフルから放たれたものが、二人の最期を示していた。

 二人は自分たちが生き抜いた最後の瞬間のまま、セピア色の画面の中で止まり続ける。

 永遠に、永遠に――













 発端は、お母さんが死んだことだった。

 買い物の帰りに事故に遭って、そのまま搬送先の病院で――と、アトリは周りの大人たちから聞かされた。

 今思えば、いっそ馬鹿なぐらい落ち着いていたと思う。あの頃はまだ幼すぎて――といっても三歳か四歳ぐらいだけど、「お母さんが死んだ」ということをどこか他人事みたいに考えていたのだから。実感が、あんまりにもなさすぎて。

 お線香のにおいが辛うじて届く部屋の隅っこで、幼いアトリはぼぅっとしていた。

 時間の流れが事実を、「お母さんが死んだ」ということを、アトリの中で確かなものさせていく。


「けど、どうするのよ……あの子。まだ、あんなに小さいのに」

「身寄りがいないんだから、施設に入れるしかないだろう?」

「それはあんまりにも可哀想よ」

「じゃあ、どうしろっていうんだ? 犬や猫じゃないんだぞ。駄目だったら捨てるわけにもいかないし」

「大体あの子……父親がいないらしいじゃないか」

「その父親だって、どこの誰かも分からないっていうし」


 周りの大人たちの声も、どこか遠い。

 アトリには、お母さんしかいない。でも、他の人には普通ではないことらしかった。

 お父さんが、どこの誰か分からないことさえも。

 確か、幼稚園での父兄参観の日の少し前のことだったと思う。

「みんなのお父さんの絵をかきましょう」って言われて、アトリは先生に聞いた。


「……せんせい、おとうさんってなんですか?」


 目に見えて引き攣った先生の顔を、アトリは未だに忘れられない。


「迷惑ばっかかけやがって、あの淫売の商売女。あちこちで男を作って遊び歩いているから、こんなことになるんだ」


 意味は分からなかったけれど、アトリはその一言で気分が悪くなった。

 トイレに行くふりをして、部屋を出る。そのまま家に帰ろうとした。

 でも、廊下を歩いている時に気付く。帰ろうにも、道が分からない。バスや電車に乗るためのお金を持っていない。

 それに、家に帰ってももう、お母さんはいない。

 気付けば、アトリは葬儀場の玄関ホールを出てしまっていた。

 冬の冷えた風がびゅぅっと強く吹いて、幼いアトリの小さな身体を一気に冷やす。ずぶぬれになった小鳥みたくか弱い悲鳴を上げ、アトリは思わずしゃがみ込んだ。

 ぶるぶると小刻みに震える自分の身体を自分で、ぎゅっと抱きしめる。

 たとえようのない恐さ、どうしようもない怖さに、アトリは押し潰され――


「よお」


 ――ることはなかった。

 気のせいか、恐さと怖さが一気に力を失ってしまったようだった。アトリを今にも押し潰そうとしていたそれらを払ってくれたのは、真上から振ってきた声だった。

 目が、合う。アトリを見下ろすようにして立つ、男の人と。

 誰だろう? こんな人、アトリは知らないはず、なのだけれど。

 びっくりするアトリに、なにかが放られた。ちょっと重くてしっとりとした質感のものを頭からモロに被る形になって、「はぅあっ!?」と変な声を上げてしまう。


「それ、貸してやるから着ていな」


 間髪入れず、その男の人は言った。


「風邪ひくぞ」


 おっかなびっくり、放られたそれを引き剥がす。スーツ、だった。正しく言えば、そのジャケットなのだけれど。

 いや、そんなことより、この人は一体、何者なのだろうか?


「……えーっと、あなたは、だれなのです……か?」


 お礼を言うより先に、質問を投げかけていた。「誰」であるより前に、アトリにとっての「誰」なのかが、知りたかったからだ。

 なんて言うか、この男の人と、今日初めて会った気がしないのだ。


「カヤさんからなにも聞いていないのか?」

「……お母さんから?」

「ってことは、初めましてになるのかな、アトリ?」


 これが、アトリと【あの人】の出会いだった。













 それからアトリは、【あの人】と一緒に暮らし始めた。

 世間から無法者アウトローと呼ばれる、【あの人】と。

 そのお陰で、アトリは散々な目に遭った。とばっちりを受けた、と言うべきか。

 道を歩けば行く人たち誰かしらの冷たい視線や陰口を受け、学校では先生生徒問わずあからさまな敵意や侮蔑を向けられた。

 ゴシップが大好きな見知らぬおばさんたちや【あの人】のことを記事にしようとする週刊誌の記者に追いかけられたこともあったし、子供の保護を名目に活動しているという大人たちから、【あの人】に関してのありもしない悪いことを言いなさいって強要されたこともある。

 それを聞いて「可愛そうに」なんて言う人たちもいたけれど、ただそれだけだった。火の粉を被らない安全圏から手を出すことなく、高みの見物と洒落こんでいたし。

 そんな中で、アトリは常に独りぼっちだった。

 ずたずたにされた上履きや壊されたおもちゃをどこに隠そうか、よく悩んだ。

【あの人】が世間にとってどんな存在か、アトリは詳しく知らない。だけど、アトリにとって【あの人】は無法者アウトローじゃなかった。

 慣れない手つきでハンバーグやカレーを作ってくれたり、怖い夢を見て泣けばまた眠れるまで側にいてくれたり、絵本を読んでくれたり、熱を出して寝込んだら不眠不休で看病してくれたり――【あの人】は一応、人の親だったのだから。

 でもそれは、アトリのみに限定されることだった。

【あの人】は、その道では有名な極悪非道の無法者アウトローだったのだから。

 後々になって知ったのだけど、弁護士であったのにも関わらず。

 勝訴のためなら問答無用、悪魔ばりに嘘八百が大好き、懐は賄賂で常にぬくぬく、顧客は社会的に【悪】と呼ばれる側の重鎮、自衛を理由に銃を不法所持。

 例えるなら、禁酒法時代のアメリカの弁護士そのものだ。アル・カポネみたいな大物マフィアを裁判で勝訴させ続けた、【悪徳】弁護士。

 未だに分からないのは、何故、【あの人】がそんな真似をしていたのかだ。普通に弁護士として、やっていけなかったのだろうか?

【あの人】はそういう立場を決して崩さなかった。

 歪んだ信念を、無法者アウトローの正義として貫いていた。

 それもこれも、法に基づく正義をとことん嫌っていたからだ。

 アトリには、それが怒りに見えた。

 大切で何事にも何者にも代えられない存在をそれらに全部理不尽に奪われ、失わされたことへの。













 酷いありさまだった。

 まだ昼間だというのに、カマロンの町の活気はそれに反して黄昏時だ。

 日が暮れても尚続く喧騒は、ぱったり止んでしまっている。

 出歩く住人の姿は、まばらだ。誰も彼も、どうしようもない不安感を色濃く纏っている。

 酔客の騒ぎ声は皆無だ。どこの酒場サルーンのスイングドアにも、【休業中】の札がぶら下がっている。

 その代わり、陰気な音がやたらと目立った。棺桶職人の作業音と鼻歌が。

 病に冒され衰弱しつつある通りを、エメさんは歩く。抱えた大きな紙袋、入り用なものを詰め込んだそれを抱えて。

 その途中で、馬車とすれ違う。一家族と、家財道具を中心とした荷をたっぷり載せた馬車である。馬車を牽く馬たちは、辛そうだった。

 家族総出で、どこかへ逃げるつもりだろう。逃げた先でどうにかなるとは思えないが。

 だが、得体の知れない殺人鬼がまだ潜んでいるかもしれない町に留まることに比べれば、まだ希望が見出せるのだろう。

 そんなことを思いながら、エメさんは帰り着く。旦那のケサダと共に無法者アウトローから足を洗い、堅気となって始めた酒場サルーンへと。

 ふと見れば、軒先に一人うずくまっている。

 この町へやって来て、唯一生き残った【ピンカートン探偵社】の男だ。あれから四日経つが、未だにこうしている。

 絶望する気持ちは分からんでもないがねと、エメさんは胸中で呟く。なにせ、男の周りにいたのは全員死んだのだから。

 俄かには信じがたい話だ。あのチャーリー・シリンゴが死んだなんて。


「おかえり、どうだった?」

「ただいま、ひどいもんだよ」


 休業の札を下げていたが、ケサダは働いていた。

 丁寧に拭かれたテーブルは表面をつやつやさせ、噛み煙草の後始末用の痰壺はぴかぴかに、煤が払われたオイルランプの火屋ほやはガラス本来の透明度を取り戻している。

 見慣れない工具が床に散らばっていると思ったら、普段納屋の奥に眠らせているオルガンの修理具だった。


「こんな時じゃなきゃ、直せんよ」

「そうかい。で、どうなんだい?」

「大分ガタがきちまっているみたいでね。もう駄目かもしれないよ」


 手の荷物をその辺に置き、エメさんは太い腕を組む。


「アンタね、わたしがそんなことを聞いてるとお思いかい?」

「っと、いけねぇや! シチューが焦げちまう」


 ケサダは修理具を放り出し、奥に行こうとする。

 その際、ちょいちょいと手招きを受けたのを、エメさんは見逃さなかった。






「財産があって、それを積める馬車と牽かせる家畜を持っている連中は、とっとと町からおさらばしているよ。それ以外は、家にしっかり鍵をかけて引き籠っちまっている。店はどこもやってられなくて閉店さ、棺桶職人を除いてね」

「保安官は?」

「真っ先に殺られちまってたよ。保安官補の若造と牢番のじいさんもね。ありったけの銃弾と銃を奪うついでにね」

「自警団は?」

「あんなの、いざとなりゃあタマ無し野郎の集まりさ」

「それでも一人か二人ぐらいマトモなのはいるだろう?」

「みんな牧場の方に行っちまったよ。あのクソ牧場主、業突く張りのくせに、いざって時の金と人の使い方だけは上手いんだから」

「そうかい……それより、【ピンカートン探偵者】の探偵は、まだいるのかい?」

「ああ、軒先にいたよ。酢漬けのキュウリみたく、ふにゃちんになっちまっているけどね」


 用心のため、二人は店の奥の片隅でひそひそ声で話す。


「頃合いを見て殺っちまうかい?」

「いいや、止めておこう」

「アンタね、大口を叩いておいて……」

「不必要な殺しは、【ワイルドバンチ強盗団】の流儀と不文律に反する」

「なにを今更……」


 エメさんは不愉快そうに言葉を吐き捨てる。


「傷ついた女の子を、それも堅気の娘さんを放ってどっかに雲隠れしかくれて、もう帰ってこないような野郎に義理立てする必要なんか、あるもんかい」

「そうじゃねぇよ」

 返すケサダは、「これを見な」と、あるものを差し出す。

 スープ皿だった。パンくずが縁に、底にはスープと中身の具――豆とベーコンの破片が、申しわけなさそうに残ってへばりついている。

 これが、意味するのは――


「もしコトを起こすンなら、アタシゃ次から人殺しの手でお嬢さんがお召し上がりになるモンを作らにゃならなくなる」

「……!!」

「さっき、やっと食べてくださったんだよ。荒療治がきいたせいかもしれんけれども」

「どういうことだい?」


 答える代わりに、ケサダは顎をしゃくって隅を示した。

 そこには、マックスがいた。羊肉の大きな塊を、一心不乱にがつがつがぶがぶやっている。


「敷物にしてやるって言ったが、あれは撤回だ! たんと食え、【英雄】!」


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