Chapter 3


 胸に、不快な痛み。

 アトリは作業の手を止め、胸元のお守りを握りしめた。癖どころか、今や性癖と化しつつある行為だ。

 こうすることで、なんとかやり過ごせている。アトリの胸に時折やって来ては膨らんでいく得体の知れないそれは、アトリの精神の柔らかい部分を少しずつ、確実に蝕んでいく。

 嘆息して、洗濯籠に手を伸ばす。その際、ストールがほどけて、地面に落ちた。サルーンのテーブルで寝入っていたアトリを見かねて、エメさんが毛布代わりにかけてくれたものだ。

 返そうとしたら「ここに滞在している間だけでいいから。付けていてください」と半ば強引に貸し与えられている。身体のラインを隠すためとはいえ、ボロ布を巻いているのを見かねてなんだろうけれど。

 ちなみに、エメさんっていうのは、カマロンの町に来てからアトリたちが厄介になっている酒場サルーンの主人の奥さんのことである。


「……いや、エメさんって、奥さんっていうより女傑ですよね」


 だってエメさん、すごくガタイがいいのだ。第一印象、ヘビー級の悪役プロレスラーだし。

 聞けば、エメさんは凄腕のカウガールなのだという。

 カウガールっていうのはカウボーイの女性版のことだ。

 西部劇はともかく、史実における西部開拓時代では、女性が男性と同じ力量を必要とする力仕事に就くのは珍しいことじゃなかったっていう。


「……ってか、酒場サルーンで働きながらそんな仕事をしているって、エメさん凄すぎ」


 そういえば、お礼を言うのを忘れていた。

 しかし、同時に漠然と思うこともある。どうして、ブッチのポンチョじゃなかったのだろう。

 だってもしそうだったら、ブッチが帰ってきてくれたってことになる。「帰ったぞ」っていうアピールを残してくれていったことになるじゃないか。


「……って、昼間からなにをたそがれているんですか、わたしは」


 ストールを拾い、土埃を払う。


「……大体、ブッチさんにだってプライベートがあるはずなんですよ。【不死者】云々の前に、ブッチさんだって一人の男性であり、一個人であるはずですし……だから、きっとわたしが立ち入っちゃいけない領域とかあるはずで」


 外ならぬアトリのために、ブッチは今、とても危ない橋を渡ってくれている最中のはず。


「……それにしても、ブッチさんは、何故、知りたがるのでしょうかね?」


【異世界】という、未知の領域に対する好奇心があるのは分かる。

 実際、ブッチは【異世界】について真面目に学んでいた。乾ききった砂が水をぐんぐん吸っていくかのよう、アトリが教えることを自分の知識としてモノにしていった。

 カタカナとひらがなも、ほぼ完璧にマスターしている。漢字だって【火】とか【月】みたいに簡単なものであれば書けるようになってきている。

 ちなみに、西部劇の設定にはあまり組み込まれていないけれど、西部開拓時代に活躍し、その名を馳せた無法者アウトローたちは、現代日本でいうところの物知りとかオタクとかで一括りに出来ないようなインテリだったっていう話がある。


「……【OK牧場の決闘】で有名になったドク・ホリディなんて、歯科医免許を持っていたらしいですし」


 そうであったのは、捕まった時に嘆願書や弁護士を呼ぶための手紙を書くためだったらしい。

 だけど、そういう不慮の事態に役に立つのだろうか? 【異世界】の知識なんて。

 疑うなとは言わない。でも、ブッチに対して不信感を募らせたままってのはどうなんだろう。

 でも、そう思える元凶について、アトリには心当たりがある。しかもそれは、この【異世界】においてアトリのみに限定される。

 その元凶の名は、ザ・サンダンス・キッド。自分たち二人を繋ぎ止める、唯一の楔であり、絆であり、切っ掛けである【存在】。

 だが、今は――

 干された真っ白なシーツたちが、風を受けてぱたぱたはためく。正直、鬱陶しかった。それを照らす太陽の光も、今のアトリには眩しすぎる。

 暗澹たる気分に浸っていたお陰だろう、植え込みの陰に潜んで様子を窺っていた、奴に気付けなかったのは。

 心身共に馬鹿でかい衝撃をかまされ、洗濯物を全部巻き込む形でぶっ転ぶまで。













 アラン・ピンカートンが専属弁護士のエドワード・ラッカーらと共に設立し、犯罪捜査、駅馬車・列車等の警備、強盗との銃撃戦、賞金がかかった名うての無法者アウトローの追跡・撲滅・捕縛までこなした。

 ブッチが知る限り、それがあらましである。【ピンカートン探偵社】、混沌と無法が渦巻く新大陸フロンティアに誕生した私立探偵を束ねる組織、犯罪者及び無法者アウトローとの武力交戦の手練れどもの。

 所属する探偵たちのほとんどは、武闘派だ。荒事慣れした無法者アウトローどもと互角に渡り合うのだから、当然なのだけど。

 その中において、チャーリー・シリンゴは最も有名な存在である。

 なにせ、最大にして最強の無法者アウトロー集団である【ワイルドバンチ強盗団】の構成員を徹底して追跡・捕縛していった――結局、捕まえるという念願が果たせなかったとはいえ、首魁ボスであるブッチをボリビアの地にまで追いやったのだから。

 はっきり言って、相当なやり手である。戦闘能力、射撃技巧、犯罪に関する予備知識、情報収集、話術、スパイ活動、囮捜査、尾行・追跡のテクニック――そのどれにおいても。

 それが誇張ではないことを、ブッチは知っている。骨身に染みるどころか、骨髄がシチューになるぐらい。

 とにかく、ブッチにとってシリンゴはそんな存在だ。対峙すれば、恐れを抱かざるをえない。

 だが、真に恐れるべきなのは――


「おや、どうしました? お喋りが止まりましたね。先程までの威勢のよさは、舌にグリースを塗ったような饒舌は、一体どこへ?」


 うかつに動けば絡め取られる、動かなければなんらかの形で動かされて絡め取られる。どちらにしろ、気付けば持っていた策を全て失っていて、結末は破滅しか残されていない。

 シリンゴは、プロだ。そういう搦め手を使うことにかけて。

 それは、無駄に知恵の回る無法者アウトローへの対応・対処の絶好の切り札。


「今一度聞きます。お前の他に、一体誰があの場にいたんです?」

「冗談、きついってばね、このクソが……!」


 それでも、なんとか悪態を吐きつける。

 もっとも、先程までの気迫は、擦り消える寸前だ。


「大体、お前はなんの根拠があってンなことを」

「ほぉう……根拠などというものがあるのですか? 僕の単なる推論に?」

「てめぇ……!」






 しかし、その一方で。

 一体、これはどういうことなのだ? と、シリンゴは胸中で問うた。

 何故ならシリンゴは、この時はまだ、なにも知らなかったのだから。常に正しいものであるはずのもの――史実と記録が語ることこそが真実であるはずなのだと。

 大衆が望む夢物語や【英雄】が創造すつくる伝説――虚構じじつなど、所詮ありえないはずなのだと。

 少なくとも、この時はまだ、そう思っていた。

 そもそも、シリンゴは誘導尋問を行ったつもりなどない。

 単なるハッタリだった。「お前のことだから、共犯者もしくは逃亡補助をやってくれた相手がいたのだろう」という。

 偶然とはいえ、その一言は結果としてブッチに深い傷を穿つこととなった。

 シリンゴは喜ぶべきだろう。なにせ、長年追った宿命の大敵が、生きて目の前で追い詰められている。

 機を逃さず、軛にかけるべきだったのだ。

 けれども、シリンゴはそれが出来なかった。【ピンカートン探偵社】が掲げる絶対の法と掟、探偵としての義務、その全てを持ってしても。

 それもこれも、何から何までこんがらがってぼやけてしまってきているためだ。


「答えろ!」


 シリンゴは、ブッチに言葉を叩きつける。

 どこまでが現実で、どこまでが事実で、どこまでが現実から異なるのか――どこまでが虚構じじつなのか。

 その「どこまでが」という境界線が明確な形にならないから、断定することが出来ない。

 あやふやすぎるのだ。ブッチを取り巻くこと、その全てが。

 だからこそ、シリンゴ思わざるをえないのだ。


「お前は、本当は、【誰か】と共にいたんじゃないか!?」


 冗談を飛ばし、軽口を叩き合い、喜怒哀楽を共にし合えるような、そんな誰かと。


「お前は、本当は、【誰か】と共に逝ったんじゃないか!?」


 背を預け合い、全てを共有し合う、そんな【誰か】と。


「お前は、本当は、【誰か】と共に笑って最期を遂げたんじゃないのか!?」


 死すらも互いを分かつことなんて出来ないと信じ合う、そんな【誰か】と。


「お前は本当に……本当に、一人だったのか!?」


 そもそも、その【誰か】とは、ブッチ・キャシディにとって、一体何なのだ?

 シリンゴが知る限り、ブッチの周りには常に誰かしらいた。仲間、部下、協力者、友人、女、敵――その【誰か】だって、いたような気がしなくもないのだ。

 シリンゴは、その【誰か】をよく知っているはずなのだ。

 なのに、どういうわけか分からない。分からないということが、そもそも分からない。


「答えろっ! ブッチ・キャシディ!!」


 どうしようもない歯がゆさ、消化出来ぬことへの焦燥から、シリンゴはブッチの胸倉をつかみ上げる。


「お前は手に入れたもの、その全てを、ボリビアへ向かう最中に失ったはずじゃなかったのか!? 【ワイルドバンチ強盗団】も、金も栄華も、仲間も部下も女も!」


 勿論、その【誰か】ですらも。


「お前は全部、失ったはずだ! 全部……全部! 全部!!」


 シリンゴは揺さぶり、決定打をかけようとした。これさえ打ち崩すことができれば、今度こそ本当にブッチを追い詰めることができるはず。

 だが――


「言いてぇことは、それだけか? チャーリー・シリンゴ」


 青鋼色スチールブルーの目を鋭く光らせ、ブッチは見据えている。シリンゴを――そして、その背後を。

 同時に、すぅっ、と首筋を冷たいものが伝い落ちていくのをシリンゴは感じていた。


「ならば、お望み通りお答えして差し上げようか、チャーリー・シリンゴ。ただし、こちらが則るのは、あくまでも無法者アウトローの流儀としてのものだ……野郎ども!」


 シリンゴに対し、ブッチは間髪入れず、言葉を下す。


「これがこっちの答えだ……撃鉄を起こせ! 遠慮なくブッ放せ!」


 それは、文字通り宣戦布告。

 並外れた闘志と裂帛の威圧感が、真正面からシリンゴにぶっ叩きつけられる。


野郎どもバモサマタールぶっ殺せコンパネロス!」


 そして、銃声が轟く――






 ――ことは、なかった。


「なァんちゃッてなぁッ!」

「ガッ……!」


 シリンゴは、後頭部を強かに打ち付けた。衝撃で、視界が真っ赤に染まった。

 決して見くびっていたわけではない。だが、慢心は事実である。

 故に、シリンゴは間違えた。相手の口さえ開きさえすれば、手段はどうあれ真実を割らせることが出来たはず。

 ブッチが弱体した際、シリンゴはつべこべ詮索をぶつけることなく、捕縛すべきだったのだ。

 それに、よくよく考えれば、ブッチの行いはこけおどしでしかない。

 命令を下したからといって、誰がシリンゴを撃つというのだ? そもそも、ブッチ以外誰もいないのに。

 要は、ブッチのシリンゴに対する振る舞いは、演技だったってわけだ。

 故に、シリンゴは謀られた。


「きっ、さ……ま!」






 騙し討ちで捕らえたシリンゴを、ブッチはねめつけた。

 新大陸フロンティアに生きる全ての無法者アウトローの敵対者、忌々しき【ピンカートン探偵社】の一員、【ワイルドバンチ強盗団】を崩壊に追いやった存在、かけがえのない仲間たちを失わせた要因。

 仇そのものを、ブッチは押さえこんでいる。ありったけの銃弾を至近距離から浴びせてやることが出来る距離で。

 胸の底に、どす黒い熱が灯る。無意識のうち、手は腰の得物へと伸びていた。


 ――殺してしまえ!


 唐突に、脳内に声が響く。


 ――そうだ、殺せ! 殺せ! 殺せ!

 ――殺せ! 殺すべきだ!

 ―そいつは、敵だ! 我ら無法者の敵だ!

 ――報復を下せ! アウトローの誇りと自由を踏みにじる走狗ブタに!


 この声は、果たして誰のものだったのだろう?

 それは、死んでいった仲間たちのか? そうであるなら、ザ・サンダンス・キッドの声も聞こえていたかもしれない。


「キッ……」


 刹那、とった行いは、反射的なものだった。

 銃声!

 上がるのは、鉛の咆哮。

 シリンゴの上から飛び退いたブッチの嗅覚が、けた鉛のにおいを捉える。

「チィッ!」と、悪罵を吐き捨てるようにして鳴らされた舌打ちは、意味は違えど対峙し合う同士から同じくして発せられたもの。


 銃声!


 バックステップで距離をとったブッチの耳元すれすれを、銃弾が死の速度で通り過ぎていく。

 立ち上がり、体勢を整えたシリンゴが手にした得物から放たれたものが。


「デリンジャーで、二丁拳銃だとっ!?」


 シリンゴが両手に構えるのは、非常に小さな銃だった。手の平どころか、衣服のポケットに収まるぐらい。

 デリンジャーと呼ばれる銃だ。護身やバックアップ用の、小型の銃である。

 だが、デリンジャーが武器としての本領を遺憾なく発揮するのは――

「今時の【ピンカートン探偵社】は、殺し屋のやり口までスキルにしてんのかよっ!?」


 寧ろ、秘匿性・携帯性に優れるこの武器が、殺し屋御用達の凶器でない方がおかしい。実際、デリンジャーは暗器としてこの上なく高い評価を得ている。

 それはさて置き、恐るべきはシリンゴだ。不意打ちで捕らわれるも、袖に隠し持っていたデリンジャーを抜いて、反撃を仕掛けてきやがった。

 そして、反撃から攻撃へと、行動を移してきていて。

 銃声!

 ブッチは身体を捻り、避け際に得物を抜き、反撃しようとする。

 それよりも早くシリンゴは両手のデリンジャーを捨て、S&Wモデル2・アーミーを抜く。


 銃声!


 がしゃん! と音を立てて、コルトM1851が床に落ちる。


「チェックメイトです」

「ったく、相変わらずいい腕をお持ちなことで」


 淡々と告げるシリンゴに対し、ブッチは軋る声で吐き捨てた。

 右手の感覚がない。着弾の余波のおかげだ。手ではなく、銃把を正確に狙って撃ってくれやがったおかげだ。

 相手の手の銃のみを撃って弾き飛ばす。はっきり言って、並の射撃技巧の持ち主が出来る真似じゃない。


「探偵なんかにゃ勿体ねぇ腕よ。近頃流行りの巡業娯楽団体ワイルド・ウエスト・ショーに転職すりゃあ、花形になれるんじゃねぇ?」

「引退後の勤め先の候補にしていますよ。なれば、刑務所への慰問でお前の顔を定期的に拝みに行く機会が得られるでしょうし」


 なんとなく、思う。シリンゴは、【異世界】でいうところの【ヤンデレ】じゃなかろうか?


「さぁ、どうします?」


 嬲るような台詞を前に、思考を急速回転させる。

 頭は不思議と冴えていた。こんな状況で、【異世界】の知識を応用出来るんだから。

 とはいえ、窮地だ。希望が限りなく皆無の。歴然としすぎた射撃技巧を見せつけられた上で、追い詰められているのだから。

 けれども、今のブッチには【不死者】であるというアドバンテージがある。


「覚悟は決まりましたか?」

「ああ、決まったってばね」


 ブッチは、肩を竦める。


「負けたよ。だから、潔くご退場してやろうって思ってね」

「なに?」


 もう一方の得物を抜く。あまりにもあっさりしすぎた所作だった。だから、シリンゴは引き金を引けなかった。


「お前、なにを、言って……」

「察しろよ」


 S&Wモデル3スコフィールドの留め金を外す。銃身が下に折れ曲がり、露出した弾倉から薬莢が排出され、床に落ちて散らばる。

 そして、袖口に隠していた、こういう時のためのとっておきを込めた。

 くるりと回転させ、銃把ではなく、銃身を握る。


「まさか……!」


 そうして、得物を構える。銃身が上を向くよう、銃口が丁度顎に直面するように。


「馬鹿、よせ! 止めろっ!!」

「あばよ!」


 銃声が轟く。今度は、本物の。 

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