Chapter 4


 当然の事なのだけど、アトリはこの【異世界】のことを知らなかった。

 けれど、逆に言えばこの【異世界】はアトリのことを知らないのだ。

 顔を合わせるだけのクラスメイトも、いつも睨んでくる生活指導の先生も、お菓子を買うのに利用するコンビニの店員も、噂好きの近所のおばさんも――なにより、【あの人】のことを好き勝手に悪く言ったり余計な詮索をしてきたりする嫌な人たちが存在していない世界。

 だから、アトリは考え方を改めてみることにした。






 水の入った桶に、タオルを浸す。それを硬く絞ると、目やにを優しく拭うようにしてクラリスの顔を拭いていった。その後、付着したゴミを取り除くため、全身をブラッシングしていく。たてがみと尻尾の毛も忘れずに、しっかりと。

 毛並みに沿って行っていくと、クラリスは耳を立てて口をもぐもぐ動かす。


「……よしよし、かゆいところはないですか?」


 アトリが問いかけると、クラリスなりの返事なのだろう。「ブフ、ブフフ」と鼻を鳴らす。

 隣でお手入れを待っているクラレントも、耳を立てて口をもぐもぐ動かしていた。


「……はいはい、ちょっと待ってくださいよ」


 世話をするうちにすっかり仲良くなったクラリスとクラレントの二頭から、馬なりの嬉しいという気持ちを見せられ、アトリは和む。

 広大な陸面積を誇るという新大陸フロンティアでは、誰もが当たり前のように馬に乗る。歩く以外で、もっとも普遍的な移動手段アシだからだ。それは、アトリが元いた世界において、誰もが自転車や自動車に乗るのと同じ感覚である。

 ちなみに、クラリスは栗毛の雌馬で、クラレントは青鹿毛の雄馬だ。馬車を牽くこの二頭は、ブッチ曰く無法者のための血統の駿馬サラブレッドなのだとか。

 クラリスの世話を終えると、今度はクラレントの世話に取り掛かる。クラリス同様、丁寧にブラッシングをし、桶の水で丁寧に洗う。

 そうして手入れを終えると、アトリはそれまで脇に追いやっていた別の桶を手に取る。

 しばし、中身を眺め、嘆息した。


「……これ、少しくらいいただいてもバチは当たらないでしょうけれど。……でもなぁ」


 中身――切った人参を、悲哀の目で眺める。しかし、「早く頂戴!」と目を輝かせて見つめてくるクラリスとクラレントは、そんなのどうでもいいらしい。


「……人参は、この世界じゃお馬さんのおやつ扱いなんですよね。……栄養たっぷりなのに、おいしいのに、なんでみんな食べないんですか。……嗚呼、キャロットケーキが懐かしい……」






 うまやを出て酒場サルーンへ行くと、既にブッチはテーブルを確保して待っていた。他の客やテーブルの間を縫い、床に置かれる噛み煙草用の痰壺を避けながら向かう。


「可愛いモンだろ、うちのクラリスとクラレントは」

「……はい」


 席につきながら、言葉を返す。卓上には既に、料理が並んでいた。

 この日のメニューは、プレッツェル、コールドミートの薄切り、セロリ、胡椒ソーセージ。

 結構量があるけれど、食べ残しや食べすぎによる料金の心配はない。なんとこれら全て、無料で食べることが出来る。食べ放題の上、しかも時間無制限で。

 酒場サルーンが行っているサービスの一つで、フリーランチという。食事というより、つまみ代わりの軽食が、無料提供されるというものだ。

 で、肝心の味なのだが。

 コールドミートを一枚摘まんで、口に放り込む。


「……しょっぱっ!」


 フリーランチは基本的に、かなりしょっぱく味付けられている。とにかく食べさせ、口の中をしょっぱくした客に酒を一杯でも多く飲んでもらおうという、酒場サルーン側の作戦だ。ただし、酒は無料ではない。一杯あたり、それなりのお値段はする。


「……経済効果が成立しているっていうか。……無料より高いものはないっていうか」

「堅苦しいこと言ってねぇで、アトリも飲めよ。嫌な気分が吹っ飛ばせるぜって、ほらほら」


 鼻腔をアルコールの刺激臭が刺し貫いてくる琥珀の液体が注がれたグラスがさり気なく差し出されるけれど、手を振って断る。


「……わたしはまだ、お酒を飲むことが許されていない歳なので」


 溜息と共にアトリは言葉を吐き出す。無意識のうち、その手は胸元のお守りに触れていた。


「……こっちの世界に来てしまってから、結構経っています。……なのに、手がかりは見つからないどころか、見つかる兆しすらありません」

「来ることが出来たんだから、戻れるんじゃねぇの? 普通に考えりゃあよ」

「……まあ、そうなんでしょうけれど」

「ただ、今は、その手段が見つかっていねぇってだけでな」

「……大体、探し求めようがないんですよ」


【異世界】には、グーグル先生やWikiみたいな検索エンジンは存在していない。そもそも、インターネットが存在していないのだから、当たり前なのだけれども。

 ならば、文献を当たればいいと思われるだろう。


「……その発想って、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」になんですよね」


 言葉の使い方が正しいかどうかはともかく、文献が記されている媒体、書籍が存在していないのだ。

 いや、書籍そのものは【異世界】には存在している。ただ、その存在は遠い。

 なにせ、販売したり置いたりする専門の場所、本屋や図書館が身近なものとして存在していないからだ。

 新聞や小説だったら、雑貨屋の片隅に置いてある。けれども、ブッチが言うに「あれはただ面白いだけで、信憑性がまるっきりねぇもの」だそうだ。


「けどよ、お前さぁ」

「……分かってますよ。……そもそも、わたし……字、読めませんし」


 それ以前にアトリはこの【異世界】では文盲だ。なにせ、元いた世界でいうところの小学生低学年レベルの読み書きすら出来ないのだ。


「まあ、なんとかなるんじゃねぇ? 出来ねぇからって、死ぬわけじゃねぇだろうし」

「……まあ、死にませんけどね、でもですね」

「けどまぁ、しょうがねぇっちゃしょうがねぇだろうによ。大体、生き物ってモンは、なるモンになって生きるしかねぇってんだろう?」

「……むぅ」


 ブッチが【山月記】を引用したのを聞いて、アトリは強烈なカウンターパンチを食らった気分だった。


「けど、俺は嫌だけどな。勝手にならされちまったモンに、俺ぁ、甘んじたくなんてねぇよ。俺自身の矜持が許さねぇ、許したくもねぇ――それに」

「……それに?」

「俺ぁ、強盗だ」


 ブッチは、凶悪に笑う。獣のような獰悪が浮かぶ面構えは、強盗そのものだ。


「俺ぁ、強盗だ。新大陸フロンティア全土を駆け抜けた【ワイルドバンチ強盗団】を率いる首魁ボスのブッチ・キャシディだ。数多の無法者アウトローどもを従え、それ以上の数多の官憲とその手先どもを翻弄させた大強盗のブッチ・キャシディだ。強盗の流儀と法に従い、欲しい獲物がありゃあ俺のモンにするべく奪う、欲しけりゃ必ず奪い頂く。奪うと決めたモンにゃ、奪うだけの価値がある。むしろ、奪うべき価値ってモンがある――だから」


 その声が、凄みを増す。

 鬼気と喜々を同時に吐き出す口調は、強盗そのもの。


「俺の矜持が許さねぇんだよ、法の加護も束縛も受けねぇはずの無法者アウトローの矜持が。だから、【不死者】なんてモンに堕ちぶれちまったあの時、俺は報復することを決めた。この無法者アウトローブッチ・キャシディから、あろうことか唯一無二の相棒の【存在】ザ・サンダンス・キッドを奪いやがったなにかに――人間だか神だか悪魔だか精霊マニトゥだかなにか知らねぇが」


 だけど、言葉が続いたのは、ここまでだった。


「ぅおぷっ」

「……ブッチさん!?」


 察したアトリは、大慌てで近くにあった痰壺を引っ掴んでブッチに渡す。

 間一髪だった。受け取るのと同時に、ブッチの喉の堤防が決壊する。


「……あー、もー」


 げろげろをやっているブッチを、アトリは呆れて見る。

 もし、日本の居酒屋でこういう沙汰をやらかせば、大惨事だろう。他の客から罵声が飛んでくるだろうし、店員が雑巾とバケツを持ってすっ飛んでくるに違いない。

 しかし、周囲の客たちは見向きもしない。どうやら、無関心を決め込むつもりらしい。逆に、興味を持たれたらそれはそれで困るのだけど。


「……ブッチさん、大丈夫ですか?」

「ぉぅえっつぷ!」

「……別に無理して返事しなくていいですから。……ってか、飲むペース早いですよ」

「いいっていいって、別に死ぬわけじゃねぇし、ってか死なねぇし、俺ってば【不死者】だし」

「……そういう問題じゃなくてですね」


 正直、ポール・ニューマンが草葉の陰で泣きそうな光景である。

 げろげろを終えてテーブルに戻ったブッチを、アトリは複雑な表情で見る。

 無法者アウトローの伝説に相応しい弁舌を振るったと思えば、一転しておっさん臭さを全開にする――これが、世間一般で言うところの「残念な子」ってやつなんだろうか? ブッチの場合は歳を考えれば「残念な子」じゃなくて「残念なおっさん」と言うべきなのだろうけれど。

 

「……問題にすべきは、今後のわたしたちの身の振り方ですよ。……情報をどうにかゲットしないと!」

「確かにそうさなぁ。けど、手がかりに繋がるかもしれねぇ情報を得る方法は皆無じゃねぇ」

「……本当ですかっ!? ……となると、やっぱ、その道における情報網とかに頼るんですか!? ……無法者アウトローによる無法者アウトローのためのネットワークみたいなものに!? ……それとも、凄腕の情報屋を頼るとか!?」

「バカ、声がでけぇよ!」


 諫められ、アトリは肩を落とした。


「……す、すみません、つい……」

「気持ちが分からねぇわけじゃねぇが、自重してくれや。あることにはあるんだけどよ、でも」

「……でも?」

「存在しているからといって、稼働しているかどうかは分からねぇぜ。なにせ、管理してた奴らが揃って死んじまってるし」


 アトリが知る限りの話、【ワイルドバンチ強盗団】の組織としての機動力はかなり高いものだったという。

 そうであったのは、信頼できる数多くの協力者から弾薬や食料といった必需品、逃走に使用するための馬や隠れ家、アリバイや情報を豊富に得ることが出来ていたからだとか。


「……でも、稼働していないからって、失われてしまっているわけじゃないんですよね?」

「まぁな、連中にガサ入れされたって話は聞いてねぇし」

「……連中?」

「スローガンは、『我々は決して眠らないWe Never Sleep』。資本家の走狗イヌ、我ら無法者アウトローの不倶戴天の大敵、って言えば分かるか?」


 アトリは、思わず息を飲む。


「……まさかっ、【ピンカートン探偵社】!?」

「ご名答ッ!」


 ブッチが挙げたそれは、私立探偵の基礎の代名詞。

 アトリが元いた世界においては、西部開拓時代に創設された、アメリカ最古の探偵社。後のアメリカの警察機関の一つとなる連邦捜査局Federal Bureau Investigation、所謂FBIの基礎を作ることとなる組織。

 ちなみに、アトリが知る西部劇の世界では皆が満場一致で認める嫌われ役だ。

 だって、本来であれば悪であるはずの無法者アウトローより唾棄すべき存在として描かれてばかりいるし。


「最盛期……アラン・ピンカートンが健在だった頃はマジでやばくてよ、噂じゃ、連邦正規軍フェデラル・フォースの将兵を上回る数の探偵を抱えてたっつーしさ」


 それぐらいいたって別におかしくないと思う。

 史実における【ピンカートン探偵社】の探偵の数は、最盛期にはアメリカ陸軍の将兵の数を上回っていたというし。

 そう言うブッチの言葉には並々ならぬ憤懣が内包されている。

 分からないわけじゃないんですけど、とアトリは胸中で呟く。ブッチはボリビアの地で死んだことになっているはずである。

 一応、生存説は主張されているけれど、だからといって【不死者】という存在に成り果てて生き延びているなんて流石に誰も思いもしないだろう。だから、もしそれがバレたら、色々大変なことになりかねないのだ。


「……実はわたし、とんでもない領域に踏み込んでいたりします?」












 くどいようだけれども、この【異世界】は西部劇、十九世紀アメリカの西部開拓時代を模した世界観に近いものである。

 そんな【異世界】での生活は、アトリが思っていたよりずっと楽しいものだった。食事はおいしかったし、変な病気にかからなかったし、治安だって想像していたよりずっといい。

 クラリスとクラレントとはもうすっかり仲良しだし、アルファベットの羅列からものの意味を読みとれるようになってきたし、雑貨屋程度の場所だったら一人で買い物にも行ける。

 それになにより、ブッチが用心棒兼ガイドとして傍にいてくれる。

 タチが悪そうな輩に絡まれそうになったら庇われるアトリの方が怖気づくくらい豪快な啖呵を切って護ってくれて、一番の話し相手になってくれて、分からないことがあれば教えてくれた。

 そんなこんなで、考え方が随分柔軟になった気がする。銃声を聞いても、最初の頃よりあまり動じなくなってきたし。

 普通、銃声を聞くとなれば、余程の事態に直面しているってことになるだろう。銃刀法なんていう法律が定まっている日本では。

 しかし、ここは【異世界】だ。日本に日本なりの法律や風俗や習慣があるように、【異世界】には【異世界】なりの法律や風俗や習慣がある。

 西部劇では、酒場のランプを吹き飛ばしたり、気に入らない相手を殺したり、敵対関係にある同士で撃ち合いを繰り広げたりと、銃撃のシーンはお約束である。だけど、この【異世界】ではそんなこと、まずなかった。

 保安官や無法者アウトローはともかく、真っ当に市井に生きる人であれば、銃は武器じゃなかった。釘や杭を打つためのハンマーの代用品であり、害獣であるコヨーテや熊を威嚇して追い払うものであり、有事を知らせるための信号弾であり、病気や怪我で動けなくなった家畜を安楽死させるものであり――と、なんていうか銃は単なる道具でしかなかった。

 そうして日々が流れていき、アトリは次第に【異世界】に馴染んでいく。

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