Chapter 3

 

 目を開く。粘土のように重い瞼を持ち上げるように、ゆっくりと。

 同時に、泥の中を泡が上がっていくように、意識が浮上していく。


「……どこですか、ここ?」


 目を覚ましたアトリの目に映ったのは、仄かなオレンジの光に照らされる一室。自分が全く知らない質素な内装の部屋。

 自宅ではない。自室ですらない。

 一体なにがどうなって――と、身体を起こそうとした瞬間、腹部に激痛が走る。

「痛っ!」と小さく悲鳴を上げて押さえ、そし思い出す。

 気付いたら見知らぬ場所を一人でさ迷い歩いていたこと。そこで一人の男と出会ったこと。会話の途中でいきなり豹変され、その際強烈な腹パンをくらわされたこと。

 身体を起こす。腹部にはまだ痛みが残っていたけれども、歯を食いしばってこらえる。

 と、ここでようやく気付く。アトリは、ベッドの上に横たえられていた。もっとも、敷かれているマットはぼろぼろな上に床板は硬く、寝心地は最悪だけれども。


「……変なこと、されて、ないですよね?」

「しねぇよ。ってか、俺がオネンネ中のガキにアレやナニみたいな真似なんざするかってんだ」


 反射的に、身体が強張る。恐る恐る、声の方を見た。アトリの足が向いている方に、立つ影。


「ようやくお目覚めか?」


 目が合った瞬間、腹パンをくらわされた時の恐怖が蘇った。

 強張った身体に震えが走り、思わず後ずさりする。

 だが当の本人――キッドは、アトリのそんな様を気にかけるつもりなどないらしかった。無遠慮に歩み寄り、あろうことかベッドの端に腰を下ろす。


「で、だな」

「…………」

「ンな、怯えんでもいいだろうが」

「…………」

「何もしねぇって」

「…………」

「あのなァ……」


 沈黙に耐えかねたのか、キッドは首の後ろをかく。


「まあ、その、なんつーか……腹、傷まねぇか?」

「……痛いです」

「あざは出来ていなかったぜ」

「……でも、痛いです」

「触った感じ、内臓も肋骨もイってなかったぜ」

「……見たんですか?」

「見たぞ」

「……で、触ったと」

「おう」

「……ッ!」

「オイオイ、変な勘違いするなよ。俺はただ、異常がねぇか診てやっただけだ」

「……そうですか……お気遣い、ありがとうございます」


 やらかしてくれやがったあなたが、どの面下げて何を言うんだという意を込めた一言を放つ。今のアトリが出来る唯一の仕返しだ。


「……ところで、キッドさん」


 きまり悪そうにするキッドが何か言う前に、アトリは切り出す。


「……お聞きしてもいいですか?」

「何だ?」

「……ここ、どこなんですか?」

「俺のアジト」


 一瞬、思考が止まった。え、アジト?


「……それって、どういう」

「俺の家みたいなモンだ」

「……えーっと、つまるところ……わたしは、キッドさんのお宅にお持ち帰りされたことになるわけですね?」

「アー、そういうことになるな。けど、安心しな。きちんと事(コト)が終わりゃ、ちゃんと帰してやるからよ」

「……コト? ……え、コトって」

「ンなの、決まってるだろうってんだ」

「……それって、どういう」


 心当たりがないわけじゃない。だって、さっき言っていたじゃないか――アレだのナニだの。

 一組の男女が一つ屋根の下の一つの部屋の一つのベッドの上でやることが七並べではないことぐらい、アトリは分かっている。


「どうした?」

「……あの、あのですね、キッドさん……もう少し、落ち着こうじゃありませんか」

「俺ぁ、至ってマジだぞ」

「……いや、真っ正直だと言われましても……キッドさんはそうであっても、わたしという立場についておもんばかってもらいたいと思うところなのですよ」

「関係ねぇよ」

「……そうおっしゃられますけど、しかしですよ」

「しかしもクソも関係ねぇだろうが」

「……あぅう」


 最早、泥沼。

 なにを言ったところで、全部裏目に出てしまうばかり。


「まあ、これ以上のあーだこーだの言い合いっこはお終いだ」

「……ふぇ?」

「率直に聞くぜ……お前、一体、なんだってんだ?」

「……いきなり、なんだってんだ? と言われましても」


 ざっくばらんに切り込まれ、アトリは戸惑いを隠せなかった。


「……なにって、普通の日本人の女の子ですよ、わたしは」

「いや、俺からすりゃあ全然普通じゃねぇんだって」

「……そんなの今更ですよ。……日本人は色んな意味で変って、外国じゃネタにされてますし」

「例えば?」

「……トイレが無駄にハイテクだとか。……生の魚を平気な顔をして食べる人種だとか。……京都は今でも侍に護られているとか」

「ほぼよく分からんが、全然普通じゃねぇってことだけは分かったよ。ってか、お前もそうなわけ?」

「……当たり前ですよ。……我が家のトイレは今年出た最新モデルですし、昨日の夕飯はマグロでしたし、修学旅行で行った京都で刀を持った人に出くわしませんでしたし」

「お前、マジでなんなの?」

「……だから、普通の日本人の女の子です」

「じゃあ、質問をちぃとばかり変えるけどよ……そもそも【ニホンジン】とは一体なんなんだ?」

「……はァ!?」


 反射的に上げてしまった声は、自分の声だと思えないぐらい裏返っていた。


「……いやいやいやいや、日本人は日本人ですよ。……日本の人間だから日本人で」

「ニホンの人間? 新大陸フロンティアに、ニホンとかいう地名なんざねぇはずだが?」


 一瞬、アトリは我が耳を疑う。今、キッドはなんて言った?


先住民エン・セラードスの部族名かって考えてみたりしたんだけどよ、アパッチやスーはいても、ニホンなんてのはいなかったはずだぜ」

「……いや、日本人っていうのは、日本という国に住む人たちのことで」

「じゃあ、新大陸フロンティアの人間じゃねぇってのか?」

「……多分、そうなるかと。……大体、日本は島国ですし」

「シマグニ?」

「……イギリスとかニュージーランドとかみたいなのって思っていただければ分かるかと」

「なんなのかさっぱり分からんわ。つーか、旧大陸ユーラフラシアにも無ぇはずだぞ、そんな名前の場所」

「……なに、それ」


 これが何か迂遠な冗談だと笑えるなら、どれだけよかっただろう。


「にわかにゃ信じられん話だな」


 そう言うキッドの双眸に見え隠れするのは、真偽を見定めんとする意志。

 たとえ理解することが叶わずとも、どうにか触れて確かめずにはいられないとでもいうようなもの。

 これだけなら聞こえはいい。だが、その実質は値踏みである。

 キッドが何か思う事があるから、アトリから実益が得られるかどうか考慮している最中と見て違いないような。

 問題は、その実益がいかなるものかどうかなのだけど。


「けど。ソレがもし本当なら……とは言うけどよ、勘違いすんな。別にお前のことを信じてるワケじゃねぇ。けど、アヘン中毒者の妄言にしちゃあ真に迫っていやがるし、かといって、山師の騙りにしちゃあ陳腐の極みだし」

「……人を犯罪者みたいに言うの、止めてもらえませんか!?」


 やんわりと、アトリは釘を刺す。

 いくらなんでも、この物言いにはかちんときた。自然と、口調に棘が生える。


「……じゃあ、言わせてもらいますけれど……キッドさんがお名乗りになられているお名前の由来になっている、ザ・サンダンス・キッドはどうなのですか?」

「ンだと!?」


 声を引きつらせるキッドに、アトリは言葉をぶつけていく。


「……あえて言わせてもらいますが、ザ・サンダンス・キッドって往年の傑作西部劇【明日に向って撃て!】で有名になった人物ですけど……史実を紐解いてみれば、英雄でも革命児でもない、単なる無法者アウトローその一じゃないですか」

「…………」

「……そもそも、無法者アウトローって今じゃ聞こえはいいですけれど、ザ・サンダンス・キッドが生きていたあの時代って、そういう呼称を受ける人間が溢れかえって賑わっていたそうですし」

「…………」

「……大体、無法者アウトローなんて、犯罪者の存在を都合よく美化して誉めそやす際の常套句ですよ」

「…………」

「……そういう概念を確固たるものにしたの、多分アメリカだと思うんですけど。……ほら、アメリカってそういうお国柄ですし」

「…………」

「……でも、わたしが思うに、ザ・サンダンス・キッドの存在を大きく引き立たせたのは、所属していた【ワイルドバンチ強盗団】で……後は、相棒のブッチ・キャシディと情婦のエセル・エッタ・プレイスの存在で……あとは、【ワイルドバンチ強盗団】の前身だったという【壁の穴ギャング団】の残党だったっていう一説とか」

「…………」

「……キッドさん?」


 気付けば、キッドは黙りこくっていた。心なしか、俯いた姿勢になっている。

 表情はわからない。ステットソンハットが、目元を隠す形になっているから。

 でも、よく見れば、その身体がふるふると小刻みに震えているような気がする。


「……え、えーっと……キッドさん?」


 これまでの自分の言動を振り返ってみる。今更だけど、軽はずみなもの多かったような気が――もしかしてこれは、やらかしてしまったっていうやつ? 何気なく発した言葉が、キッドの触れるべきではない箇所に触れてしまったという。


「お前ぇよォ、随分な言われ様じゃねぇかってんだ……なァ、キッド!」


 吐き出された声には、熱があった。

 それは、怒りじゃない。血の滴るような狂喜。

 まるで、今まで吐き続けてきた血反吐への報いが叶う悦びに、心身が打ち震えんばかりの。

 違和感を覚えた。だから、アトリは思い切る。


「……キッドさん、っていうか、あの、ちょっと」

「ァあ?」


 目が合う。だけど、思わず目を瞑りかける。目が合った瞬間、腹パンをくらわされた時のことを思い出したから。

 だけど、アトリは踏ん張った。

 逸らすことなく真っ直ぐ見据えて、言い放つ。


「……あなたは一体、誰、なんですか?」


 返事の代わりに、キッドは軽く目をみはる。


「そう言うってこたぁ、最初からばれてたってわけか」

「……はい?」

「はい? じゃねぇ。俺がザ・サンダンス・キッドじゃねぇってことに決まってんだろうがよ」

「……ええ、まぁ」

「それを踏まえた上で、俺が一体誰って聞くか?」


 気のせいだろうか。なんだか、非常に面倒な事になってしまっているみたいだ。

 とはいえ、こんなことになったのは、アトリが不注意でキッドに――否、ザ・サンダンス・キッドの名を騙っていた男になにかしらの誤解を与えてしまったせいなのだけど。


「けどよ、ザ・サンダンス・キッドの名を知っている……この俺を差し置いて、ザ・サンダンス・キッドの【存在】をちゃんと認識している……ってのは、一体、どういうことだってんだ?」


 やっぱり、なにかがおかしい。変なすれ違いが起こっている。

 まるで、お互いが知っている世情や常識が大きく異なってしまっているみたいだ。

 それこそ、生きている世界が――否、世界そのものがそもそも異なっているみたいに。


「ァー、もういい」


 混乱するアトリを余所に、自称ザ・サンダンス・キッドは立ち上がる。


「もういいってんだ。これ以上のウダウダは、もういい、面倒だってんだ。だから、直球で表したるよ」

「……え?」


 それはどういう? と聞こうとする前に、自称ザ・サンダンス・キッドは行動を起こしていた。おもむろに、羽織っていたポンチョを捲り上げる。

 露わになったのは、ベルトにぶら下がるもの。それが、腰の両側に二つ。

 否、正しくは二挺と言うべきだ――銃なのだから。

 何故って、それらを表す単位は「挺」なのだから――銃なのだから。

 だから、二つあるのなら二挺って言うべきなのだ――銃なのだから。

 そう、それらは――銃なのだから。


「……それ、本物ですか?」


 銃口が向けられる。


「……ご冗談、でしょう?」

「目ぇ食いしばっとけ」


 そして――銃声!






 射出された銃弾は、獲物に容赦なく喰らいつく。

 その衝撃と威力がいかに凄まじいものであったのか――獲物がどうなったのかを見れば、十分察することができよう。

 身体は、ワイヤーアクションさながら、空中へ。

 頭は、ミートソースの入った袋が爆発したかのよう。

 銃弾の猛烈な突撃を受け、獲物はそれぞれ、吹っ飛ぶ。

 非現実でしかない光景の観客にさせられたアトリは、呆然とするしかなかった。


「……ふぇ?」


 どべしゃっ!

 我に返ったのは、多分、人間一人分くらいの質量を持つものが水たまりへ落下したような音が、耳に飛び込んできてからで。


「……これは、どういうこと……なんでしょうか?」


 発した声は、絞め殺される鶏が上げる喘鳴みたいに引き攣って震えていた。

 さっきまで普通にではないかもしれないけれど喋っていた相手が銃を突然抜いたと思ったら、引き金を引いたのだ。躊躇いもなく、自分に向けて。

 アトリにではなく、自分の頭に向けて。だから、銃弾がアトリを撃ち抜くことはなかった。

 けれども、銃弾は相手の頭部を撃ち抜くどころか、ぐしゃぐしゃに――


「……っ、ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 アトリは、咽喉から叫び声を迸らせていた。

 人が死んだ、自殺した。

 自称ザ・サンダンス・キッド――いや、今考えたらただ単に、頭のおかしい人だったのかもしれないけれども。


「ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 後で思い返すと、この時アトリは完全にパニックに陥っていた。

 一人の人間が、こんなにも軽く自らの命を絶ってしまったのだ、それも、目の前で。


「ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 が、しかし――


「ァー、うるせぇ……」

「ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「お黙りやがれ、うるっせぇんだよ!」

「……だって、だってっ、人が、人がっ」

「人が、どうしたってんだ?」

「……死っ、死んっ、死んでっ」

「まあ、人間、銃弾で頭吹っ飛ばしゃあ、普通死ぬわな」

「……け、けど、けどっ」

「だけどよ、死ぬのはソイツが……人間であれば、の話だろ?」

「……人間であればって、そんな」


 アトリは、唐突に我に返る。


「……ちょっと待ってください」


 恐る恐る、部屋を見渡す。ここにいるのはアトリと、アトリの目の前の自殺死体だけのはず。

 だったらアトリは、誰と喋っている?


「ま、簡単に死ねりゃあ、楽なんだろうけどよ……でも」


 アトリの背筋を、冷たい汗が伝い落ちていく。


「生憎、今の俺は【不死者ふししゃ】だからな、なんの因果か!」


 きゅばっ!

 瞬間――炎が、噴き上がる。瞬く間に、アトリの視界を埋め尽くす。


「……わっわわわっ!?」


 波となって押し寄せてきたそれから、反射的に我が身を庇う。手をわたわたとばたつかせて振り払おうとするのだけれども――


「……熱く、ない?」


 触れるどころか、思い切り浴びたはずだった。なのに、肌は焼けただれていないし、服には焦げ跡一つついていない。それどころか、腰かけているベッドに着火した様子もない。

 炎は確かにこの場にあった。熱を持たず、物を燃やすこともない異彩いさいの炎が。


「……青い、炎?」













 その炎は、燐が発する光のような青仄白あおほのじろい色をしていた。

 それが部屋いっぱいに満ち溢れる様は、いっそ幻想的だ。恐怖を忘れて、ほけーっと見入ってしまうぐらい。

 そんな、おおよそ現実ではありえない光景の中――アトリは、銃を向けられている。

 古めかしい銃だ。アニメやラノベに出てくる、ワルサーP38とかSIGザウアーP230とかみたいな、モダンで角ばったものとは違うデザイン。

 見た目は無骨。だけど、作りはシャープで美しい。

 リボルバーだ。またの名を、回転式拳銃。

 西部劇でよく観る銃だ。クリント・イーストウッドが演じるアウトローがバンバン撃っているのでお馴染みのやつ。


「で、だ。くだらねぇ前置きはここまでだ。正直に答えてもらうぜ」


【再生】した際に新しく生え変わったアッシュブロンドの髪が、炎に照らされて黄金色こんじきに輝く。

 そんな銃を、アトリに向ける男がいる。

 この男の名は、ザ・サンダンス・キッド――じゃなくて、ブッチ・キャシディ。

 その二人の名前を、アトリはよく知っている。

 あの傑作西部劇【明日に向って撃て!】のモデルになった無法者アウトローたち。


「俺の相棒はどこにいるってんだ? なぁ」

 

 アトリは、呆然と呟く。


「……なんでこんなことになったんですか?」

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