第1章 ほんのひと握りの希望のために 

Chapter 1


 はてさて、一体これはどういうことなのだろう。


「……はれぇ?」


 燦々と輝く太陽。その下に広がるのはただひたすら荒涼とした大地。

 奇怪な形をした巨大な岩塊が聳え、ぼそぼそとした植物がどこか遠慮気味ではあるものの這うように茂っている。

 一言で言い表すなら、荒野。


「……はれれぇ?」


 あくまでこれは聞いた話でしかないのだけれど、荒野をCGで再現するための資料調査って、ものすごく大変らしい。だったら、アトリの目の前に広がっているそれは、きっと資料調査を重ねに重ねまくった上で限りなくリアルを追求すべく性能高度なCGで構成された光景なんだろう。

 でも、いくらなんでもこれはちょっと――である。

 ただ単に、リアリティ豊富な夢だったら、どれだけよかっただろう。

 砂塵を含んでざらついている風のにおいとか、湿気が飛んでしまっていて乾いてからからになってしまっている空気の味とか、見ようと思えば成層圏を目にすることが出来るかもしれない蒼天とか。


「……えー、まぢですか?」


 夢であってほしかった。

 だけど、燦々と輝く太陽から施される洗礼、容赦ない陽射しと熱、我が身をじりじりと焼くこれらは、紛れもなくリアルな痛みだ。

 とはいうものの、この状況は、はっきり言って受け入れがたい。


「……えーと、とりあえず……都内、とは違いますよね?」


 だとしたら、どこかにある荒野の一つと考えるべきで――いや、ちょっと待ってほしい。どこかにあるっていっても、肝心のそのどこかとは、一体どこなんだろう?

 それ以前の話、どういう手段を用いれば、都内からほぼ一瞬にしてそうでない場所へ出てしまうのだろう。

 普通に考えればありえない話だ。だが、そんなありえない話とやらは、アトリの現実なのだ。


「……困りますって、まぢで。……いたいけな十代の少女をこんな過酷な状況に落としこんで、どうしろっていうのですか?」


 勿論、ぼやきに答えてくれる相手はいない。でも、だからって何も言わずにいられようか、他人事じゃないんだから。

 とはいえ、ここにずっと立ったままぼやいていたって、何か解決策がふわっと舞い下りてくるわけでもない。とりあえずリュックを背負い直そうとして――ん? リュック?


「……そうだっ、スマホ!」


 引っ張り出すのももどかしかったから、逆さまにして中身を一気に空けた。財布やら文庫本やらに混じって、お目当てのものは出てきてくれる。


「……駄目、ですかぁ」


 だけど、画面に表示されるのは圏外の文字。連絡手段のみならず、これではGPSも使えない。頼みの糸は、呆気なく絶たれた。

 こうなったら、腹を括るしかなさそうだ。

 リュックを背負い直すと、覚悟を決めて一歩踏み出す。


「……知らない場所で迷子になったら出来るだけその場を動かないように、と言われていますが、このままだと遅かれ早かれ熱中症で倒れかねませんよ」


 偶然であれ、アトリは恵まれていた。帽子は日よけになるし、羽織っているジャケットはUV対策になる。

 さっき引っくり返したリュックからは、ペットボトルに入ったスポーツドリンクが出てきた。とりあえず、脱水症状は免れられそうだ。






「……熱い、死ぬ」


 太陽は、情け無用だった。荒野は、距離感も方向性も掴めない。

 そんな中を、アトリはただただ延々と歩いてる、というよりあてもなく歩き回っている。多少の辛苦には耐えるべきだと思っていたのだけど、そんなの甘かった。


「……死ぬ、死んでしまう」


 意識せずとも、後から後から弱音がぼろぼろ零れ落ちていく。

 スポーツドリンクで定期的に喉を潤しているはずなのに、渇きは収まってくれない。それに、時折吹く風で舞い上がる砂塵を無意識のうちに吸ってしまったようで、それが口内に張り付いてざらざらしたなんとも言いようがない気持ち悪さを醸し出してくる。


「……こんなことになるなら、せめて、コンビニかどこかでマスクを買っておくべきでしたよ。……別に、高性能のじゃなくていいから」


 ペットボトルの中身を口に含む。暑さのせいですっかりぬるくなってしまっていて、異様に甘ったるい。コンビニで手軽に買えるものだけど、この状況においては貴重品だ。けれど、それはもうひどく軽い。見れば、中身はもうほとんどない。


「……やっぱ、一本じゃ間に合わなかったですか」


 視界に飛び込んでくるのは、ただひたすら荒野。

 空を見上げれば、ほんのわずかだけれど太陽が傾いてきているような気がしないでもない。けれど、相変わらず燦々としている。

 歩き続けて足が痛い。陽射しと熱を浴びまくったおかげで身体が重い。

 歩けども歩けども、終わりが全く見えないこの状況は、いつまで続くのだろう。

 そう思うと、いい加減憂鬱になってきた。


 ぎしかた、ぱからっ。ぎしかた、ぱからっ。

 ぎしかた、ぱからっ。ぎしかた、ぱからっ。


 おまけに、さっきからなんだか変な幻聴が聞こえてくる。


 ぎしかた、ぱからっ。ぎしかた、ぱからっ。

 ぎしかた、ぱからっ。ぎしかた、ぱからっ。


 片やそれは、まるでなにかが軋みを上げて震動しているような音。

 片やそれは、まるで地面を何か硬いもので打ち続けているような音。

 幻聴にしてはやけに真に迫っているそれが、さっきから耳朶を打ってくる。その音源はアトリの後から、徐々に近づいてきている。


「……え、船?」


 思わず振り返って見た瞬間、我が目を疑う。

 アトリの目には、それは船と映った。白い帆を張って真っ直ぐ進む船に。

 でも、その認識は間違いだった。そりゃあそうだ、船が地面を走れるわけないでしょう。

 第一、馬に引いてもらって地上を進む船なんて、見たことも聞いたこともない。

 それは、馬車だった。車輪がついた荷台を、二頭の美しい馬が牽いている。

 しかもそれは緩やかな速度で、こちらへ走ってくるではないか。

 ひょっとして、とアトリは胸を高鳴らせた。ひょっとして、捜索隊? それとも、パトロール? そうでなければ、通りすがり?

 どれだってかまうものか。そもそも「近所のコンビニに行こうとしたら、道を間違えて帰れなくなりました」みたく、道が分からなくてうろうろしているようには見えるまい。


「おーい!」


 声ははっきり出てくれた。喉は、からからに乾ききっていたはずなのに。


「おーい!」


 ちゃんとはっきり確認出来たわけじゃないけれど、馬車の御者台に腰かけていた人物が、こちらを向いてくれたような気がした。






「……え、えくすきゅーずみー?」

「…………」

「……は、はぶあないすでぃ?」

「…………」

「……ゆ、ゆーきゃんすぴーくじゃぱにーずらんげーじ?」

「…………」


 駄目だ、相手から返ってくるのは、ただひたすら無言のみ。

 でも、アトリが取得している英会話スキルなんて、こんなものでしかない。

 それでも、何でもいいから反応が欲しい。「クレイジー」でも「ジャップ」でも、最悪「ファ〇ク・ユー」でもいい。じゃないと、いい加減心が折れそうになってくる。

 アトリの側に、馬車は停まってくれた。御者台に座っていた人物は、降りてアトリと向き合ってくれた。

 だけど、その人物を見た瞬間、アトリが思ったのは「うわぁ!」だった。だって「うわぁ!」だったし、色んな意味で。


「……ゆーあーのっとじゃぱにーず!?」


 すっきりと鼻梁が通った顔立ち、薄い唇、色素が薄い肌。

 被っているつば広のステットソンハット。零れる髪はアッシュブロンド、アトリをじっと見る目は青鋼色スチールブルー

 外人だった。それも、どう見てもオリエンタル以外の。

 薄汚れた羊皮紙色のジャケット、その上に流すのは鮮やかな彩色の糸で刺繍が施されたポンチョ。くたびれたジーンズに、西部劇のカウボーイの靴こと拍車付きのブーツ。

 胸元には、年代物の金の懐中時計があった。それを中心に身体を飾るのは、見た感じ宝石っぽい輝石をあしらった銀細工のアクセサリー。

 背は高い。身長一六〇センチ未満のアトリが見上げる形なのだから、間違いなく長身。

 あと、結構スタイルがいい。でも、モデルみたくすらっとしているように見えるわけじゃなくて、格闘家みたくしなやかにぎゅっと引き締まっている感じ。

 なんて言えばいいか分からないけど、見る人にどこか不思議な印象を与える男の人だった。


 まだあどけない少年のようにも。

 思春期を脱して垢抜けた青年のようにも。

 大人の老練さを知り始めた青年のようにも。


 そのどれにも見えてしまえるのだから、見た目から年齢をきちんと把握するのは、きっと至難の極みだろう。

 でも、そんなこと今はどうでもいい。


「……えっ、えっと、えっと、すみません。……わたしが言っていること、分かりますか?」

「…………」


 返されるのは、無言のみ。何の感情を浮かべることもなく、男はアトリをただ見るだけ。


「……あいあむそーりー。……あいあむじゃぱにーず。……あいあむきゃんのっとあんだーすたんど。……あいあいむじゅにあはいすくーるすちゅーでんと」


 後悔する。もっとマジメに、英語の授業を受けておくんだった。


「……うーぬ、どうしよう、どうすれば、どうすれば……」


 いっそのこと、ボディランゲージにでも頼るべきなのだろうか? でも、あれは文化圏によっては、伝えたいことが別の意味にとられてトラブルを招きかねないっていう。

 八方ふさがり。万事休す。


「ってかよ、普通に話せばいいじゃねぇかってんだ」

「……いや、普通に話してちゃんと通じてくれれば、こっちは苦労しないんですって……って」


 あれ?


「いや、だから、訳の分かんねぇことをごちゃごちゃほざくのに力を入れるぐれぇなら、普通に話せや」


 ちょっと待て。アトリは今、誰と会話のキャッチボールをしている?

 この場にいるのは、アトリと、あと――って、ま、まさか!?


「……ゆ、ゆーきゃんすぴーきんぐ、ほ、ほわっ!?」

「だからなァ、普通に言えってんだよ!」

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