(3)
維月とキスをした。
その事実が尾を引いて、未だ風花は夢見心地のただ中にいる。
維月とキスをした。その出来事が惚れ薬の効能のお陰かまでは、確信を持てなかったものの、しかし惚れ薬の効能なしであのような出来事が起こるはずもないと風花は考えた。
維月は、雪子のことが好きなのだ。それはきっと、恐らく初恋だ。以来、維月が雪子以外に好きなひとができた、などとは風花には打ち明けなかったから、風花は維月がまだ雪子のことを好きなのだろうと思っている。
雪子に恋人がいることは維月も知っている。雪子のことを想っているなどという雰囲気を一度も出すことなく、彼がそれを祝福したことを、風花はたしかに覚えている。
けれども風花が初恋をあきらめられないように、維月もそれを引きずっている可能性はあった。
いや、風花はほとんどそうだと決めつけて、確信していた。
だけど風花は邪心に負けて惚れ薬を維月に盛った。
そして維月は風花にキスをした。
風花はほどほどに薄情で、ほどほどに人情を持つ、つまりは凡人だった。だから、惚れ薬という誘惑に負けたし、そのあとの結果に喜びながら、己の行動に悔いもする。
風花は、歓喜と罪悪感の狭間をふらふらと揺れ動いていた。
惚れ薬を盛るだなんて、卑怯な真似だ。相手の――それも、恋しい相手の――意思や尊厳を無視した行いだ。それはそれは、とても愛している相手にできる――やっていい、仕打ちではない。
だから風花は歓喜と罪悪感の狭間で、どっちつかずのまま日々を過ごしていた。
風花は凡人だから開き直れもしなければ、維月にすべてを告白して惚れ薬の効能を解いてやることもしない。
それは喜んで開き直ってしまうことよりも、反省して懺悔することよりも、最悪なように風花には思えた。
けれど維月に対する後ろめたさを感じながら、手を取られれば風花は喜んだし、キスをされれば顔を赤くして内心で舞い上がった。
「こんなことはいけないことだ」と思いながら、風花は維月にかかっている惚れ薬の効能を解くことはしなかった。
それが事実で、それがすべてだった。
許される所業ではないと思いながら、夢を見させて欲しいと神頼みする自分がいる。
風花は、そんな激しい心のありように疲弊しながらも、それでもずるずると維月を騙し続けて、一週間を過ごした。
「あれ?
放課後、昇降口の邪魔にならない場所でひっそりと維月を待っていた風花に声をかけたのは、維月のクラスメイトである男子生徒だった。残念ながら風花は男子生徒の顔に見覚えがあっても、名前までは覚えていなかった。
男子生徒は風花の戸惑いを知ってか知らずか、気安げに微笑んで、ゆっくりと寄ってくる。
「いいよな、
引っ込み思案で人見知りもする
褒められているのだろうという認識はあったものの、上手い返しが思い浮かばない。こういうとき、維月であればそつなく返事ができるだろう。そう考えて、風花は少しだけ落ち込んだ。
「どうしたの? さっきからずっと暗い顔してるけど」
「そ、そう……?」
「暗い顔っていうか、浮かない顔っていうか。……なに、天根のことで悩んでる? 相談に乗ろうか?」
思いがけず図星を突かれた格好となった風花は、自分よりも背の高い男子生徒を反射的に見上げた。
風花は、この男子生徒に悩みを打ち明ける気にはならなかったものの、本心を言い当てられて、後ろめたい気持ちに襲われた。
風花は、維月を騙している。騙し続けている。
それはいけないことだ。道徳に
もちろん目の前にいる男子生徒はそんなことは微塵も知らないのだが、風花はなにか見えない超常の存在に、男子生徒を介して糾弾されたような気持ちになった。
無論、それはただの被害妄想である。それでも風花は襲ってきた罪悪感に圧し潰されそうな気持ちになる。
維月のことを愛していると思いながら、維月という個人を踏みにじっている。
もう、何度も何度も風花は自分を責めたが、しかしそれでも惚れ薬の効能を解かなかった。
解けなかった。
あともう少し。そう思いながら、ずるずると一週間が経過している。
風花の脳裏に走馬灯のようにこの一週間の日々が思い起こされた。
「あれ? 周藤さん?」
「――なにしてんの?」
少し不機嫌そうな、低い声が、男子生徒の言葉に重なった。
「お、噂をすればなんとやら」
「噂ってなんだよ」
今度はかすかに喉で笑うような声。
声のした方向を見ずとも、風花が聞き間違うはずもない。
昇降口に入ってきた維月は、スクールバッグを片手に、風花と男子生徒たちが立っている場所へと近づく。
「ごめん風花。遅くなった」
申し訳なさそうな顔をする維月に、風花は首を横に振って答える。すると男子生徒が囃し立てるように口笛を吹いた。
「ほんっと仲いいよな~。羨ましいわ」
「そうか」
「『そうか』って……持てないやつのヒガミは怖いんだぞ!」
「
「くそ~」
風花は軽快なやり取りのそばで、ひとり心中で冷や汗を流していた。
風花と維月がキスをするような仲であることは、まだだれにも言っていない。わざわざ宣言するほどのことでもなかったというのもあったが、風花のほうは意図的に隠している。
なぜならば、これは惚れ薬によって生み出された偽りの関係。いずれ終わる関係だと思うと、わざわざ吹聴する気にはならないのが普通だろう。
そして絶好の機会をモノにして、外堀を埋めてやろうというほどの狡猾さは、凡人である風花にはそなわっていない。
だから、ふたりの関係は今のところ秘密のものだった。
けれどもそれは、ふたりで言葉を交わし、示し合わせたものではない。
だから風花は、維月がこの男子生徒に「俺たち付き合ってるんだ」などと言い出さないかとヒヤヒヤしている、というわけなのである。
しかし風花の危惧は杞憂に終わった。
維月は風花と仲がいいことは否定しなかったものの、付き合っていることを匂わせるようなことはしなかった。
そのことに風花は安堵すると同時に、どこかで小さく落胆する。そしてそんな自分を浅ましく思い、自己嫌悪に陥る。
維月と男子生徒が別れの言葉を交わし合う。
男子生徒が背を向けると、不意に維月が風花の手を取った。
「お待たせ。じゃ、帰ろっか」
維月の指先から、彼の熱が風花にも伝わる。心地よい熱だ。
その熱を失いたくないと思うと同時に、また罪悪感が押し寄せてくる。
いつかは、惚れ薬の効能を解かなければならない。維月の人生は維月のものであって、風花のものではないからだ。
けれども、今は。今だけは。
歓喜と罪悪感の狭間にいながら、風花は維月の指に己の指をゆるく絡めた。
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