8話 二人の休日(番外編)
小さな機械音がなった。
体温計の計測完了を知らせる合図だ。
「三七度八分ですか……」
冷たそうな表示部分にはそう表示されていた。
「今日はゆっくり療養してください」
「すいません。あの、やっぱり一人でも行ってきてください。俺は一人でも大丈夫なんで」
昨日、熱を出したことでかおりとのデートを早々に切り上げ帰って来た。その後も体調が回復することはなく、今日を迎えた。
今日は奏楓と出かけることになっていた。金曜日のテンションの高いプレゼンから今日のことをどれほど楽しみにしていたかはよくわかる。祐希と一緒に行くことを望んでいたが、この状況では仕方がない。奏楓までも家に残る必要はないのだ。
「いえ、また今度にしましょう。別に今日だけしか行けないわけではないですから」
昨日体調を悪そうにして帰って来た時から奏楓の顔にはそれにこやかさがない。落ち込んでいるはけではなく祐希を心配している表情だ。
「この一週間はいろいろありましたから、その疲れが出たんですよ」
「……」
「朝食は消化の良いものがいいですね。食欲はありますか?」
「はい。少しなら」
「今作るので待ていてください」
「はい、どうぞ」
祐希の朝食を改めて作り始める時から奏楓はさっきまでの心配の表情は跡形もなく消え去り、機嫌が良さそうでスキップを踏みそうな勢いだった。
今も「はい、どうぞ」と言った目がやけにキラキラとしていて、声色も弾んでいる。
「……いただきます」
なぜかと聞く元気もなく、卵が入った雑炊を一口食べる。こんな時でも奏楓の料理は美味しかった。
「……」
「……」
両ひじを机上に乗せ顔を両手の上で支え、じーと満面の笑みで祐希の食事を見守っている。
「……」
「……」じー。
「あ、あの……」
「はい、なんですか」
「そんな見られると食べにくいんですけど」
「なら食べさせてあげましょうか?」
「いえ、そういうことではなくて」
「そうなんですか……」
あからさまに落ち込む奏楓。
「あの、怒ってますか?」
奏楓が楽しみにしていたショッピングの予定を崩してしまったことを。
「いえ、全然。むしろ感謝していますよ。弟の看病イベント。これはお姉ちゃんの役目。今からワクワしてしまいます。熱が下がるまでは私に甘えてくださいね」
祐希よりも熱がこもっているのではないかと思うような奏楓の回答。少し引いてしまったことに奏楓は気づかない。
「あ、すいません。不謹慎でしたね。自重します」
「そうしてください」
朝食をとった後、することもなく自室で横になっていた。
だんだんと体は熱を持ち始め額にもズキンズキンと痛みが現れ始めた。本格的に体調が悪くなってきたようだ。
目を閉じ、暗闇を見る。何分かもすれば意識は薄れ、額の痛みも忘れた。
「ん……」
「あ、起きましたか」
「……何を……?」
「様子を見にきました。具合はどうですか?」
祐希はベッドの横にある体温計を手に取った。
「待ってください」
奏楓が体温計を取った祐希の手を止める。
「……?」
「そんなものでは正確な数字は出ませんよ」
「……はぁ?じゃあどうやって……」
「こうやります--」
--ぴと。
奏楓の額が祐希の熱を帯びた額と密着する。
「……え?……あ、あの……」
いつも以上に近くに感じるその美しい顔立ち。瞳から自分の姿が見える程、鼻と鼻とがぶつかりそうに、口元を変に意識してしまう。
「……うーん、熱はまだありそうですね」
「……終わったなら、離れてください」
言われた通り、奏楓は離れる。
「こんな古典的なもので何がわかるって言うんですか」
「祐希に熱があるかどうかがわかります」
「そりゃ、ありますよ」
平熱でもあんなことされたら体温は二分か三分上がるに違いない。
「科学の進歩を舐めないでください。それに朝はちゃんと体温計で測ったじゃないですか」
「お姉ちゃんの役割をそう何度も取られるわけにはいきませんから」
なぜか機械と張り合っている。
「機械の方が正確ですよ」
「むー、祐希のくせに生意気ですね。そんなこと言うなら測ってみればいいじゃないですか。ちなみに言っておきますけど、三七度五分ですよ」
祐希は改めて体温計を手に取ると、パジャマの下から脇に挟んだ。
「あ、そうそう。これを--」
「つめたっ!?」
ピタっと額に冷たいジェルシートが張り付いた。
「あと、フルーツ切ってきたんですけど食べられますか?」
奏楓が持つ器にはりんごが一口サイズに切り分けられていた。
「はい」
奏楓は祐希の目線の高さまで屈む。
なびく髪と一緒にいい匂いが鼻を魅了した。
「あ、あの……?」
間近にある奏楓の整った顔には目を背けたくなるほどの美しさがある。
「はい、どうぞ」
奏楓は左手で持ったフォークにりんごを一つ刺して祐希の口元まで運ぶ。
「じ、自分で食べられますよ」
「知ってますよ」
ニコッと清々しい笑顔だ。
「さっきもですけど、自重するって言ったじゃないですか」
「そんなの忘れました」
「ちょっと……」
「忘れたことは仕方ありません。だから、食べてください。はいあーん」
奏楓はあーんと口を開けりんごを差し出す。祐希も折れて口を開ける。
シャリと瑞々しい音がなった。
「美味しいですか?」
「……はい」
祐希のそんなそっけない反応にも奏楓は満足そうだ。
「なら、良かったです」
もう一度、りんごをフォークで刺して祐希の口元まで運ぶ。祐希も黙って口を開け受け入れた。もう一度、もう一度と。
りんごを食べ終わり奏楓が一階へ降りると、今朝から一度も触っていないスマホに触った。待受画面を見れば、かおりからのメッセージが何通も届いていた。
『体調大丈夫?』『私にできることなら何でもするからね』『今度は目一杯楽しもうね』などなど。
辛いことには間違いはないが所詮は風邪。かおりも奏楓も大袈裟だなっと思いつつ感謝のメッセージを返した。
スマホを置くと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。
計測完了の音は鳴らなかったと思うのだが、構わず体温計を取った。不思議なことに、ちゃっかりと計測は完了していたようだ。
「……三七度二分」
やはり機械の方が正確だな、と祐希は思った。
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