第5話
ぶっきらぼうにそう言うと、相生先輩はポケットから何かを取り出した。
それは義理チョコとして最適と公式から宣伝されているブラックサンダーだった。
いや、何で?
「安くて味がそれなりのチョコレートってこれぐらいしかないんだよな。別にラムネでも良いんだけれどさ、糖分を摂取するだけなら。けれど、それをしていると何か怪しい薬を飲んでいるんじゃないかってあらぬ疑いをかけられたことがあってね……。こちとら脳にエネルギーを送るためにブドウ糖を摂取しているだけだって言っているのにも関わらず、結局学生会が怪しいと思われる行為は慎むようになどと言われちまったよ。ほら、売店にもラムネって売っていないだろ? あれは元々そんなイメージがついていなかったけれど、あたしがボリボリ食べたからあらぬ疑いをかけられてイメージダウンして売り上げが落ちたから販売を中止せざるを得なくなったんだってさ。別に食べたい人が食べられればそれで良いのになあ、なんて思ったりもするんだけれどよ、表現規制ここに極まれり、と言ったところだな。そんなこと言ったらシャーロック・ホームズのニコチンパッチ常用はどうなるんだって話だよ」
「それって、原作じゃなくてBBCのドラマの設定じゃなかったでしたっけ? 実際のシャーロック・ホームズは薬物の常習者だったような……」
「ああ、そうだった。そうだったな……。ワトソンが必死になって止めさせたけれど、再発の可能性もあるなどと言われていたんだっけか。まあ、いずれにせよ天才は天才ゆえに社会不適合者になりやすいというのを描いた典型的な作品ではあると思うよ。あたしだって、シャーロック・ホームズは素晴らしい探偵だと思うし。そうして見えてきた物だって、多数ある。世界には、謎が満ち溢れているということにね」
「……ところで、あの楽譜には何の暗号が……?」
言ったのは真紀菜だった。
良く覚えていたな、わたしも少し忘れかけていたのに。
「ん? あ、あー、暗号か。確かにこれを一言で片付けるなら暗号だろうよ。それにしても、難しい暗号かと思いきや、昔から古典的に使われている暗号なんだから、はっきり言って単純過ぎる。まあ、聞いてもらいたいための暗号だから、それについては致し方ないのかもしれないがね」
「聞いてもらいたいための暗号……?」
何を言っているのか、さっぱり見当もつかなかった。
ただまあ、楽曲を作るってことは、誰かに聞いてもらいたかったという意図はあったのかもしれない。ふと、わたしはそんなことを思った。
もしかして相生先輩はそのことを言っているのだろうか?
「近いな。確かに作曲家含めクリエイターというのは、自分が作った物を誰かに見てもらいたい。そして評価をもらいたいという承認欲求の塊と言っても差し支えない。ともなれば、作曲家が作曲した楽曲も、自分のための楽曲であるとは到底考えにくい。もし、自分のための楽曲であるなら自分の家で慰めていれば良いだけの話だ。……だが、そうではない。さっき言った通り、誰かというターゲットが居て、そのターゲットのために作った楽曲である……、そう考えるとこの暗号が何の暗号であるかはある程度目星がついてくる、という訳だ」
答えが見えてきているような、きていないような……。いずれにせよ、正解まではほど遠いような気がする。
凡人には未だ答えが見えてこないようなので、もう少しヒントを頂けると有り難いんだけれどなあ。
「この暗号は、スタンダードな暗号ということなんですか?」
真紀菜の問いに、相生先輩は頷く。
「スタンダードかどうかと言われると、答えはノーだ。けれども、この暗号自体は音楽家の間では良く使われている暗号だし、仕組み自体は非常にシンプルだ。……分かった、答えを言おうか。これは愛の告白だ。それも願わぬ恋のな」
え?
いきなり何を言い出すかと思えば、愛の告白?
ピアノの旋律だけでどうやってそれを導き出すのやら……。
「昔から良くあることだが……、音楽家は自らの楽曲に暗号を混ぜることが多かった。その一例として挙げられるのは、ヨハネス・ブラームスの手がけた弦楽六重奏曲2番だ。ブラームスが生涯愛したが実らなかった恋、その恋人のファーストネームを音節に組み込んだ。彼は言ったそうだ、この楽曲を作ったことでようやく過去から解放された……とね。そして、これもまた非常にシンプルな愛の告白だ。作曲家のハイドンが作った暗号法に準えて暗号が作られている。ミをアルファベットのAとして、半音ずつアルファベットを置き換えていくと……、シンプルな愛の告白が浮かび上がってくる。ただし、RとSの間には一つ記号が入るからそこだけは注意せねばならない」
えーと、つまり相生先輩が言いたいのは、ミをAとして、ミ(シャープ)をBとしておくと……。
でもそれだとシャープとかフラットは?
「シャープとかフラットは要するに半音上げるか下げるかの記号に過ぎないんですよ」
言ったのは掛川くんだった。
音楽的知識に関しては、吹奏楽部で絶対音感の彼に聞くのが一番と言えば一番か。
「要するにこのままアルファベットに変換すると、多分文章どころか単語として成り立たないと思います。そうですよね?」
「うん。その通り。……話が分かる人と話していると時間が短くて済むから大助かりだな! とどのつまりが、そういうことだ。暗号は半音ごとに区切られて作られている。つまりさっきコイツにお願いした採譜でさえも、間違っているということだ。ファ(シャープ)とソ(フラット)は理屈から言えば同じ音だからな」
「じゃあ、この暗号を紐解いていくと、愛の告白が……」
「大方、先生と学生とかそういう感じの恋愛だろうよ。どっちが一方的に愛していたとか、双方で愛していたかどうかは分からない。けれども、少なくともこの作曲をした人間は相手のことを愛していたのだろうな。しかしながら、それを公表することは出来ないと分かった。せめて、誰かにこれが伝われば良いとでも思ったのか……、それを暗号の楽曲として演奏することにしたんだろうよ」
「でも……、いったい誰がそんなことを?」
「そりゃあ、答えは簡単だ。もう一度映像を見せてくれ」
これで四度目か。
「扉に手をかけてから、しばらくして誰かに見つかっているだろう? しかし、これってあまりにも出来過ぎていないか?」
「……見つかるタイミングがあまりにも早い、と?」
確かに、いくら学校を警備員なり監視カメラが見張っているとはいえ、それにも限界はある。インスタグラムのライブを見た限りだと、配信時間は三十分程度。そのうち、扉に手をかけてから配信終了までが僅か七分。その間で警備員なり当直の先生がそこに偶然やって来る可能性は零ではないが……、しかし、何か別の可能性を疑ってもおかしくはない。
「もしかして、これは仕掛けが発動しただけのハッタリ……?」
つまり、最後の声は誰かの肉声ではなく、何かに録音しておいた声が、何らかの仕掛けで再生されただけ。
それなら辻褄は合う。
「それが近い答えだろうねえ。ただまあ、こればっかりは憶測の域を出ない。でもオカルトではないと思うね。例えば仮にそれが先生だとしたら、その先生が当直の時間にこっそり音楽室に忍び込んでいた……なんてこともあるかもしれないねえ?」
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