僕はゴキブリ・下
撮影会の仕事を終えた後、レクサスを運転して実家に帰った。我が家は築六十年だが、二ヶ月前に大規模なリフォームを施したので、新築同様である。
「ただいま」
「おかえりなさい。美咲」
お母さんは紅茶を飲みながら、全自動調理器が仕事を終えるのを待っている。せっかくキッチンもリフォームして綺麗になったのに、料理をしているのを見たことがない。お父さんはマッサージチェアに座って、BSで海外の映画を見ている。
私は自分の部屋に行って、電気も付けずに銀行アプリで残高を確認する。残高を見る度に、思わず口元がにやけてしまう。ユーチューブの登録者は六十万人を超え、再生回数も回り続けている。
冷蔵庫からビールを取り出して、ベッドに横たわる。仰向けのまま500mlを一気飲みする。すぐに眠気が襲ってきて、着替えもせずに眠ってしまった。
次に目を覚ましたのは、一階からお父さんの奇声が聞こえてきたときだった。私は驚いて階段を駆け下りた。
「どうしたの」
「美咲、あれ」
お父さんが指さした先にいたのは、ゴキブリだった。リフォームしたての綺麗な台所に、醜い虫が這いつくばっているのを見ると、沸々と怒りがこみ上げてきた。
「もう冬なんだから、冬眠しててくれよぉ」
「お父さん。もうこうなったら、徹底的にやろう」
初めまして。僕はゴキブリのフィリオです。フィリオという名前は、こちらの美咲さんにつけてもらった名前です。僕は美咲さんと出会うまで、どこにでもいるごく普通のゴキブリでした。しかし、彼女はそんな僕を深く愛してくれました。おかげで、エサを求めて彷徨うこともなく、幸せな日々を送ることができました。本当に、感謝してもしきれません。
ところで、今日は朝からなにか騒がしい様子です。何人かの大人の男性が、大きな機械を家の中に運んできています。一体何をするつもりなのでしょう?
「凄い。こりゃあ流石のゴキブリ共も助からなさそうですね」
男性が機械を操作すると、キッチンに白い煙のようなものが噴射されました。そのとき、嫌な予感がしました。僕は咄嗟に、初めてカゴの中から抜け出して、元の家族のいた所へ駆け寄りました。もしかしたら、彼らは僕以外のゴキブリを殺そうとしているのではないかと思ったのです。
僕がキッチンに滑り込むと、美咲さんが慌てた声を出しました。
「ちょっとフィリオ! 危ない! すみません止めてください」
煙が止まって視界が開けると、随分と年老いたゴキブリが、体を曲げて酷く咳き込んでいました。
「大丈夫ですか」
僕の問いかけに、そのゴキブリは冷たい目線で返してきました。そのとき、僕は初めて気が付きました。彼の後ろに、たくさんのゴキブリの死体が転がっていることに。
「何しに来た」
彼は、しわがれた声でそう言いました。
「恥ずかしくはないのか」
「え、」恥ずかしい?
「あんなに利己的で愚かな人間共にひれ伏して、まるで犬や猫のように愛想を振りまいて。俺たちは、どれだけ汚くて醜くても、自分たちの力だけで生きてきたんだ。お前にはゴキブリとしての誇りはないのか!?」
彼は、理不尽な怒りが己の喉を通る痛みに、
「何だよ、それ」
自分の体が震えるのを感じました。
「別に、好きでこの容姿に生まれてきた訳じゃないし。そんな事言われたって」
僕が反論しようとすると、彼の体は力が抜けたように倒れました。お亡くなりになったようです。
「こら、駄目じゃないフィリオ。勝手に抜け出しちゃ」
美咲さんは温かい両手で僕を捕らえ、カゴの中に戻しました。そして僕は、鏡に映る自分を見ました。
僕は、ただのゴキブリでした―――。
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