僕はゴキブリ・中

 俺は周りの人間と比べて、何事にも興味を示さなかった。友人は皆、何か夢中になれるものを持っていた。直人は、小学生の頃からずっと野球一筋だった。来る日も来る日も素振りをしていて、それを見て俺は棒を振り回して何が楽しいんだろうと思っていた。雅弘は、中二から女のアイドルグループにはまっていて、ライブに行ったりグッズ集めに勤しんでいたりしている。裕介は高校から美術部に入ったのをきっかけに、芸術に目覚めてしまった。毎日部室で空のペットボトルの絵を書いているらしい。何故ペットボトルの絵なのかと問うと「空間を描くのが楽しいんだ」と答えた。野球バカにアイドルオタクとペットボトル廃人。仲の良い三人はみんな何かにのめり込んでいて、まるでそれに束縛されているようだった。俺からすると時間の無駄にしか思えなかった。だがその一方で、今振り返ってみると、三人よりも自由な時間が多いはずの俺は、ただ時間を空虚に消費しているだけで、自分の時間というものが何なのか良く分かっていなかった。

 そんな俺の人生が変わったのは、高二の夏休みの登校日だった。俺たち四人は普段は親に弁当を作って貰っているのだが、その日はどの親も面倒臭がったので、珍しく食堂で食べることにした。俺が天ぷらうどんを平らげたとき、まだ五目ラーメンが半分以上残っている雅弘が、スマホの画面を見せてきた。

「ちょっとこれ見てみ。ヤバイぞ」

 表示されていたのはネットの掲示板のようだった。「【衝撃】ありえん可愛いゴキブリ、発見されるwww 」という文と共に、一枚の画像が投稿されていた。

 その画像を見た瞬間、全身の神経が痺れるのを感じた。画像は一匹のゴキブリを捉えた物だったのだが、そこに写っていたゴキブリが、信じられないくらいに可愛かったのだ。俺は思わずスマホを取り、両手で支えた。

「……かわいい」

 そう呟くと、三人が一斉に笑い出した。何か変なことをしてしまったのかと、不安になった。

「だって、あの拓馬がすっごい純粋な目で『かわいい』って言うんだもん。笑うなっていう方が無理だって」

 三人は益々大きな声で笑い、周りの視線を集めた。俺は顔を赤くして、スマホを雅弘に突き返した。

「別に、本気で可愛いと思ってるわけじゃないからな。冗談だから」

 慌ただしくテーブルを布巾で拭いて、どんぶりを持って席を立つ。

「もうすぐ四時間目始まるから、先に教室帰ってるぞ」

 まだ笑いが収まらない三人を置いて、その場を立ち去る。授業の開始までには、まだたっぷりと時間があった。


 家に帰って洗濯物を取り込む。テレビで夕方のニュースを付けたまま、洗濯物を畳んでいると「可愛すぎるゴキブリがSNSで話題に」という見出しで、昼間見た画像が映し出されていた。俺は手を止めて、そのニュースに見入ってしまった。

「マジで可愛いな」「なんでこんなに可愛いの!?」といったSNSの反応が紹介された後、写真を撮影した女性のインタビューがあった。

「私も本当にゴキブリとか苦手だったんですけど、フィリオを見た瞬間に運命感じちゃって、これはもう家で飼うしかないと思いました」

 フィリオと呼ばれたゴキブリが玉ねぎを食べている動画の横に、小さな文字で「フィリオくん/ゴキブリチャンネル」と書かれているのを俺は見逃さなかった。すぐにYouTubeを開いて検索する。すると、やはり例の玉ねぎを食べている動画が出てきた。その動画は、二日前に投稿された物であったが、既に320万回再生されていた。俺は洗濯物を畳むのも忘れて、その動画を見続けた。

「ただいま」

 母親が帰ってきて時計を見ると、一時間も経っていた。こんなに時間を忘れて何かに没頭したのは生まれて初めてのことだった。少し、嬉しかった。




 列に並んでから、既に二時間は経過した。重い荷物を背負って、ただ一人そのときが来るのをひたすらに待つ。廊下には暖房が効いていないので、手がかじかんできた。スマホを取り出して、インスタグラムを開く。表示されたたくさんのフィリオの画像を見て、俺は心が温まるのを感じた。あとちょっとだから、頑張れ。そうフィリオに励まされている気がした。

「次の方どうぞ」

 スタッフの人が、俺を部屋へ招き入れる。心臓の鼓動が高まるのを感じながら、扉をくぐった。

 白い部屋の真ん中にはピカピカに磨かれた水槽があり、その中にフィリオがいた。半年前、画面越しに初めてフィリオを見たときの何倍もの衝撃だった。

「触ってみますか?」

 水槽の向かい側には、三十歳くらいの女性がいた。

「良いんですか」

 この撮影会はそもそも接触OKなのだが、思わず聞いてしまった。

「はい。もちろんです」

 女性は優しく微笑んで手を水槽の中に入れる。すると、フィリオが彼女の指先に乗る。

「あなたが飼い主の方ですか?」

「ええ。そうですよ」

 女性はフィリオを乗せたまま、俺に近づいてくる。

「さあ。両手を出してください」

 両手をくっつけて差し出すと、女性は慣れた手つきで俺の手のひらの上にフィリオをそっと移す。自分の手の中にフィリオがいるという事実が信じられなかった。

 手の上に、液体が一滴落ちてきて弾けた。俺の涙だった。その後はもう止まらなかった。今までずっと溜めてきた分の感動を、とめどなく流し続けてしまった。

「フィリオ」

 小さくて愛らしいそのゴキブリに、声をかける。

「ありがとう。生まれてきてくれて」

 自分以外の命の存在に、感謝をしたのも初めてのことだった。

「それでは、最後に記念撮影をして終わりになります」

 控えていたカメラマンが手際よく俺とフィリオをフィルムに収め、思い出を写真に保存してくれた。

「出口はあちらになります。ありがとうございました」

 部屋の外に出ると、フィリオのグッズがたくさん売られていた。本当は全部買いたかったが、所持金がそろそろ底をつきそうなので、仕方なく三千円のアクリルスタンドを購入した。その後、現像された写真を買って、撮影会を後にした。

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