僕はゴキブリ・上
私がフィリオと出会ったのは、去年の夏だった。
その日、私は祖父母の墓参りをするため、愛車のハスラーを運転し、約一時間かけて実家に帰省した。墓参りを済ました後、両親の待つ家に帰った。築六十年の我が家は、相変わず貧乏そうな雰囲気だった。庭には濁った水が溜まっているバケツが置いてあったし、瓦屋根の剥がれた部分にはブルーシートと重しが積まれていた。玄関よりも玄関の役目を担っている勝手口の扉を開けた。
「ただいまー」
「おかえりなさい、美咲。ちょうど良かった。冷蔵庫からネギ取ってくれない?」
「ちょっと、半年ぶりに帰ってきた娘に、いきなり晩ごはんの手伝いさせないでよ」
私は笑って台所を素通りする。居間のすみっこにカバンを置いて、あくびをした。
「ただいま。お父さん」
「ん、おかえり」
少しずつ白髪が増えてきているお父さんは、茶色い畳の上に寝っ転がってテレビで高校野球を見ていた。試合は八回の裏、九対二で強豪の高校が、聞いたこともない名前の高校を圧倒していた。
「これ、面白い?」
「……」
「無視ですか。まったく、ホントは可愛い娘が帰ってきて、嬉しくて堪らないくせに。ちょっとは素直になれば良いのに」
私がからかうと、お父さんは食い入るように野球を見始めた。
「で、何を取れって?」
「ネギよネギ。早くして」
「はいはーい」
十年くらい前に買った冷蔵庫の野菜室を開けて、無駄に新鮮なネギを取り出す。
「じゃあそれ刻んどいて。味噌汁に入れるから」
「うわぁ。本格的に手伝わせるじゃん、私疲れてるんだけど」
「なによ。お母さんなんか、どんなに疲れてても毎日欠かさずに晩ごはん作ってきたのよ。二十年も! 少しは親を労りなさい」
「はーいはい」
結局、私はお母さんに言われた通りにネギを切り始めた。
「でもさ、お父さんはゴロゴロしてるよ」
「お父さんは良いのよ」
「なんで?」
「なんでってそりゃあ、お父さんはお父さんだからねぇ」
はぁ? そんな訳分からん理屈が通用するとでも思ってんのか、うちの親は! これだからこの家は古臭いんじゃ。
心の中でそんな風に文句を言いながらネギを半分くらい切ったところで、視界の隅に何か動くものがいた。それは茶色い体に薄い羽が生えていて、六本の足をカサコソと動かしてい―――
「いぎゃぁぁぁぁ!」
「どうした! 美咲ーっ!」
「どうしたの!? 美咲っ」
私は尻餅をついてブツを指差す。
「ゴ……ゴゴゴ、ゴッキィィー」
「ゴキブリか!?」
軽快な三段ジャンプで居間に飛び、とっさにお父さんの左腕にしがみついた。
「気持ち悪い~。お父さん早くやっつけてよ」
お父さんの背中を蹴って前線に向かわせる。
「任せろ美咲。ゴキブリなんて、お父さんの敵じゃない」
お父さんがダサすぎる決め台詞を言っている間にも、Gは足をカサコソと動かしてこっちに近づいてきている。
「早く、急いで!」
ゴキジェットプロと虫コロリアースを投げると、お父さんはそれらをキャッチして二丁拳銃の完全体になった。
「虫が出たくらいで大袈裟ねぇ」
お母さんは素知らぬ顔で味噌汁の味見をしている。
「我が家の平穏を脅かす者は、虫であろうと容赦せんぞ。これでも喰らえー!」
しばしの静寂の後、炊飯器が炊きあがりを告げる電子音だけが、台所に虚しく響いた。
「あれ、どうしたのお父さん」
「クソ、弾切れだ」
「嘘でしょお。絶対やったと思ったのに」
顔を真っ青にしてうなだれる。
「おい、ゴキブリはどこに行った?」
「え?」
自分の足元に目をやると、両足のつま先のちょうど真ん中に奴はいた。あまりのショックに、私は後ろに倒れた。恐怖で動けずにいると、ゴキブリは私の眼の前に現れた。こんなに近くでゴキブリを見たのは生まれて初めてだった。
「あれ? 何、これ」
「どうかしたか、美咲」
お父さんが心配そうな声を出す。
「……かわいい」
「へ? なんて?」
「このゴキブリ、かわいい」
お父さんが怪訝そうな顔をする。遂に娘の頭がおかしくなったかと思ったようだ。
「ゴキブリが、可愛いって言ったのか」
私は頷いて、目の前のゴキブリに無意識に手を差し伸べた。ゴキブリは私の人差し指に乗ってきた。そのゴキブリは、確かにかわいかった。今まで見たことのあるどんなゴキブリよりも可愛かった。いや、そもそもゴキブリに対してかわいいという感情を抱いたのが、当たり前だが初めてのことだった。
このゴキブリが、何故そんなに可愛いのか、私には理解できなかった。見た目が他のゴキブリと比べて特異であるという訳でもない。ただ、そのゴキブリは明らかに可愛い雰囲気を醸し出していた。
ふと冷静になって、私は自分を疑った。かわいいゴキブリなんていうものが存在するのか。その存在自体が矛盾しているんじゃないのか。もしかして、私どうかしちゃったのかな。立ち上がって指に止まっているゴキブリを見る。
「かわいい」
ため息をつく。なんでだ、なんでこんなに可愛いんだ。ゴキブリなのに。
「美咲」
顔を上げると、両親が気がかりな様子で私を見ていた。
「美咲、あんた大丈夫なの?」
「あ、うん」
ゴキブリを、お父さんとお母さんにも見せてみる。
「なんか分かんないけど、コイツ可愛くない?」
二人が顔を並べてゴキブリを見つめる。
「確かに、かわいいぞ」
「うん。可愛いわね」
二人とも、開いた口が塞がらない。やはりこのゴキブリを見た人は、そのあまりの可愛さと、「可愛いゴキブリ」の存在に驚きを隠せないようだ。
「ねえ、この子さ。家で飼わない?」
二人とも、少しも反対しなかった。そうして、私達はこの新しい家族にフィリオという名前を付け、大切に育てることにしたのだった。
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