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マリナはホテルの前で車を止めた。
「わざわざ送っていただいて」
「いえ、歩くのも大変でしょうから」
目を合わせた俺たちは、同じタイミングでぷっと笑ってしまった。
「なんだか、今になって敬語っていうのもヘンですね」
「そうですね。こそばゆいと言いましょうか、何と言いましょうか」
マリナはくすくすと笑い、上目遣いに俺を見た。それは物をねだる子供のように邪気のないものだった。
「では今から、敬語はナシってことで」
「はいっ。そうしましょう」
それからまた二人で見つめ合う。
マリナの丸い顔がほんのりと赤みがかっている。俺の頬も熱を帯びているのを感じた。
「マリナ」
「オカモトくん」
ちょっと待て。
「どうして俺は『くん』付けなんだ?」
「だって、もうずっとオカモトくんって呼んでたから」
だめ、かな? マリナがあまりに真剣に言うから、俺は駄目と言えなかった。俺自身もそう呼ばれることに慣れていた。
もう一度名前を呼び合ってから、俺たちは軽く口づけをした。
「じゃあ、今日はここで」
これからのことは分からない。小説のこと。それからマリナとのこと。だが今はゆっくり考える余裕がある。
いつかは、こうして別れる必要がなくなるかもしれない。同じ場所へ帰ることだって、できるかもしれない。
その日が来るのを待ち遠しくも思いながら、俺はドアを開けた。
そこで俺は奴の姿を見た。
ヘッドライトに照らされながら、道の真ん中を歩いてくる。俺は目を疑った。
「探したぜ。ベストセラー作家さん」
「キザキ……!」
こんなところまで何の用だ。それに、なぜ俺のホテルを知っている。
「どうした。電話では飽き足らないか。意外と寂しがり屋さんだな」
キザキは俺を睨みつけた。様子がおかしかった。
俺が以前に顔を合わせたときの、やる気に満ちていた姿とはまるで違っていた。足取りは不確かで、生気が抜けている。頬は痩せこけていて、落ちくぼんだ目で俺を見据えていた。その奥に光るのは、どす黒い感情だった。
奴の手元で何かが光った。それに気づいたマリナが声を上げた。
ただ事ではなかった。思えばあの電話のときに気づくべきだったか。とにかく、マリナだけは巻き込めない。
「マリナ、行ってくれ」
「でも」
「頼む。明日また、そっちに行くから」
俺はマリナに銃口を向けていた。
「オカモトくん……それ……!」
「全部話す。だから行ってくれ」
「……」
マリナは黙って頷き、車を走らせる。荒々しいエンジン音が遠ざかっていった。
車が去り、俺とキザキは正面から向かい合った。
「何のつもりだ」
「許せないんだよ。お前のこと」
「売り上げで負けたからか? そんなことをいちいち気にしてたらキリがないぞ」
「お前のせいでっ!」
何もかもをぶちまけるような叫びだった。
「お前のせいで俺は書けなくなったんだ!」
俺は奴の言っている意味が分からなった。書けない理由に、なぜ俺が関わっている。
いや、違う。今だから俺は分かってしまった。
奴も俺と同じだ。目標を見失い、自分で立つこともできなくなる。俺がユキのために書いていたように、奴は俺に勝つために書いていた。
「そんな一度や二度負けたくらいで、大げさじゃないのか?」
ならばまた書いて、それで俺に勝てばいい。そう思った俺は考えが甘かった。
「打ち切りだよ」
キザキは俯いて、肩を震わせた。
「お前に負けてから、ボクは全く書けなくなった。それで全部打ち切り」
そんなことがあっていいのか。俺はキザキに同情さえ覚えた。一歩間違えれば、俺もそうなっていたからだ。
キザキは今、どん底にいる。俺が自殺しかけたときのように。
だが俺はそこから立ち直った。新しい目標を、生きる意味を見つけたからだ。キザキにもそれができるはずだ。
「キザキ、辛いのは俺も分かる。でも――」
「お前に何が分かるんだ!」
俺の言葉を遮った。一言も聞きたくないとでも言うかのように。
「キザキ!」
それでも俺は退かなかった。このままではキザキは道を踏み外す。
「今は耐えてくれ。別に死ぬわけじゃない。辛かったら全部放り投げてもいい。俺も協力するから」
ウザい奴だが、こんな惨めな姿を見て喜べるほど俺はクズではない。俺はキザキに寄り添ってやりたかった。
「そうか、そうか……」
だがキザキは手遅れだった。
「ならお前が死んでくれ」
そう言って奴はナイフを握りしめた。
そこで初めて、俺は逃げることを決めた。本能が、全力で目の前の死から逃れようとしていた。
振り返る余裕もない。今使える全て以上の力で走った。
恐ろしいほどに叫びながらキザキが追いかけてくる。もっと恐ろしいのは、少しずつ近づいてきていることだった。
俺は元から運動が苦手だった。足も遅く、体力もない。どうして子供の頃から運動してこなかったのだろうか。俺は今になって後悔した。
あっという間に追いつかれて、腕を伸ばされたら届く距離にまで近づいた。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
「このっ、死ねえええ!」
背後でナイフが振り上げられた。全身の毛が逆立った。
咄嗟の機転で俺は横に跳んだ。受け身も取れずに全身を地面に打ち付けられた。
キザキはナイフが空振った拍子につまづいて、頭から転んだ。軽い金属音がしたのは、キザキがナイフを手放したからだ。
さらに運のいいことに、そのナイフが俺のところへ転がってきた。這いつくばりながら俺はそのナイフを手にした。俺は一瞬の安堵を覚えた。
だがそれも直後に恐怖へ変わる。手にあったはずの拳銃がない。
ハッとしてキザキを見ると、手にはナイフの代わりに拳銃が握られていた。人生で最悪の瞬間だった。
「お、おい、アラサーにもなってガンマンごっこか? おもちゃだぞそれ」
俺は嘘をついた。
「関係ねえ。まずお前を痛めつけて、それからナイフで殺す」
「もし本物だったらどうする? 本当に俺が死ぬかもしれないぞ」
キザキは本気で俺を殺そうとはしていないかもしれない。そんな、わずかな望みを信じた俺が馬鹿だった。
「悪いが今のボクは本気でお前を殺してしまいそうだ」
冗談ではなかった。奴の目は錯乱していた。
「いいのか? 殺人だぞ。犯罪だぞ! 殺したら、本当に、お前は立ち直れなくなる。今ならまだ引き返せる。何もこんなくだらないことで、人生まで棒に振らなくてもいいじゃないか!」
「知ったことか! もう俺の生きる意味なんてないんだよ!」
キザキは銃口を俺に向けた。橋の上のときとは違う。逃れようのない死が背中から俺を優しく包み込んだ。
ああまずいこった。こいつ本当に引き金を――
脇腹を強く殴られた。いや、違う。奴の拳銃から煙が上がっていた。
触ると、手のひらにべっとりと赤い液体が付いた。
そこから、何か人間が生きるために大事なものが止めどなく流れ出した。
耳が遠ざかっていく。少し遅れて、足の感覚がなくなった。まるで下半身がまるごと消えてしまったかのように、力なく地面に崩れ落ちた。
ああくそ、ビギナーズラックってやつか。普通、素人が当てることなんてできないのに。
まるでどうでもいいことが頭に浮かんでは消えた。もう、身体中のどこも力が入らなかった。
唯一動く目でキザキの姿を捉えた。キザキは顔に何の表情も浮かべていなかった。銃を握ったまま二、三度辺りを見てから、ぎこちなく銃を落とす。それから何もなかったかのように足早に去っていった。マイケルがソロッツォを殺したシーンを思い出した。あれはレストランで、周りに人もいたから少し違うか……
「オカモトくんっ! オカモトくんっ!」
遠くで聞き覚えのある声がした。足音が近づいてくる。どうしてまだここにいるんだ。来ては駄目だ。
「マ……リナ……」
「オカモトくん……? あああああっ! オカモトくん! オカモトくんっ!」
マリナが俺を抱きかかえた。そんなことしたら、せっかくの服が汚れるのに。
「血が……ああ、あああ……だめ、だめ、しっかりして! いま、今、警察が来るからっ」
マリナは何度も番号を間違えながら救急車も呼んだ。ほどなくしてけたたましくパトカーのサイレンが聞こえてきた。
ああ、とんだ大事になってしまった。本当に、どうなってしまうのやら。
次第に意識が遠ざかっていっても、俺は至って正気だった。瞳に映るマリナの顔を、スクリーンを通して見ているような気分だった。自分のことのように思えなかった。
痛みもなければ、音もない。深い海の中にたった独りで漂っているようだった。
「しっかりして! だめ、待って、待って、オカモトくん!」
涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになりながら、マリナは何度も俺の名を呼んでいた。だから「くん」付けはもういいのに。
「だめ! だめえっ! 死なないで! 死なないでよ! あああ――あああああっ!」
どうしてマリナが泣くんだ。死ぬのは俺なんだぞ。そんなに悲しまれても困る。
薄れていく意識の中で、ある疑問が銃弾のようにかすめた。
俺は本当に死ぬのか?
映画やドラマの中の話ではなくて、俺自身の話なんだよな。ここで死ぬのは、他でもない俺なんだよな。
死んだら、どうなるのだろう。死後の世界はあるのだろうか。この意識は一体どこへ行ってしまうのだろうか。もう二度と、考えることも感じることもできないのだろうか。
もう、マリナとも会えないかもしれないのだろうか。
マリナ……
ほとんど霞んでしまった視界に大きく、マリナの顔が写っている。俺はこの人を愛して、これからも愛していくつもりだった。マリナと共にやりたいこともたくさんあった。
死んだら何一つ叶わない。死んだら終わりなのだ。
死ぬことに意味なんてない。救済になることも、悲劇になることもない。死は人間に等しく訪れる。死は死だ。それ以上でもそれ以下でもない。
人間はいつか死ぬ。逃れようのないことだ。
だが、希望はある。そこまで悲観的になる必要はない。生きていれば、悲しいことや辛いこともある。だがそれ以上に、喜びや幸せを得ることができる。自分の努力次第で、いくらだって人生を輝かせることができる。
今の俺には目標がある。生きることへの強い意志がある。死から逃れるのではない。生きることにただひたすらに真っすぐなのだ。
だから、ここで死ぬわけにはいかない。
生きていたい。ただ生きていたい。
そう、俺は――
生きたいんだ!
そこで意識が途絶え、目の前は暗黒に塗りつぶされた。
新しい花を供えると、マリナは手を合わせた。
太陽が一番高く上がっていた。光をこれでもかと照り付け、地上の生命に力を与えている。
至る所で虫が鳴いている。青々と茂った木々が、空を目がけて伸びている。輪郭のはっきりとした大きな雲が一つ、悠然と佇んでいた。
「元気にしてた? ごめんね、全然会いに行けなくて。本当に、本当に色々なことがあったの」
マリナは穏やかに語りかける。ユキが死んでからマリナの周りで起こった出来事を、できるだけ詳しく。
「私ね、とうとうオカモトくんとキスしちゃった。あー、思い出すだけでも恥ずかしいー。でも聞いたよ? ユキちゃんもちゃっかりやることはやってたんだね。さっすがあ。やっぱりユキちゃんには敵わないなあ」
旧友と再会したように、マリナは楽しげだった。しかし、その笑顔が次第に陰る。
「オカモトくん……」
俯いて、わずかに開いた唇が震える。
「本当はこんなこと言いたくなかった。でも、ユキちゃんにはきっちり伝えるべきだと思ったから、だから言っちゃう」
マリナは顔を上げ、決意に満ちた目を向けた。
「私、オカモトくんのことが好き。ずっとずっと、好きだった。これからもずっと好き。ユキちゃんだけじゃないんだから」
風が吹き、長い髪がなびく。その先にある姿をマリナは横目で捉えた。しかしそちらは見ずに、ユキの墓へ向き直る。
「だから、ユキちゃん。オカモトくんをください」
マリナは深々と頭を下げた。
「何やってんだ?」
「ん、ひみつ」
隣に立ったオカモトは、マリナを珍しいもののように見ていた。
「ヘンなの」
花と線香を供えてから、オカモトも手を合わせた。
撃たれたオカモトは奇跡的に一命を取り留めた。キザキはすぐに逮捕された。入院中も警察の取り調べが続き、心身共にすっかり参ってしまったオカモトを、マリナはそばでずっと支えていた。
ユキが死んでから一年が経とうとしていた。彼女がいない世界は、特に大きな変化もなく続いている。
しかしオカモトにとってのこの一年は、大きな変化であった。激動の連続であったが、それを乗り越えた今、彼はずっと強くなった。それに、大切な人もできた。
突然、携帯電話が鳴り出した。オカモトのポケットからだった。
三回目のコールで電話を取ると、聞きなれた声だった。
適当に相槌を打って、電話を切った。
「編集から?」
「そう。また修正だって」
やれやれ、とため息をつくオカモトだが、その表情はどこか楽しげだった。
「それじゃあ、もう行くね。また来るよ」
ユキに別れを告げて、二人は手をつなぐ。マリナの薬指で指輪が光った。
一度、オカモトは足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
オカモトの視線の先には、墓石が一つ。それだけだった。
「……いいや、何でもない」
ユキが死んだら、どうやって生きていくのか。
その答えを教えてくれる人はいなかった。それは自分で見つけるものだった。
オカモトの中には、すでにその答えがある。
「俺はこれからも生きていく。マリナと一緒に」
オカモトは強くマリナの手を握った。マリナも同じように握り返す。
晴天の下、彼は生きる意味を強く感じていた。
いつか死にゆく俺たちは 竹内るい @bonjin-51
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