百八十三 海魔の領域
流されだした船に先駆けて海原を突き進んでいた紅は、ふと前方に違和感を得た。
抜けるように晴れ渡った空がとある地点を境に途切れており、次第に暗雲立ち込め、強風と白波が混じり始めたのだ。
嵐の兆候を感じ取った紅は雨に濡れることを嫌い、水中呼吸の魔法をまとって備えると、うねる高波の真っ只中へ飛び込んだ。
たちまち吹き付ける向かい風を、ものともせずに乗り越えていくことしばし。
やがて雷鳴と共に横殴りの豪雨が降り注ぐ中で姿を現したのは、海をくり抜いたかのような巨大な穴。
深いすり鉢状の大口を開けて待ち受ける、禍々しい大渦潮であった。
行方不明になった船は、歌声にて動きを封じられた後、この渦に吸い込まれて果てたのだろう。
紅が渦の端へ到達した頃には、その鋭敏な感覚はすでに何者かの存在を捕らえていた。
大渦の中心にて、この怪異を引き起こしているであろう元凶。
それは、人魚のように優美な女性の上半身だった。
ごうごうと逆巻く激流の中で祈るように手を組み、均整の取れた裸身を晒して儚げな旋律を紡いでいる。
歌詞は紅の知る言語ではなく、内容は汲み取れなかったが、人々の意識を奪う以上は何らかの悪意が込められていると見ていいだろう。
「船幽霊の類かとも思いましたが。どうやら実体はあるようですね」
ならば斬れぬ道理は無し。
くすりと笑みを一つこぼすと、紅は微塵もためらうことなく大渦へ身を投じ、歌い手目掛けて急降下する。
紅い刃がその首を捉えようとした刹那、突如渦を割って何かが飛び出し斬撃を弾いた。
「これはこれは」
嵐と大渦に紛れて気配を悟らせなかったらしい。
宙へ打ち上げられた紅が把握したのは、歌い手の下半身から生える無数の太い触手の群れ。全貌は海に隠れて見えず、水竜をも凌ぐかと思わせるほどの広範囲を埋め尽くしていた。それらを水面下で回転させることで大渦を巻き起こしているようだ。
触手の先端はいずれも巨大な口になっており、鋭い牙が何重にも並んでいる。怪物の目的と、犠牲者の末路が容易に想像がつく醜悪な形状であった。
「惑わし、引き寄せ、喰らう。お手本のような
空中で身を捻り、雨粒を蹴って軌道を変えた紅は満面の笑みを見せ、改めて怪物に挑む。
迎え撃つ触手の群れが、恐るべき牙を剥いて一斉に襲い来る。
「ですが」
紅は冷静に攻撃の軌道を読み、軽やかに触手を足場として次々飛び移ってすり抜けると、渦を巻く濁流に着水した。
同時に、鎌首をもたげていた触手の群れを引き裂くように斬閃が奔り、一瞬でばらばらの肉片と化してゆく。
しかしそれはほんの一部だったようで、続々と追加の触手が湧きだして来る。
それを想定していた紅はすでに次の行動に移り、渦の外周に沿って螺旋を描きながら下降を始めていた。
高速で滑り落ちる紅の背後を追いかけて無数の斬撃が煌めき、触手が海面へ出現することも許さず刈り取ってゆく。
「魚人の皆様に比べれば、何のこともありませんね」
瞬く間に渦の中心へ辿り着くと同時に、笑いながら歌い手を斬り捨てる紅。
海面から胴を切り離された歌い手は、優美な歌声から一変、凄まじい絶叫を放って輪郭を失い、ぼろぼろと暴風に散った。
すると直後に、真下からざばりと水面を割り、触手が幾重にも巻き付いて団子になったようなおぞましい巨躯が姿を現した。
「本体のお出ましですか。威勢だけは良いようですが」
怒りを孕んだ咆哮を上げる奇怪な口腔を前にし、紅はふっと嘲笑を浮かべる。
天候や人心を操る妙技は興味深かったが、いざ戦ってみれば隙だらけで、特筆するほどのことはない。
先日、さらに強大な深海の化身を相手取ったばかりなのだ。今更図体が大きいだけの相手に心が動くはずもなかった。
「興が冷めました。ごきげんよう」
一言別れを告げて背を向け、その場から姿を消す紅。
わずかに遅れて紅がいた場所へ突進した怪物は、荒波にぶつかった衝撃で全身に切れ目が入り、ぐずぐずに崩れ始める。
浮上した時点で、すでに斬っていたのだ。
名も知れぬ海の魔物は、憐れにも秒殺され、自ら生み出した大渦へと呑まれて消え果てた。
吟味することもなく怪物本体を沈黙させた紅は、渦を駆け上がり海上へと戻っていた。
「おや。妙ですね」
水飛沫を蹴って宙に舞いながら、こてりと小首を傾げる。
怪物を討ち取ったことで呪歌は止み、激しい嵐は静まり始めていた。
しかし大渦は未だに健在。慣性のままに回転を保っている。
こちらは魔法ではなく物理的に引き起こされたせいか、すぐに消え去る様子がなかった。
時が経てば自然と収まると思われるが、船が近くにまで迫っているのが確認できた。悠長に待っている余裕はあるまい。
これが自分と無関係な船であれば、紅は構わず見捨てていただろう。
単身なら岸まで辿り着くのは造作もないのだから。
しかし遊撃隊には多少なりとも愛着が湧きつつあり、広大な大陸を旅するにあたって案内人がいなくなるのも少々都合が悪い。
強引に海面ごと渦を斬り飛ばすことはできようが、この距離では船を巻き込む可能性が高く、そうなれば本末転倒である。
「はてさて。どうしたものでしょう」
珍しく迷いを見せた紅の元へ、甲高い少女の声が届く。
「紅様~! 船へ戻って下さ~い!」
今も渦へ引き寄せられている船から発された、アトレットの呼び声だった。
紅は思考を一旦棚上げし、素早く反応して甲板へと降り立った。
「お帰りなさい、隊長! 嵐が止んだということは、元凶は絶ったのですね?」
「はい。それで、どうかしましたかアトレット」
すかさず走り寄って確認を取るカティアへ頷くと、アトレットへ問いを飛ばす。
「さっすが紅様! 後はあの渦から逃げ切ればいいんですよね!」
「おや。何か妙案があるのですか」
「もっちろん!」
紅に水を向けられたアトレットは、大きく胸を張った。
「今こそ出番だ! リューくん、ゴー!」
上空を飛んでいたリュークが合図を受けると、旋回して船の後方へ急降下し、派手な水柱を上げた。
ざばんと船を揺らす波を発生させた後、水鳥のように海面に浮かんだリュークは姿勢を整え、船尾に前脚と首を押し付けがっしりと固定する。
それを確認したアトレットが大声で叫ぶ。
「リューくん頼んだぜ! このピンチを打ち破れるのは君だけだ!!」
アトレットの鼓舞に呼応し、リュークが後ろ脚と尻尾を巧みに使ってざぶざぶと水を蹴りだすと、船が推進力を得て進路を変え、少しずつ渦から離れ始めたではないか。
「よっしゃー! いいぞー!!」
「なんと。このような特技があったのですか」
紅が感嘆の声を漏らすと、アトレットは得意気に鼻を鳴らした。
「むっふー! リーゼンブルグで待機中、暇だったんで人魚さんに泳ぎ方を習ったんですよ! そしたらめきめき上達しちゃって、ご覧の通り! リューくんは水浴びが好きなので、もしかしたらと思ったんです。試してみるもんですねー!」
「それはそれは」
普段から率先してリュークの世話をしているアトレットならではの着眼点である。
飛竜は水に馴染みがないものという先入観を持っていた紅では、とても思いつかなかっただろう。
「この短期間で泳ぎを覚えるとは。大したものです」
甲板で失神している隊員達より、よほど目覚ましい成長を見せるリュークに、紅は素直に喜びを露わとした。
「いっけぇ、リューくん! このまま脱出だー!!」
アトレットの応援に気合いの咆哮を返すリュークの奮闘により、船は魔の海域からの離脱に成功したのだった。
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