百八十二 凪ぎの訪れ

 領主アルフレドを始めとしたベルンツァの住民に惜しまれつつ出航した遊撃隊は、ウィズダーム方面最寄りの港を目指し、沿岸沿いに北東へ進路を取った。


 港を発って数日。

 今回は何事もなく順調な航海が続く中、甲板の上では激しい金属音が絶え間なく鳴り響いていた。


 船の仕事は専属の船員が受け持っているため、暇を持て余した遊撃隊は時間を有効利用するべく紅に稽古を願い出たのだ。


 これまでも折を見て、己の鍛錬のついでに相手をしていた紅は快諾し、デッキブラシを片手に隊員達をあしらっている。


 しばし好きなように打ち込ませ、守りに徹していた紅だが、隊員達が疲労から攻撃の手を緩ませたわずかな隙を突き、鋭い一閃で全員の足を一斉に払って見せた。


 勢いよく転倒した隊員達はそれぞれ間抜けな悲鳴を上げて、ずるずると甲板へと沈んで行く。


「皆様集中が途切れた様子。ひとまず休憩としましょう」

『……ありがとうございました……』


 そう言い置いてくるりと背を向ける紅に、遊撃隊は死屍累々といったていで、息も絶え絶えに礼を述べた。


「……まあ、こうなるだろうよ……」

「少しは上達したかと思ったんだがなあ……」

「まだまだ足手まといから抜け出せねえか」

「諦めることなかれ……女神の御業に触れれば、いずれ武力向上のご利益あり……」

「そう信じたいねえ……」

「これだけしごかれてんだ。前よりは動けるようになってる気はするけどな」

「隊長ほどの達人と手合わせできることなんざそうねえし、この経験は無駄にしたくないもんだぜ」

「同感だ。一丁気合い入れ直すか」


 互いを鼓舞するように言い合い、満身創痍ながら熱心に反省会を始める隊員達。


 紅から見ればまったく進歩していないも同然であったが、本人らが前向きになっているところへわざわざ水を差すこともあるまいと、敢えて口を挟まなかった。


 彼らは戦闘の基礎は備わっている。向上心さえ絶やさなければ、いずれ芽吹くこともあろう。


 紅は弟子を取ったつもりはなかったが、師がまだ未熟だった己に見ていた光景は、まさにこのようなものであったかも知れないと考え至り、珍しく感慨深い気分に浸った。


 しばし師の行方に想いを馳せた後、ふと稽古中に浮かんでいた疑問を口にする。


「それにしても。船が止まっているように思えるのは気のせいでしょうか」


 天候は雲一つない快晴。

 そよ風すら感じ取れず、海面に波が立つこともない。あまりにも穏やかに過ぎ、不気味ですらあった。


「隊長、気のせいではありませんよ。先程から沿岸の景色がまったく変わっていませんから」

「申し訳ありません、大佐相当殿。当船は完全な凪ぎに入ってしまいました」


 付近で話し合いをしていたカティアと船長が、紅の呟きを聞き止めて応じた。


「この時期に無風になることなど滅多にないのですが……潮流も以前通った時と違いますし、どうにも嫌な予感がします。現在オールを用意させているので、配置が済み次第全速力で離脱しましょう」

「船乗りとしての勘ですか」


 紅が聞き返すと、船長は浮かない顔を見せて語り出す。


「それもありますが、一つ思い当たる不吉な言い伝えがあるのです。もしも不自然に凪いだ海域に出くわしたら、すぐに逃げなければならない。それは災いの前触れで、留まれば恐ろしい目に遭う、というものです」


 げんを担ぐ船乗りらしく、海にまつわる伝承を持ち出す船長。得てして、そういった逸話にこそ教訓が含まれていると熟知するが故だろう。


「ああ。その手の怪談なら、昔商船の護衛をしてた時に聞いたことがありますよ」


 甲板に寝転がっていた傭兵上がりの隊員が、そのままの姿勢で挙手する。


「何でも凪ぎから抜け出せないと、その内歌声が聞こえて来るとか」

「私もイスカレル大佐から似た話を聞きました。歌声に気を取られると、行方不明になってしまうそうです」


 カティアも同意すると、船長は大きく頷いた。


「様々に尾ひれはついていますが、海の怪異として有名ですからね。自分で実際に遭遇するのは初めてですが。ともあれ、状況は酷似しています。緊急事態と言えるでしょう」


 内心切羽詰まっているだろうに、船長は表向き冷静さを保っており、熟練の貫禄を覗わせる。


 手漕ぎで進むため、船員が帆をたたみ終えた頃、紅はふと問いを発した。


「歌、ですか。今聞こえているものがそうでしょうか」

「……え?」


 カティアが一瞬硬直し、耳を澄ますと、途端に顔が青ざめる。


 紅が耳にした、人のものとは微妙に異なる声質の旋律を聞き取ったのだろう。これで幻聴の線はなくなった。


 同時に、異変はすでに訪れていた。


 きびきびと指示を出していた船長や、慌ただしく動き回っていた船員達が急に動きを止め、皆同じ方角へ向いて虚ろな表情を晒したのだ。


「聞こえる……」

「呼んでる……」

「行かなきゃ……」


 明らかに尋常ではない様子でうわ言を口にし、ふらふらと海へ歩き出す。いつの間にか遊撃隊も立ち上がり、その列へ加わっていた。


「ちょっと、皆どうしたの!?」

「こらー! そっち行ったら落ちるって!!」


 狼狽したカティアとアトレットが男達を引っ張るが、力で及ぶはずもなく乱雑に振り払われる。


「どうやら殿方にのみ有効な術のようですね」


 自分を含めた女性が無事なことからそう分析した紅は、生ける屍のようになった男性陣に次々と当て身を入れ、瞬く間に昏倒させた。


「これで入水じゅすい自殺は防げるでしょう」


 乱暴ながらもひとまずの安全を確保した直後、停まっていた船がぎしぎしと揺れ動き、何かに引っ張られるようにして移動を始めた。


「おや。早くも次の手札を切ったようですね」


 意外な展開にわくわくと顔を綻ばせた紅は、残った人員へ簡潔に指示を下す。


「二人は皆様の見張りを。リュークは船を守っていて下さい」

「はーい!」


 アトレットの元気な返事と同時に、上空から咆哮が轟いた。


「た、隊長はどうなさるのです?」

「知れたこと。元を絶って参ります」


 戸惑うカティアの問いに紅は声を弾ませると、迷わず甲板を蹴って大海原へ舞う。


 そして正気を失った者達が向いていた方角目掛け、疾風と化して海面を滑るように走り出した。

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