百 氷雪襲来
グルーフ要塞跡地周辺に展開したユーゴー少佐率いる公国軍は、順調に駐屯地の設営を進めていた。
物資を抱えた後続隊が次々と到着し、ミザール原野の兵站線も徐々に整備されつつある。
すでにワーレン要塞から本隊が出発したとの伝令も入っており、あと一週間もせずに先遣隊が到着して、前線の構築を始めるだろう。
そうなれば紅も警護からお役御免。晴れて次の戦へ向かうことができる。
グルーフ要塞での激戦から二週間弱。
その間紅は、毎日のように送り込まれる帝国の斥候を狩って飢えを紛らわせていたが、そろそろ本格的な戦場が恋しくなってきていた。
「こうも平和に過ぎると、腕がなまってしまいますね」
紅は周囲一帯を見渡せるよう、瓦礫の山の上に陣取って見張りに付いていた。
元々雨の少ないミザール原野は今日も晴天にして、青空には雲の一つも浮かんでいない。
眼下では公国兵に遊撃隊が混じって忙しなく設営作業に従事している。
ユーゴーやカティアら将校は指示を出すのに精を出し、アトレットを乗せたリュークも資材の搬送などで大奮闘を見せていた。
斥候が戻らず情報が得られないためか、帝国軍が攻めて来る様子はまったくなく、彼らの作業を阻害する要素は何一つ見当たらなかった。
全ては順風満帆、事も無し。
護衛をするにあたっては、万事平穏であるに越したことはない。
だがそれは、紅にとってはあまりに退屈に過ぎた。
いっそのこと、次に斥候を見付けてもわざと見逃した方が面白いことになるだろうか、などと悪戯心が芽生えてくる始末。
暇を持て余した紅が恋焦がれる乙女のように、次の戦場となるアッシュブールへ想いを馳せていると、不意に空が
皆が不審に思ったようで作業の手を止める中、紅は上空から接近する気配にいち早く気付いた。
風を切り裂き、急降下する巨大な何か。
そう紅が判断した刹那、それは姿を現すと同時に広範囲へ激しい氷雪を巻き起こして、周辺一帯を瞬時に凍て付かせたではないか。
巨体が駐屯地の上を通り過ぎ、一通り吹雪を浴びせかけると、再び天高く上昇して行く。
紅は素早く吹雪を斬り散らして無事であったが、公国軍は皆ぴくりともせぬ氷像と成り果てていた。
「──初めまして、悪魔ちゃん。ご挨拶の一発はいかがだったかしら」
頭上から降りかかって来た女の声に反応して空を仰げば、ばさりばさりと風切り音を響かせる巨大な竜が滞空していた。
「あらあら。実際に見ると本当に可愛いわね~。悪魔と言うより天使じゃない!」
紅の美貌を見るなり、歓喜の声を上げる女。
「噂通りなら貴方は無事だろうとは予想してたけど、お仲間は全滅しちゃったわね。残念でした~」
「はて」
続けて女は煽るように茶化すも、紅は愛らしく首を傾げたのみ。
「特に仲間意識はありませんが。一応頼まれた分のお仕事は果たしました」
そう呟いた紅の右手には、いつの間に抜き放たれたのか紅い刀が握られていた。
すると同時に、周囲の氷漬けだった兵らがばきん、と派手に砕けて氷片を撒き散らし始める。
「あっはは! 凄い凄い! 今の一瞬で全部斬ったの? でも可愛い顔して酷いことするのねー。なぁに? 頼みって、死ぬときは楽にしてくれってこと?」
女が紅の所業を嘲笑うのを他所に、氷像は次々と砕け散って行く。
──否。
「……ぶえっくしょん!!」
「うおお、つめてぇ! 何だったんだ今のは!?」
「やっと息ができた……」
「死んだ! 一瞬マジで死んだわ!」
ややあって、辺りに積もった氷片を押し退けて、次々と兵が姿を現し騒ぎ始めた。皆、己に何が起きたのか理解していないだろう。
砕けて見えたのは表面のみ。
紅は兵達が内部まで完全に凍り切る前に、薄皮一枚分の氷の層を削り取っていた。
少しでも狙いが狂えば、中の人体に害が及ぶ繊細な作業を、一刀の元にこなして見せたのだった。
「へぇ……本当に凄い。技もだけど、ゆっくり侵食する氷のブレスの特性を一目で見切るなんて」
竜の首筋を撫でながら感心した声を出す女を見て、氷漬けから復帰したユーゴーが叫ぶ。
「青い竜だと!? まさか氷竜か! と言うことは、貴様は三騎将の一人だな!」
その言葉を聞き、公国兵が一気にざわめいた。
三騎将の名とは恐怖の象徴。それが突然目前に現れて動揺しない者の方が稀であった。
「うふふ、そうやって慌ててくれると張り合いあるわー。そこの物知りおじ様の言う通り。私が帝国三騎将、フィオリナよ。短い付き合いだと思うけど、よろしくね」
群衆を見下ろしたまま、さらりと長い銀髪をかき上げて自己紹介をする様は堂に入っており、その美貌もあって見惚れる兵が続出した。
「ふふ。ようやく大物のお出ましですか。彼女は約束を守ってくれたようですね」
撒き餌として見逃した帝国の女将校を想い、紅は嬉し気に笑みを浮かべる。
「フィオリナ殿と仰いましたか。ここは邪魔者が多いので、場所を移しませんか」
「えー? 別に私はここでいいわよ。ギャラリーは多い方がいいじゃない。それに公国軍はどうせ皆殺しにするんだし、まとめて片付けた方が楽だもの」
紅の提案に、酷薄な返事を投げるフィオリナ。
「それとも、お仲間を守りながら戦うのは大変ってことかしら? 悪魔ちゃんってば意外と人情家なのね」
「いいえ。守るつもりであれば、すでに問答無用で斬り捨てています。あなたはせっかくの獲物ですから、周りを気にせずじっくりと死合いたいのですよ」
「……それ、本気で言ってる?」
微笑みながら発した紅の言葉に、ぴくりと反応したフィオリナは真顔になっていた。上から目線の発言を受けたのが心外だったのだろう。
「はい。さぞかし愉しませて頂けるだろうと期待しております」
「あ、そう。じゃあこうしましょうか」
にっこりと笑みを浮かべたフィオリナは、見惚れていた兵達が一転怖気を感じる程の殺気を放った。
「この場の雑魚を先に全部片付ければ、邪魔者はいなくなるわよね?」
「──まずい! 総員退避! 退避だ!」
氷竜の迫力に呑まれていたユーゴーが危険を感じて号令を出すも、時すでに遅く。
口内へ息を溜めた氷竜が吹雪を吐き出す姿勢に入っていた。
「あっははは! さっきの小手調べとは違って本気で行くわよ! やりなさい、ヘルヘイム!」
名を呼ばれた氷竜がブレスを放出する寸前、その顎が凄まじい衝撃を受けてかち上げられ、空中に向けてぶしゅうと呆気なく吹雪が霧散した。
「ちょ、何……!?」
勢いのまま縦に回転する氷竜から振り落とされないよう、手綱を強く握るフィオリナの眼前には、いつの間にか紅の姿があった。
ブレスを吐かれる前に岩山を蹴って瞬時に宙へ舞い、刀を返して強烈な
「言って聞かないのなら、少々強引に移動させて頂きます」
紅は滞空した状態で、未だ態勢を崩したままの氷竜を激しく殴り飛ばし、瓦礫の山の遥か向こうへと追いやった。
「隊長! ご武運を!」
「紅様なら余裕だって信じてます!」
紅が地面に着地すると、カティアやアトレットら遊撃隊が整列して敬礼を取っていた。
「カティア。皆様を連れて後方へ退避していて下さい。また凍られても面倒ですので」
「は!」
紅は顔だけそちらへ向けて指示を一つ出すと、にこりと微笑んだ。
「それではいざ。推して参ります」
言うが早いか、紅は氷竜を追って走り出し、瞬く間に姿を消していた。
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