六十一 信奉者
「……何と凄まじい……」
第4軍の包囲を完成させた後、要塞本隊の後方から主戦場を観察していたキール中将は、思わず感嘆の吐息を漏らした。
帝国陣地に侵入した黒衣の少女──紅は片手に紅い刃をぶらさげ、ゆったりと歩いているだけに見える。
しかし彼女の周囲を隙間なく塞いだ帝国兵が次々と襲い掛かる度、何の予兆もなしにその身が千切れ飛んで行く。
そもそもが、鋼鉄の鎧を着込んだ人間を一刀両断にすること自体、至難の
それを紅という少女は、一人と言わず、壁となって押し寄せる何十もの兵士を一瞬の内に斬り刻んでしまうのだ。
なんと苛烈にして鮮烈な剣であろうか。
あれでは確かに、味方の兵を送っても邪魔にしかなるまい。参謀本部の判断は正しかったと言えよう。
キールはその技の一端でも捉えようと、終始瞬きも忘れて魅入っていたが、結局剣を振るう様すら視認できなかった。
ただ一つ分かったのは、飛び散る血飛沫と肉片、臓物に囲まれてさえ、彼女の美しさは一点も損なわれず、むしろその輝く笑顔が際立っていたということだけ。
こうなると、彼女は本当に戦神の化身であり、魔法でも使っているのだと説明された方が納得しそうな程である。
その思いは周囲の兵も同様であったようで、紅が第4軍を全滅させてからしばらく、誰も声すら発せなかった。
そこへ東軍の一部が
恐らく紅配下の遊撃隊の面子であろう。
その騒ぎのお陰で我を取り戻したキールは、部下達へ朗々たる声で告げた。
「我等が勝利の女神によって、第4軍の撃滅は成った! 勝鬨を上げよ! 我等の勝利だ!」
キールの一声によって呪縛を解かれ、全軍がわっと喝采に包まれる。
その最中、キールは直下の部下に命じて、すかさず駐屯地跡を占拠させた。
これにより、ルバルト平野における勢力図は完全に書き換わり、公国の支配下へと戻ったことになる。
戦争開始以降、公国が初めて帝国から領土の一部を奪還した、歴史的瞬間であった。
幹部達も勝利の余韻に浸りつつも己の職務に取り掛かり始めると、次々とキールの元へ情報が集まって来る。
「第4軍の奇襲には肝を冷やしましたが、実際の我が軍への被害は1割強と思われます。当初の見積もりより、ずっと少なく済みましたな」
「うむ。紅大尉相当の働きによるところも大きいが、西軍へ向かった重装騎兵隊を食い止めてくれた一角騎士団にも感謝せねばな。後程挨拶に向かおう」
「閣下。駐屯地を占拠すると同時に、北の街道に斥候を放ちました。脅威が確認されなかった場合、無傷の兵をもって一気に戦線を押し上げることも可能かと」
「街道にはいくつか砦が配置されていたはずだな。その手前で前哨基地を作る準備を進めておけ。先発隊にはくれぐれも先走らないよう言い含めておくように」
「北のグルーフ要塞にどれだけの戦力が残存しているかわからない以上、ここは慎重に行くべきですな」
「その通り。一矢報いたとは言え、我が軍が置かれた状況は未だ厳しい。兵達にも浮かれ過ぎないよう釘を刺しておかねばならん」
馬を進めながら、矢継ぎ早に求められる指示にてきぱきと答えていくキール。
その
無理もない。
ここ数ヶ月、ずっと水面に向けて押さえ付けられていた頭をようやく上げることができたのだ。
一時は要塞陥落の危機さえ感じていたはず。
その重圧から解放された喜びは
帝国が次にどういった手を打って来るかは不明だが、第4軍の壊滅はかなりの打撃になったに違いない。
しばらくは兵の休養に回す猶予はあると見てよい。
かくいうキールも、今にも気を抜けば全身脱力しそうなところでぎりぎり耐えている。
しかし歓喜を発露するのはまだ早い。司令官としての責務を果たしてからだ。
キールが駐屯地に到着した頃には、すでに死体や瓦礫の撤去作業は始まっていたが、数が数の上、死体は原型を留めていないものの方が多く、処理に手間取っていた。
やむなく駐屯地を大きく迂回して北側へ向かうと、一団に囲まれて笑みを見せる紅の姿を発見した。
キールはその付近まで寄って下馬すると、紅を囲む一団へ向けて声をかけた。
「歓談中失礼する。私はワーレン要塞を預かるキール中将である。紅大尉相当と話がしたい。道を開けてもらえるかね」
「ちゅ、中将閣下!?」
「ど、どうぞどうぞ!」
キールの名乗りに驚愕し、遊撃隊員達が慌てて左右に割れて場所を譲る。
軽く顎を引いて頷きを返すと、キールは作られた道を進み紅の前へと立った。
果たして、そこには老齢のキールからすれば孫と言っても差し支えない年頃の少女が、愛らしい顔を傾げていた。
「はてさて。お偉い方が私に何の御用でしょう」
耳に心地良い涼やかな声音で尋ねて来る少女は、本当に先程まで魔神の如くに暴れ回っていた者と同一人物かと疑問が浮かぶ程に可憐であった。
一時その美貌と楚々とした居住まいに見惚れたキールだったが、何とか自我を踏み留めて威厳を保とうと試みた。
「此度の最大の功労者に、礼の一つも贈りたいと思うのがそんなに不思議かね?」
「礼など不要ですよ。私は好きで戦に身を置いております。むしろ戦を仲介して下さる皆様に感謝したいくらいです」
くすくすと含み笑いを漏らして答える紅の言は、確かに参謀本部からの資料にあった通りの性格を覗わせた。
「特に此度のお相手は、皆様気骨のある方ばかりでしたから。とても愉しませて頂きました」
「そ、そうか。それは何よりだった」
長い間苦戦していた相手を、人形遊びのようにあっさり片付けた少女の言葉に思うところはあったが、それを表に出す程キールは浅はかではない。
何とか笑みを作って返答する間にふと妙案が浮かび、再び礼について話を切り出す。
「戦えれば満足故に礼は不要、と言う理屈はわかった。では、礼を言うのも、私が好きでやることだ。それなら文句はあるまい?」
「これはこれは。一本取られました。そういうことであれば、お受けしない訳にもいきません」
にこりと少女が微笑むのを見て、キールは安堵した。
「ではお手を拝借してもよろしいかな」
「どうぞ」
キールが断りを入れると、剣を扱っているのが信じられない程白く美しい手が差し出された。
遠慮がちにキールはその小さな手を取りながら、血だまりの中へ
「紅大尉相当。いや、我等が勝利の女神よ。この度の尽力、及び戦功に誠に感謝致します。貴女こそ真の救世主。このご恩に報いるため、私は貴女の望む戦場を提供するべく尽力することを誓いましょう」
キールが胸に抱いていた無意識の信仰が、確かな形となって表に出た瞬間であった。
口調すら改め、丁寧に口上を述べるキールの予想外の行動に、着いてきた側近が慌てふためいた。
「か、閣下!? 傭兵相手に頭を下げるなど……!?」
「そうです、おやめ下さい!」
そう言って制止しようとするも、キールは彼らを睨んで制止した。
「私の裁量の範囲で礼を尽くしたに過ぎん! 誰にも咎められる筋合いはない!」
普段温厚なキールが声を荒げて断言すると、側近も青ざめて口を閉ざすしかなかった。
「ふふ。つくづくこの国のお偉方は変わり者が多いようですね。このような流れの一剣士をこぞって持ち上げるなど」
愉快そうに笑う紅へ、キールは猛然と
「とんでもない! 貴女はまさに一騎当千……いや、戦そのものを平らげる、言わば一騎当戦とも呼べる真の猛者! どうかご謙遜なさらずに」
「おだてるのがお上手ですね。ですが慢心は剣を鈍らせます。私は未だ修行中の身。そのくらいの気構えでいる方が良いのです」
意気込んで褒め称えたキールの言を紅はすぱりと否定した。
しかしそれすらキールの信仰を強める糧となる。
「なんと崇高な
「それはそれは。楽しみにしております」
「ありがたき、お言葉……!」
紅の喜びに弾む声と
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