五十 悪魔の影

「失礼します、閣下。伝令より緊急の報告が入っております」


 帝国第4軍司令官ゴルトー少将の天幕に遠慮なく入り込んだクレベール少佐は、端正な顔に何も表情を浮かべることなく用件を告げた。


「緊急と言うからには、貴官ももう少し態度に表したらどうなのだ」


 ゴルトーは苦笑しつつ美貌の副官へ視線を向ける。


「慌てて事態が好転するならそう致しますが」

「ああ、言うだけ野暮だったな」


 取り付く島もないもっともな意見を無表情で返され、ゴルトーは頷くしかなかった。


 この彫刻のように美しい顔が驚愕に歪むことがあれば、さぞかし見物だろうなどと、よこしまな考えが浮かぶのを思考の端に追いやり、ゴルトーは真面目な態度を取り繕う。


「で、どのような内容だ」

「まず一つ。東西に進出した分隊の内、東の部隊が援軍ごと全滅したらしいとのこと」

「……何?」


 クレベール同様に、滅多なことでは動じることのないゴルトーでさえ耳を疑う話だった。


 東へ援軍を出してから、まだ二日程しか経っていない。先行部隊との合流完了報告すら受けていないのだ。砦群へ侵攻を開始したはずもない。


 そこから導き出される答えは一つ。


「……こちらが動く前に野営地が潰されたか」

「恐らくは。しかし定時連絡に向かった伝令は、大規模行軍の痕跡を見ておりません」

「つまり少数精鋭、あるいは単独による強襲。……悪魔の仕業という訳か」

「その可能性が濃厚でしょう」


 クレベールの同意を受け、ゴルトーは拳を握り締めて天幕の天井を睨んだ。


「万単位の軍を蹴散らすなど、アレスト少将の誇張報告だとばかり思っていたが……これは考えを改めねばならんな」


 拳を手の平に打ち付け、悔しさを紛らわせるゴルトー。


「決して侮った訳ではなかった。そのためにシャーレス少佐に戦車まで預けたのだからな。しかし、この様子では役に立たなかったようだな……」

「それどころか、敵に鹵獲ろかくされた線を考慮するべきでしょう。増援が応戦したと思われる戦場跡に、戦車の残骸は確認できなかったとのことですから」

「あれを無傷で鹵獲するだと? 個人の力でどうこうできるものではないぞ!」

「閣下、お静かに。報告には、戦場跡付近に巨大な谷が存在していたともあります。一計をもってそこへ落とされた可能性も」


 クレベールはゴルトーをなだめつつ発言を続け、一拍空ける。


「ただ、先行部隊からそのような地形は報告されていない、というのが気にかかりますが」

「まるで悪魔が地面を両断したとでも言いたそうだな」

「……いいえ。流石に現実的ではないでしょう」


 ゴルトーが意地悪く問うも、クレベールはかぶりを振って否定した。


「まあ良い。いや、良くはないが、済んだことはどうにもならん。それよりも今後の話をする方が建設的だ」

「仰る通りです」


 努めて平静であろうと息を整えるゴルトーに、クレベールが頷いて見せた。


「む。そう言えば少佐。先程まず一つ、と言っていたな。まだ悪い報せがあるのか」

「はい。西側の部隊の件です」


 資料をめくりながらクレベールが返答する。


「こちらは東の部隊が壊滅していることに気付かず、定刻通りに作戦を開始した模様。ところが公国軍の中に聖王国の部隊が多数混ざっており、数の優位を覆されたとのことです」

「ちっ、援軍を呼んでいたか!」

「西は聖王国との国境が近いですからね。派遣も容易だったのでしょう。その結果、砦をすり抜けるルートも塞がれ、事実上の消耗戦となり、我が軍が圧倒的に不利な状況下にあります」


 本来であれば、ここが後方攪乱隊の出番であったが、黒蛇が壊滅した今では打つ手なしかと思われた。


 押すか引くか。ゴルトーは苦渋の選択を迫られた。


「……少佐。仮に西側の分隊が破れた場合、次に公国が取るであろう動きを予測してみよ」

「僭越ながら。東西の分隊を撃破した公国は、憂いなく砦の全戦力を我が軍の包囲に投入することが出来ます。そこへ主戦力であるワーレン要塞の部隊を展開することで、総力戦に持ち込む可能性を提示致します」

「うむ……その際の兵力差は?」

「我が第4軍の残存兵力5万に対し、公国側は聖王国の援軍を加え、およそ9万を確保するものと思われます」


 淡々としたクレベールの言を受け、ゴルトーは顎に手をやり、卓上の地図を睨んでしばし黙した。


「……西の分隊は即時撤退。本隊と合流させよ」


 やがて決断し、苦々しい顔で命令を下す。


「勝つ見込みのない戦で兵を消耗させる訳にはいかん」

「は。すぐに伝令を」


 その命令を予期していたように、淀みなく手配を進めるクレベール。


 今回の作戦は、黒蛇の存在が敵に露見した時点で破綻していたのだろう。

 ゴルトーはそう認めざるを得なかった。


 それも元を辿れば悪魔の影がちらついている。


「……悪魔、悪魔、悪魔! 気付けばいつも奴が絡んでいるではないか!」


 ぎりりと奥歯を噛み締めるゴルトーが掴んだテーブルの角が、ばきんと音を立てて砕け散った。


 しかしクレベールが予測したように、ワーレン要塞の主力が外に出てきてくれるならば、それはそれでありがたい。

 これまでは鉄壁の籠城戦を決め込まれていたのだから、よほどやり易いというもの。


 駐屯地ここが戦場となれば、悪魔もその実像を現すだろう。


「その時は、おれがその首を刎ねてくれる……!」


 猛将の威信にかけて退く気はさらさらなく、ゴルトーは静かな怒りを胸の内に貯め込んだ。

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