四十四 抜け駆け
ベイル砦で一晩を明かした紅とカティアは、朝食が済んだ後に執務室へ呼ばれていた。
「よく来てくれた。紅大尉相当。カティア少尉」
立ったまま二人を出迎えたのは、砦の指揮官であるユーゴー少佐ではなく、副官エイベル大尉のみであった。
「ああ、そう怪訝な顔をしないでくれ。少佐は二日酔いで潰れているのでな。代わって私が現状を説明することになった」
恐らく動けないのは二日酔いのためだけではないだろうが、最低限の面子を保つためにそういうことにしたらしい。
エイベルは苦笑すると、二人を応接テーブルへ着席させた。
「よくあの様で指揮官が務まっていますね」
早速余計な突っ込みを入れる紅にカティアがぎょっとした表情を見せるも、エイベルは言われ慣れているのか、さして気にした風もない。
「手厳しいな、紅大尉相当は。少佐もあれで、酒さえ入ってなければそつのないお方なのだ。それに開戦以降、この辺りは戦闘区域になっていない。言ってみれば閑職だった。それほど不都合のない人選だったのだよ」
「なるほど。暇に明かせて酒に溺れた結果があれですか」
テーブルに資料を広げながら弁解するエイベルに、忌憚ない見解をぶつける紅。
「ふっ。昨晩の上官への暴力といい、本当に容赦がないな、貴官は。羨ましいくらいだよ」
「はて。皆様もそう振る舞えばよろしいだけでは」
「誰もが隊長のように強くはないんですよ」
カティアが遠慮がちに紅の袖を引き、話の腰を折るなとばかりに目で訴えた。
「その通り。我々弱者は寄り集まって協力せねばならない。軍としては尚更な。しかし無秩序に集まっても烏合の衆が生まれるだけだ。そのために軍規がある」
「窮屈な生き方ですね。私には到底真似できません」
「隊長、流石にこれ以上は失礼ですよ! 大尉殿、構わずお話を始めて下さい」
見かねたカティアが紅の口を塞ぐと、エイベルは微笑ましいものを見たとばかりに笑顔を作った。
「貴官らは仲が良さそうで結構だ。では始めさせてもらおう」
資料の一枚を手に取ったエイベルはテーブルに広げた地図を指差しながら説明を開始した。
「まず我が軍の現状だが。ここベイル砦の駐留部隊の兵数は5千。これに並列する同規模の砦の部隊を併せて、1万5千程の守備隊が麓の防衛戦を構築している」
エイベルの指先が、森と平地の境界に点在する砦を差して地図上を滑る。
「本来はこれに加えて山中の砦からも増援を出すはずだったが、紅大尉相当の働きによって密偵の存在が明るみとなり、現在参謀本部の判断待ちとなっている」
麓を差していた指が山中へ向かった。
「潜入していた敵部隊は紅大尉相当が殲滅してくれたとは言え、帝国は人材が豊富だ。もしかすると別動隊が送り込まれる可能性も捨てきれない。そうなると山中の兵を動かすのは難しいだろうな」
「帝国の兵力は判明しているのですか?」
所感を述べるエイベルに、カティアが控えめに問う。
「斥候によれば、北のルバルト平野に展開した帝国の分隊はこちらと同数程度だったが……それも先日までの話だ。今朝の報告で本隊より増員が向かっているとあった。合流すれば恐らく2万程になると思われる」
エイベルはそこで初めて厳しい表情を見せた。
「常であれば、単純に砦を死守すれば良いのだが。今回は地図が漏れていることもあって、敵の進軍ルートが非常に読みにくい。何しろ、これまで森は守備範囲外だったからな。かと言って兵を分散配置するにも、敵の方が数が多い。困ったものだ」
「厳しい戦いになりそうですね……」
公国の兵力が劣っているのは今に始まったことではない。そのためにここまで帝国の侵入を許してしまったのだから。
現在帝国第4軍を相手に持ちこたえているワーレン要塞ですら、ヘンツブルグ聖王国より派遣された増援部隊がいてこそ、ようやく均衡を保っている状態である。
少ない兵力をいかにして動かすかは、公国の尽きぬ命題であった。
「はて。悩むことがありましょうか」
地図を前に頭を抱える二人を他所に、それまで黙って聞いていた紅が不思議そうに首をこてりと傾けた。
「何か妙案が?」
すがるような視線を向けるエイベルに、紅は簡潔な答えを返す。
「敵の所在は明らかなのです。動く前に潰してしまえばよいのでは」
「それが出来るなら苦労は……」
「私が参ります。密偵との戦闘では物足りなかったので。もう少し動きたい気分だったのです」
エイベルの言葉を半ばで遮り、紅は席を立った。
「まさか、今から!?」
「はい。善は急げと申しますし」
「隊長、我々は……」
「遊撃隊は砦の防衛準備を手伝って差し上げて下さい。無駄になるかも知れませんが」
エイベルとカティアの問いにぽんぽんと答えると、紅は執務室の窓をがらりと開け放った。
「待て待て! そこから出て行くつもりか!? 三階だぞ!? いや、それ以前に参謀本部の指示がまだ……!」
「また置いてきぼりですか!?」
「それでは、一番槍貰い受けます」
二人の制止も聞かず、紅は溌剌とした笑顔と共に、颯爽と窓から飛び出して行った。
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